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戸川とがわ安行やすゆき

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戸川とがわ 安行やすゆき(とがわ やすゆき、文政ぶんせい元年がんねん1818ねん) - 安政あんせい2ねん7がつ3にち1855ねん8がつ15にち)は、江戸えど時代じだい後期こうき幕臣ばくしん旗本はたもと)。通称つうしょうは釤助、のち内蔵ないぞうすけ

宮津みやづはんあるじ松平まつだいらはじめはつよんなん先代せんだいやすみんから養子ようしむかえられ、ひろし4ねん1847ねん)12月に養父ようふ隠居いんきょにより家督かとく相続そうぞくした。

在世ざいせいちゅうは、よしみひさし3ねん1850ねん)6がつ大雨おおあめこう梁川りょうせんからみずあふたことによる水害すいがい原因げんいんかどうか不明ふめいであるが、近江おうみひらた札元ふだもととする旗本はたもとさつせらひらさつ)がこのころさつつぶれ(発行はっこう停止ていし)となり、また通貨つうか不足ふそく領内りょうない経済けいざい停滞ていたいするおそれがてきたため、ふたた近江おうみたのよしみなが5ねん1852ねん近江おうみ平三郎へいさぶろうあらたな札元ふだもととして近江おうみたいらさつがせた旗本はたもとさつ近平ちからさつ)を発行はっこうしたが、同年どうねんちゅうさつつぶれとなった。

事態じたい打開だかいのため、よしみなが6ねん1853ねん木村きむら八郎はちろうみぎ衛門えもんめいじて倉敷くらしき大橋おおはし額面がくめんぎん290ぬきやく3800りょう)のたいらさつ借金しゃっきんわりに流通りゅうつうさせるように依頼いらいさせたが、大橋おおはししんさつ発行はっこうするようにすすめられたため、知行ちぎょうしょみずか大橋おおはしからの準備じゅんびきん300りょう元手もとで札元ふだもととなり、旗本はたもとさつ会所かいしょさつ)を発行はっこうした。

このように旗本はたもとさつ固執こしつしていたのは、元禄げんろく以降いこう貨幣かへい経済けいざい発達はったつ物価ぶっか相対そうたいてき上昇じょうしょうまねき、江戸えど屋敷やしきでの出費しゅっぴ商人しょうにんからの借金しゃっきん返済へんさいがく増大ぞうだいしたために、地元じもとつね通貨つうか慢性まんせいてき不足ふそくし、経済けいざい停滞ていたいして収入しゅうにゅう先細さきほそりしたからであろう。

江戸えどでは、四谷よつやくち門番もんばんやく火事場かじばまわりやくなどをつとめた。

安政あんせい2ねん7がつ3にちぼつ跡目あとめあんみちいだ。

系譜けいふ

[編集へんしゅう]
先代せんだい
戸川とがわやすしみん
早島はやしま戸川とがわ当主とうしゅ
11だい:1847ねん - 1855ねん
次代じだい
戸川とがわやすしどう