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岡田山おかだやま古墳こふん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
岡田山おかだやま古墳こふんぐん
岡田山おかだやま1ごうふん
別名べつめい 出雲いずも岡田山おかだやま古墳こふん
所在地しょざいち 島根しまねけん松江まつえ大草おおくさまち
位置いち 北緯ほくい3525ふん40.2びょう 東経とうけい13305ふん28.0びょう / 北緯ほくい35.427833 東経とうけい133.091111 / 35.427833; 133.091111座標ざひょう: 北緯ほくい3525ふん40.2びょう 東経とうけい13305ふん28.0びょう / 北緯ほくい35.427833 東経とうけい133.091111 / 35.427833; 133.091111
規模きぼ 前方ぜんぽう方墳ほうふん1えんふん6
築造ちくぞう時期じき 6世紀せいき
史跡しせき 1965ねん昭和しょうわ40ねん)4がつ9にちこく指定してい
1ごうふん・2ごうふん[1]
有形ゆうけい文化財ぶんかざい 出土しゅつどひん、1985ねん昭和しょうわ60ねん)6がつ6にち重要じゅうよう文化財ぶんかざい[2]
地図ちず
岡田山 古墳群の位置(島根県内)
岡田山 古墳群
岡田山おかだやま
古墳こふんぐん
島根しまね県内けんない位置いち
地図
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岡田山おかだやま古墳こふん(おかだやまこふん)は、島根しまねけん松江まつえ大草おおくさまち台地だいちうえにある7古墳こふんからなる古墳こふんぐん古墳こふんぐんだが「岡田山おかだやま古墳こふん」という名称めいしょうくに史跡しせき指定していされている[1]

概要がいよう

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北側きたがわの1ごうふん南側みなみがわの2ごうふんおよび5小規模しょうきぼ古墳こふんからなる。1ごうふんながやく24メートルのだんちくなり前方ぜんぽう方墳ほうふん1915ねん大正たいしょう4ねん)に発掘はっくつ調査ちょうさされた。6世紀せいき後半こうはんつくられた。内部ないぶ構造こうぞう全長ぜんちょう5.6メートル・たかさ2.2メートルのかたそでがた横穴よこあなしき石室いしむろ凝灰岩ぎょうかいがんによる組合くみあいしき(くみあわせしき)のいえがた石棺せっかんく。「ちょう宜子のぶこまご」のめいゆうするうちぎょうはなぶんきょう装飾そうしょく大刀たちたまきあたま大刀たちえんあたま大刀たちけいあたま大刀たち)・ぎんたまき金銅かなどうまるたまくつわくら金具かなぐくもたま(うず)・つじ金具かなぐすず須恵すえなどが出土しゅつどした。とくえんあたま大刀たち1983ねん昭和しょうわ58ねん)になってXせん撮影さつえい結果けっか刀身とうしんに「かく卩臣」(額田ぬかたしん)のぎん象嵌ぞうがんめいがあることが確認かくにんされた(岡田山おかだやま1ごうふん出土しゅつど大刀たち)。また、こうかん中国ちゅうごくせいとみられるうちぎょうはなぶんきょうには「ちょう子孫しそん」の銘文めいぶんえる。1ごうふん出土しゅつどひん1985ねん昭和しょうわ60ねん)に一括いっかつして重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている[3]石室いしむろは、玄室げんしつ四壁しへきおく技法ぎほう採用さいようされているてん柱石ちゅうせきりょうそでしきであることから、御崎おんざきさん古墳こふんおなじく九州きゅうしゅう地方ちほう石室いしむろとのかかわりが指摘してきされている。2ごうふん直径ちょっけい43メートル・たかさ6.5メートルのえんふん墳丘ふんきゅう中腹ちゅうふくいしれつ確認かくにんでき、埴輪はにわとみられる小片しょうへん確認かくにんされているが、発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれていない。

てつがたな銘文めいぶん

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1915ねん大正たいしょう4ねん)に発掘はっくつされた1ごうふん出土しゅつどひんの1つであったえんあたま大刀たちはその刀身とうしん先端せんたん部分ぶぶん破損はそんし、1983ねん昭和しょうわ58ねん)になって元興寺がんごうじ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ保存ほぞん処理しょりおこなうことになった。そのさいにXせんをあてたところ、ぎん象嵌ぞうがん銘文めいぶん見出みいだされた。現在げんざい確認かくにんされる部分ぶぶんは12文字もじだけであり、「かく卩臣」(額田ぬかたしん)のほかすう文字もじ確認かくにんできるだけで、解読かいどく不能ふのうもしくは困難こんなん文章ぶんしょう全容ぜんよう解読かいどくするにはいたっていない。また、破損はそん部分ぶぶんにも文字もじ記載きさいされていた可能かのうせいもある。額田ぬかたしんは『出雲いずもこく風土記ふどき』にも登場とうじょうする豪族ごうぞくで、記載きさいとしては隅田すみた八幡やはた神社じんじゃ人物じんぶつ画像がぞうきょうつぎふるく、せい記載きさいされた事物じぶつとしては日本にっぽん最古さいこにあたる。ヤマトとのかかわりもうかがわれ、被葬ひそうしゃ広範こうはん交流こうりゅうおこなっていた様子ようす物語ものがたっている。

銘文めいぶん以下いかとおり、

  • かく卩臣□□□□□大利おおとし
  • 解読かいどく不能ふのうもしくは困難こんなんになっている□については、9文字もじは「もと」とみられる。5文字もじは「れいせつと「いませつ、6文字もじは「おもねせつと「かわせつがある[4]

文化財ぶんかざい

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くに史跡しせき

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  • 岡田山おかだやま古墳こふん

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • 出雲いずも岡田山おかだやま古墳こふん出土しゅつどひん 1985ねん昭和しょうわ60ねん指定していろくしょ神社じんじゃ所有しょゆう[2][5]
    • いちぎん錯銘ぎんそうえんあたま大刀たち額田ぬかたしん在銘ざいめい 1くち
    • いち金銀きんぎんそうかんあたま大刀たち 1くち
    • いち金銀きんぎんそうえんあたま大刀たち 1くち
    • いちうちゆきはなぶんきょう 1めん
    • いち金環きんかん 2箇
    • いち金銅かなどうそらだま(うつろだま) 残欠ざんけつども 16箇
    • いち馬具ばぐるい
      • 金銅かなどうくら金具かなぐ残欠ざんけつ 1ぶん
      • 金銅かなどうくもたま(うず) 16箇
      • 金銅かなどう鏡板かがみいた 1
      • どうすず 残欠ざんけつども 7箇
      • てつたまき 2箇
    • いちかたなとう残欠ざんけつ 3箇
    • いち須恵すえ 2箇

参考さんこう画像がぞう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 岡田山おかだやま古墳こふん - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  2. ^ a b 出雲いずも岡田山おかだやま古墳こふん出土しゅつどひん”. 松江まつえ. 2021ねん5がつ10日とおか閲覧えつらん
  3. ^ 出雲いずも岡田山おかだやま古墳こふん出土しゅつどひん - くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう
  4. ^ 岡田山おかだやまいちごうふん出土しゅつど大刀たち」『国史こくしだい辞典じてん』15かん
  5. ^ くに指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらん考古こうこ資料しりょう”. 島根しまねけん. 2021ねん5がつ10日とおか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 山本やまもときよし岡田山おかだやま古墳こふん」(『国史こくしだい辞典じてん 2』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1980ねんISBN 978-4-642-00502-9
  • 門脇かどわき俊彦としひこ岡田山おかだやま古墳こふんぐん」/松本まつもと岩雄いわお岡田山おかだやま古墳こふん出土しゅつどひん」(『島根しまねけんだい百科ひゃっか事典じてん』(山陰中央新報社さんいんちゅうおうしんぽうしゃ、1982ねん))
  • きし俊男としお岡田山おかだやま古墳こふん」(『日本にっぽんだい事典じてん 1』(平凡社へいぼんしゃ、1992ねんISBN 978-4-582-13101-7
  • 鬼頭おにがしら清明きよあき岡田山おかだやまいちごうふん出土しゅつど大刀たち」(『国史こくしだい辞典じてん 15』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1996ねんISBN 978-4-642-00515-9
  • 狩野かのひさ岡田山おかだやまいちごうふん」(『日本にっぽん歴史れきしだい事典じてん 1』(小学館しょうがくかん、2000ねんISBN 978-4-095-23001-6
  • 島根しまね県立けんりつはちくも風土記ふどきおか常設じょうせつ展示てんじ図録ずろく 古代こだい出雲いずも中心ちゅうしん意宇いう 八雲やくも風土記ふどきおか歴史れきし文化ぶんか」(2007ねん

関連かんれん図書としょ

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  • 島根しまねけん教育きょういく委員いいんかい出雲いずも岡田山おかだやま古墳こふん島根しまねけん教育庁きょういくちょう、1987ねん3がつ30にちNCID BN03058851https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/13989 

関連かんれん項目こうもく

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