後藤ごとう基夫もとお

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後藤ごとう 基夫もとお(ごとう もとお、1918ねん10がつ20日はつか - 1983ねん4がつ5にち)は日本にっぽんジャーナリスト朝日新聞社あさひしんぶんしゃ常務じょうむ取締役とりしまりやく

経歴けいれき[編集へんしゅう]

大分おおいたけん佐賀関さがのせきまちまれ。だいさん高等こうとう学校がっこう1941ねん12月東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ政治せいじ学科がっか卒業そつぎょう1942ねん1がつ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ入社にゅうしゃよく2がつ陸軍りくぐん東部とうぶだい62部隊ぶたい入営にゅうえい主計しゅけい少尉しょういとして中国ちゅうごく湖北こほくしょう終戦しゅうせんむかえる(ポツダム宣言せんげん受諾じゅだく主計しゅけい中尉ちゅうい)。1946ねん2がつ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ復職ふくしょく同年どうねん6がつ東京とうきょう本社ほんしゃ政経せいけい部員ぶいん1950ねん1がつ政治せいじ部員ぶいん1956ねん10月アメリカ総局そうきょくいん1958ねん2がつ政治せいじ復帰ふっき1960ねん1がつ政治せいじ次長じちょう1963ねん2がつロンドン支局しきょくちょう1966ねん6がつ論説ろんせつ委員いいん1967ねん1がつ論説ろんせつふく主幹しゅかん1969ねん12月東京とうきょう本社ほんしゃ編集へんしゅう局長きょくちょう1973ねん9月取締役とりしまりやく大阪おおさか本社ほんしゃ代表だいひょう1974ねん6がつ常務じょうむ取締役とりしまりやく1978ねん12月総合そうごう企画きかくしつ担当たんとう東京とうきょう本社ほんしゃ)、1981ねん4がつ東京とうきょう本社ほんしゃ代表だいひょうとなり、在職ざいしょくちゅう脳出血のうしゅっけつのため死去しきょ享年きょうねん66(まん64さい)。

東大とうだい在学ざいがくちゅう昭和しょうわ研究けんきゅうかい教育きょういく機関きかん昭和しょうわじゅく」にはいり、三木みききよし影響えいきょうけた。「室町むろまち将軍しょうぐん」とばれた同郷どうきょう右翼うよく大物おおもの三浦みうら義一ぎいち父親ちちおやもと大分おおいた市長しちょう衆議院しゅうぎいん議員ぎいん)としたしく、政界せいかいうら情報じょうほうにもつうじて「かざるだい記者きしゃ」とばれた。宮沢みやざわ喜一きいち後藤ごとうを「一番いちばんしたしい友人ゆうじん」とんでいる。「かざるだい記者きしゃ」ゆえに敵対てきたいする政治せいじ双方そうほうから相談そうだんまれることもおおく、政治せいじ記者きしゃとして読売新聞社よみうりしんぶんしゃ渡邉わたなべ恒雄つねお一目いちもく存在そんざいだった。

ちゅう対立たいりつ社内しゃない派閥はばつ抗争こうそう波及はきゅうしていた当時とうじ朝日あさひにおいては、親中しんちゅう重鎮じゅうちん一人ひとりで、東京とうきょう本社ほんしゃ編集へんしゅう局長きょくちょう時代じだいの1971ねんあき特派とくはいん団長だんちょうとして北朝鮮きたちょうせん中国ちゅうごく訪問ほうもんし、きむ日成いるそん首相しゅしょうしゅう恩来おんらい首相しゅしょう会見かいけん総合そうごう企画きかくしつ担当たんとう時代じだいの1980ねんにも北朝鮮きたちょうせんおとずれている。

かざるだい記者きしゃ」のため、いたものはすくないが、晩年ばんねん雑誌ざっし世界せかい』に連載れんさいされた石川いしかわ真澄ますみ内田うちだ健三けんぞうとの鼎談ていだんで、戦後せんご政治せいじについての見聞けんぶん一部いちぶかたっている。

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

後藤ごとう基夫もとおさんをしの文集ぶんしゅう刊行かんこうかいへん政治せいじ記者きしゃ 後藤ごとう基夫もとお』(1985ねん