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川勝かわかつひろうん

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川勝かわかつひろうん
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 文政ぶんせい11ねん9月9にち1828ねん10月17にち[1]
死没しぼつ 明治めいじ8ねん1875ねん6月29にち
改名かいめい よもぎせん煎茶せんちゃどうごう
別名べつめい ぬい殿どのすけ通称つうしょう)、広一ひろかず
墓所はかしょ 東京とうきょう台東たいとう谷中たになか霊園れいえん
官位かんい したがえ丹波たんばもり美作みさくもり備後びんごもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ 勘定かんじょう奉行ぶぎょう大目おおめづけ若年寄わかどしより
主君しゅくん 徳川とくがわ家定いえさだ家茂いえもち慶喜よしのぶ
氏族しぞく 川勝かわかつ
父母ちちはは ちち小笠原おがさわらちょうたかはは酒井さかいただしどうむすめ
養父ようふ川勝かわかつ左京さきょう
兄弟きょうだい 小笠原おがさわらたかとみ小笠原おがさわら長保ながほ小笠原おがさわらちょうみつる
川勝かわかつひろうん小笠原おがさわらちょうもり
女子じょし森長もりながこくしつ)、女子じょし屋代やしろただしぶんまわししつ
かぎ輔(四男よつお)、むすめ庄田しょうだやすしきょうつま
テンプレートを表示ひょうじ

川勝かわかつ ひろうん(かわかつ ひろかず)は、江戸えど時代じだい後期こうき旗本はたもとしげるりゅう川勝かわかつ本家ほんけ)の12だい当主とうしゅ明治維新めいじいしん東京とうきょう参事さんじとなった。は「広一ひろかず」としるされる場合ばあいもある。

生涯しょうがい

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文政ぶんせい11ねん1828ねん)、越前えちぜん勝山かつやまはんおも小笠原おがさわらちょうたかおとことして江戸えどまれた。『江戸えど幕臣ばくしん人名じんめい事典じてんぜんいちかん改訂かいてい新版しんぱんとう記述きじゅつによった。『幕末ばくまつ維新いしん人名じんめい事典じてん』には、ちち駿府すんぷ定番ていばん川勝かわかつ中務なかつかさ広業こうぎょうとある。

よしみひさし4ねん1851ねん)に川勝かわかつ中務なかつかさ広業こうぎょう旗本はたもと川勝かわかつ左京さきょう養子ようしとなった。文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)4がつ8にち小栗おぐり忠順ただまさ推挙すいきょにより、小姓こしょうぐみけんこうたけしょ砲術ほうじゅつ教授きょうじゅかたやくから目付めつけとなり、同年どうねん7がつ5にち勘定かんじょう奉行ぶぎょう勝手かってかたとなった。同年どうねんうるう8がつ3にち松平まつだいら慶永よしながらの主張しゅちょうする幕政ばくせい改革かいかくにより新設しんせつされ、寺社じしゃ奉行ぶぎょう牧野まきのさだただしなど12めい任命にんめいされた政事せいじ改革かいかく御用ごようかけ任命にんめいされ、勘定かんじょう奉行ぶぎょう兼務けんむした。文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)8がつ14にち陸軍りくぐん奉行ぶぎょうなみとなったが、元治もとはる元年がんねん1864ねん)8がつ19にち寄合よりあいとなった。慶応けいおう元年がんねん1865ねん)7がつ10日とおか長崎ながさき奉行ぶぎょうなみとなったが、同年どうねん7がつ晦日みそかしょくした。同年どうねん11がつ26にち大目おおめづけとなり京都きょうとつめつとめ、滝川たきかわきょとも長州ちょうしゅう征討せいとう参謀さんぼうやく担当たんとうした。慶応けいおう3ねん1867ねん)4がつ7にち養父やぶ左京さきょう家督かとく丹波たんばない2,570せきあまり)をぎ、同年どうねん6がつ17にち若年寄わかどしよりなみとなった。

慶応けいおう4ねん1868ねん正月しょうがつ23にち恭順きょうじゅんくみして若年寄わかどしよりすすみ、戊辰戦争ぼしんせんそうさいかつ海舟かいしゅう大久保おおくぼいちおきならととも江戸えど開城かいじょう尽力じんりょくした。

明治維新めいじいしん大久保おおくぼいちおきな東京とうきょう知事ちじもとで、明治めいじ6ねん1873ねん)から東京とうきょう参事さんじつとめた。明治めいじ5ねん1872ねん)9がつ12にち新橋しんばし横浜よこはまあいだ鉄道てつどう開通かいつうしき当日とうじつ明治天皇めいじてんのうられたよんとうての馬車ばしゃを、こううん東京とうきょう府知事ふちじ代理だいりけん参事さんじ)は騎馬きば先導せんどうする栄誉えいよさずかっている[2]

わかころから煎茶せんちゃたしなみ、よもぎせん(ほうせん)とごうした。茶器ちゃき解説かいせつしょとしてられる『よもぎせん茶話ちゃばなし茶器ちゃきへん慶応けいおう3ねん(1867ねんかん執筆しっぴつしている。自身じしん中国ちゅうごくふうちゃこのんで、江戸えど東京とうきょう煎茶せんちゃかいすくなからぬ影響えいきょうあたえたとされる。

明治めいじ8ねん1875ねん)6がつ29にち東京とうきょうかきからまちにおいて48さいぼっした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 国民こくみん過去かこちょう 明治めいじまき』(なおふつぼう、1935ねん)p.58
  2. ^ 日本にっぽん鉄道てつどううえへん)』鉄道てつどうしょう新橋しんばし横濱よこはまあいだ開通かいつうしき当日とうじつ状況じょうきょうより。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 熊井くまいたもつへん江戸えど幕臣ばくしん人名じんめい事典じてんぜんいちかん改訂かいてい新版しんぱん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1997ねん
  • 小川おがわ恭一きょういち編著へんちょ寛政かんせい以降いこう旗本はたもと百科ひゃっか事典じてんだい2かん)』東洋とうよう書林しょりん、1998ねん
  • 煎茶せんちゃ用語ようごしゅう主婦しゅふ友社ともしゃちゃ案内あんないシリーズ13、1988ねん
  • 日本にっぽん鉄道てつどううえへん)』鉄道てつどうしょう、1935ねん
  • 宮崎みやざきじゅうさんはち安岡やすおか昭男あきおへん幕末ばくまつ維新いしん人名じんめい事典じてん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1994ねん
  • 奈良本ならもと辰也たつや監修かんしゅう幕末ばくまつ維新いしん人名じんめい事典じてん學藝がくげい書林しょりん、1978ねん


先代せんだい
ぼう左京さきょう
川勝かわかつつぎけいしげるりゅう本家ほんけ
12だい:1867ねん - 1868ねん
次代じだい
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