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ちょうようひろし

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ちょう ようひろし(ちょう ようこう、1270ねん - 1329ねん)は、もとだい官僚かんりょう儒学じゅがくしゃまれはじめごうひとし東野とうのじんくもそう東平とうへいがくせい初任しょにんとして、かん察御翰林かんりんちょく学士がくしれい尚書しょうしょ歴任れきにんした。せきちゅうだい飢饉ききんさいにはかつえみん救恤きゅうじゅつ尽力じんりょくした。死後しごはまこくおおやけ追贈ついぞうされ、文忠ふみただおくりなされる。

著書ちょしょに『さんこと忠告ちゅうこく』・『かえりるい稿こうとうがある。

略歴りゃくれき逸話いつわ

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みなみそうむね咸淳6ねん(1270ねん)、すみみなみれきぐすくけんまれた。幼時ようじから品行ひんこう方正ほうせいで、10さいごろあま読書どくしょこごるのを心配しんぱいした父母ちちははは、勉強べんきょうめるよう注意ちゅういしたが、父母ちちははかくれて書物しょもつんだとう。

のちもと山東さんとう按察使こげとげかれ評判ひょうばんいて管下かんか東平とうへいけん教官きょうかんげた。そのかれだい転任てんにんし、大臣だいじんゆるがせ(ブフム)にられ、れい官僚かんりょうとなり、それからすすめられてだいはいった。

あるかれ病臥びょうがいてゆるがせ見舞みまいにってみると、四方しほうかべほかにはなにく、その清貧せいひんにほとほとかんらされた。どう邑県長官ちょうかん時代じだい正道せいどうかたこころざしかれは、淫祠いんしこわし、窮民きゅうみんながれて盗賊とうぞくとなるものすくってあたらしい生活せいかつみちはかってやり、暴力団ぼうりょくだん巨頭きょとう断乎だんことして検挙けんきょするなど、遺憾無いかんなかれ面目めんぼく発揮はっきして民衆みんしゅう信望しんぼうはくした。

いつしか「ちょうこうにそむいてはならぬ」と民衆みんしゅうにいいかわされるようになり、かれにんえてっても、民衆みんしゅうながわすれずにいしぶみててかれとくとなえた。

その東宮とうぐうしょくされ、かん察御となった。かれ直言ちょくげんはばからない態度たいどは、当時とうじ行政ぎょうせい大臣だいじん監察かんさつかん任命にんめいするようになっていたことを批判ひはんして、「盗人ぬすっととらえる役人やくにん盗人ぬすっとえらばせるような馬鹿ばかなことがあるか」とってのけるほどだった。つい時政ときまさかんして、

いち恩賞おんしょうあまぎること
ニ:刑罰けいばつ禁令きんれいかりがおおすぎること
さん名誉めいよ爵位しゃくい軽々かるがるぎること
よん政治せいじ監督かんとくよわすぎること
土木どぼく事業じぎょうをやりぎること
ろく号令ごうれい浮薄ふはくぎること
なな情実じょうじつひどぎること
はち風俗ふうぞくがだらしなさぎること
きゅう異端いたんしゃ横暴おうぼうぎること
じゅう大臣だいじん任命にんめいがでたらめぎること

とするじゅうじょううえ痛論つうろんするにいたって、かれまった官界かんかいから排斥はいせきされて、えて浪人ろうにんしなければならなかったほど危険きけんせまった。

じんむね崩御ほうぎょして、えいむね即位そくいすると、専横せんおう汚職おしょくため弾劾だんがいけて失職しっしょくした権臣けんしんてつ迭児(テムデル)が、皇太后こうたいごうラトナシリうしたて最高さいこうみぎ丞相じょうしょうとなってふたた権勢けんせいもどし、自分じぶん都合つごうわる政敵せいてき次々つぎつぎ排除はいじょする横暴おうぼうせた。さいわい、えいむね即位そくい翌年よくねん皇太后こうたいごうてつ迭児がとも病没びょうぼつしたために、かねててつ迭児の権力けんりょく濫用らんよう反感はんかんいていたえいむねは、廷臣ていしんとうともかれ生前せいぜんつみ糾弾きゅうだんして、その財産ざいさん爵位しゃくい没収ぼっしゅうし、その実子じっしのバリンギシュを処刑しょけいした。しかし、この厳格げんかく処置しょちおそれをいたてつ迭児の養子ようし大夫たいふてつしつ(テクシ)が、重臣じゅうしんの淇陽おう也先てつ(エセン・テムル)とう謀反むほんこし、えいむね行幸ぎょうこう途中とちゅうみなみ坡の行在所あんざいしょみぎ丞相じょうしょうはいじゅうバイジュ)をころし、同時どうじ寝所ねどこえいむねしいした。

生前せいぜんえいむねとくちょうようひろし信頼しんらいして、失意しついにあったかれ中書ちゅうしょしょう大臣だいじんかく登用とうようしたほどであるが、そのあいだってかれ苦心くしん痛恨つうこんしたけれどもちからおよばないとて、たもとはら故郷こきょう老父ろうふ膝下ひざもと隠棲いんせいした。

やがて謀反むほんこした奸臣かんしんとう誅殺ちゅうさつされ、いでったすすむむね朝廷ちょうていかれ度々たびたびされて、吏部尚書しょうしょ要職ようしょくわれたがこれを固辞こじし、ちち死後しご益々ますます朝廷ちょうていの召命をしゃしてことわり、ふたたとうとはしなかった。

てんれき2ねん(1329ねん)、せきなか地方ちほうだい旱魃かんばつ見舞みまわれ、極度きょくどえた民衆みんしゅう共食ともぐいをおこなほど惨状さんじょうていした。このときかれ陝西せんせいくだりだいちゅうすすむ特命とくめいけた。そこでかれはこれを拝命はいめいして、にんおもむくにさいして自分じぶん余財よざいすべ郷里きょうり貧民ひんみんあたえ、みちえた民衆みんしゅうすくい、死者ししゃほうむりつつ、きょうちょうにんかった。

華山かざんとおったときかれ山神さんじんまつったほこらあめいのりながら、いててなかった。至誠しせいてんつうじてか、その時空じくうがたちまちくもって、日間にちかんったとう。また任地にんちいてふたたしゃだん雨乞あまごいをしたときにも、みずかさがさんしゃくになるまであめり、いねきび(きび)がえたとう。

しかしながら、なか々その程度ていどでは民衆みんしゅうすくわれず、物価ぶっか暴騰ぼうとうし、これにんで暴利ぼうり商人しょうにん役人やくにんがはびこった。窮乏きゅうぼうきわまり、民間みんかんではころしてははささげるものまであることまでかれみみはいった。これをいたかれ慟哭どうこくして、身銭みぜにって救済きゅうさいつとめ、毎日まいにち役所やくしょしして、いえかえらず、よるてんいのり、ひる窮民きゅうみん精魂せいこんくしたが、あまりの心配しんぱい疲労ひろうために、到頭とうとう発病はつびょうして逝去せいきょした。享年きょうねん60。これにせきちゅう民衆みんしゅう父母ちちははうしなったようにかなしんだとう。

ちょうようひろし著書ちょしょには、『廟堂びょうどう忠告ちゅうこく』・『かぜけん忠告ちゅうこく』・『牧民ぼくみん忠告ちゅうこく』から政治せいじ指導しどうしょさんこと忠告ちゅうこく』と、遺稿いこうかえりるい稿こうじゅうかんがある。

ちょうようひろしにはにん男子だんしがあったが、長男ちょうなんちょうつよし先立さきだってに、おとうとちょう引がのこった。ちょう引のことはかれの「かぜけん忠告ちゅうこく」や「牧民ぼくみん忠告ちゅうこく」の序文じょぶんにもっている。

参考さんこう文献ぶんけん

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