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戸川とがわ安宅あたか

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とがわ やすいえ

戸川とがわ 安宅あたか
生誕せいたん 隼人はやとたちわか
安政あんせい2ねん10月22にち1855ねん12月1にち
日本の旗 日本にっぽん武蔵むさしこく江戸えど牛込うしごめ原町はるまち
げん東京とうきょう新宿しんじゅく原町はるまち
死没しぼつ 大正たいしょう13ねん1924ねん12月8にち
日本の旗 日本にっぽん大阪おおさか東成ひがしなりぐん天王寺てんのうじむら
墓地ぼち 品川しながわ最上もがみてら (品川しながわ)
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
別名べつめい 雅号がごう残花ざんか
べつごうひゃくごうえん主人しゅじん
出身しゅっしんこう 大学南だいがくみなみこう
慶應義塾けいおうぎじゅく
職業しょくぎょう 江戸えど幕府ばくふ旗本はたもと
文学ぶんがくしゃ
牧師ぼくし
時代じだい 江戸えど時代じだい - 大正たいしょう時代じだい
宗教しゅうきょう キリスト教きりすときょう(プロテスタントけい
おや ちち戸川とがわ安行やすゆき
親戚しんせき あに戸川とがわやすしどう
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戸川とがわ 安宅あたか(とがわ やすいえ、安政あんせい2ねん10月22にち1855ねん12月1にち) - 大正たいしょう13ねん1924ねん12月8にち)は、江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ)の旗本はたもとで、明治めいじ時代じだい文学ぶんがくしゃ日本基督教会にほんきりすときょうかい牧師ぼくしである。通称つうしょうははじめ隼人はやと、のちたちわか雅号がごう残花ざんかべつごうとしてひゃくごうえん主人しゅじん

来歴らいれき

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安政あんせい2ねん1855ねん)、江戸えど旗本はたもと早島はやしま戸川とがわ12だい戸川とがわ安行やすゆきとして牛込うしごめ原町はらまちまれた。

慶応けいおう元年がんねん1865ねん)2がつ長州ちょうしゅう征伐せいばつは、病気びょうきがちであったあにあんみち名代なだい出陣しゅつじんした。

慶応けいおう4ねん1868ねん)3がつ12にちあに名代なだいとしてアメリカの蒸気じょうきせん品川しながわこうち、神戸こうべて、3月18にち太政官だじょうかん懇願こんがんしょ岡山おかやまはんおも添書てんしょ提出ていしゅつした。同年どうねん5がつあきらたい参加さんか同年どうねん6がつ一族いちぞくとも領地りょうち備中びっちゅうこく早島はやしま現在げんざい岡山おかやまけん早島はやしままち)にうつんだ。8月、あに養子ようしとなり家督かとく相続そうぞくした。ちなみに、あに同様どうようしも大夫たいふさずかったとおもわれる。

早島はやしま戸川とがわ表高おもてだか3000せきたいし、だかは5233せきであったが、借金しゃっきんよしみひさし年間ねんかん時点じてんやく3まんりょう内訳うちわけ江戸えど1まん2000りょうあまり知行ちぎょうしょ1まんりょうあまり大坂おおさか御用達ごようたし加島屋かしまやなど)6500りょう・その2000りょうあまり利子りしすうせんりょうくわえて幕末ばくまつ維新いしん動乱どうらん軍費ぐんぴがかさんだため財政ざいせい事実じじつじょう破綻はたんしていた。明治めいじ2ねん1869ねん)6がつ版籍はんせき奉還ほうかんにより借金しゃっきん地獄じごくからは解放かいほうされた。所領しょりょううしなったため、明治めいじ3ねん1869ねん)2がつ江戸えどもどったが、すでに江戸えど屋敷やしき接収せっしゅうされて大隈おおくま重信しげのぶ屋敷やしきとなっていたため、以後いごしん政府せいふからあたえられた代替だいたい屋敷やしき居住きょじゅうした。その明治めいじ3ねん1870ねん)に大学南だいがくみなみこうはいり、つづいて慶應義塾けいおうぎじゅくまなぶ。カロザース築地つきじだい学校がっこうなどで勉学べんがくはげんだ[1]

明治めいじ7ねん1874ねん)12月6にちに、アメリカじん宣教師せんきょうしディビッド・タムソンにより洗礼せんれいけてキリスト教徒きょうととなった[2]のちにミッションスクールの築地つきじだい学校がっこうまなぶ。明治めいじ16ねん1883ねん以降いこう巡回じゅんかい伝道でんどうしゃとして関西かんさい方面ほうめん伝道でんどう従事じゅうじしたのち帰京ききょうして日本基督教会にほんきりすときょうかいこうじまち教会きょうかい(げん日本にっぽん基督教きりすときょうだん高輪たかなわ教会きょうかい)の牧師ぼくしとなる。明治めいじ23ねん1890ねん)『伝道でんどう』・『童蒙どうもう賛美さんび』(共編きょうへん)、明治めいじ25ねん1892ねん)5がつ新撰しんせんさん美歌みかのてびき』などキリスト教きりすときょう関係かんけい書籍しょせき冊子さっしあらわした。また明治めいじ23ねん(1890ねん刊行かんこうの『ねこはなし』は、近代きんだい日本にっぽん創作そうさく童話どうわ最初さいしょいちさつで、たのしい子供こどもけのほんである[3]

明治めいじ26ねん1893ねん)、星野ほしの天知てんち主宰しゅさいの『文学ぶんがくかい創刊そうかん客員きゃくいんとして発表はっぴょうなかでも七五調しちごちょう五七調ごしちちょう混用こんようしたあわれにして上品じょうひんうつくしい桂川かつらがわ情死じょうしつるしうた)」は北村きたむら透谷とうこくから激賞げきしょうされたという。このとし毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ横浜よこはま毎日新聞まいにちしんぶん)に入社にゅうしゃして小説しょうせついた。明治めいじ30ねん1897ねん)から3年間ねんかんかつ海舟かいしゅうきゅう幕臣ばくしんりて雑誌ざっしきゅう幕府ばくふ』を刊行かんこうし、古老ころうたちのきゅう幕府ばくふ時代じだい回想かいそう論考ろんこう文芸ぶんげい作品さくひんなどを掲載けいさいしている。

明治めいじ34ねん1901ねん)、日本女子大にほんじょしだい学校がっこう創立そうりつ成瀬なるせ仁蔵にぞうとも参画さんかくした(国文学こくぶんがく教授きょうじゅとなった)。このあいだ明治めいじ34ねん1901ねん)にきゅう紀州きしゅう藩邸はんていあとげん東京とうきょうみなと)につくられた紀州きしゅう徳川とくがわみなみまもる文庫ぶんこ主任しゅにん学芸がくげいいんつとめた。大正たいしょう12ねん1923ねん)、関東大震災かんとうだいしんさい大井おおいまちげん東京とうきょう品川しながわ) のいえ倒壊とうかいしたため、大阪おおさか東成ひがしなりぐん天王寺てんのうじむらげん大阪おおさか天王寺てんのうじ)にて長男ちょうなん同居どうきょする。

大正たいしょう13ねん(1924ねん)12月8にちぼつ

人物じんぶつ

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演説えんぜつちゅう様子ようす

当時とうじひょうによれば、その風貌ふうぼうあたまの「まえたかく、うしろがガクリとがり、かおながく、あごはすこぶるながい」。両手りょうてからだまえ神妙しんみょうみ、ながあごをつきだし、じゅん江戸えどべんたくみないいまわしで演説えんぜつしたという[4]

わか田山たやま花袋かたい島崎しまざき藤村とうそん世話せわをしたり、長女ちょうじょ達子たつこしたしくしていた関係かんけい樋口ひぐち一葉かずは縁談えんだん世話せわをしたことがある。

著書ちょしょ訳書やくしょ

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題名だいめいまきごうにリンクがあるものは、国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん近代きんだいデジタル・ライブラリーで全文ぜんぶん公開こうかいされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 明治学院大学めいじがくいんだいがく 2017年度ねんどアジア神学しんがくセミナー 『「宣教師せんきょうし日本にっぽん初期しょきキリストしゃたちの関係かんけいきゅう日本にっぽん基督教きりすときょうかい事例じれいとして』 中島なかじまこう,あき学期がっきだい9かい,2017ねん12月4にち
  2. ^ 鳥越とりこししんへん『たのしくめる日本にっぽん児童じどう文学ぶんがく戦前せんぜんへんミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2004ねん、25ぺーじ
  3. ^ 鳥越とりこししんへん『たのしくめる日本にっぽん児童じどう文学ぶんがく戦前せんぜんへん24-25ぺーじ
  4. ^ 小野田おのだあきらただし現代げんだい名士めいし演説えんぜつ』、博文ひろぶみかん、1908ねん、192-193ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 小野田おのだあきらただし現代げんだい名士めいし演説えんぜつ』、博文ひろぶみかん、1908ねん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん近代きんだいデジタルライブラリーに収録しゅうろく
  • 鳥越とりこししんへん『たのしくめる日本にっぽん児童じどう文学ぶんがく』(戦前せんぜんへん)、ミネルみねるァ書房ぁしょぼう、2004ねん
  • 目時めとき美穂みほあぶらうる日々ひび 明治めいじ文人ぶんじん戸川残花とがわざんかかた』、芸術げいじゅつ新聞しんぶんしゃ、2015ねん

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
戸川とがわやすしどう
早島はやしま戸川とがわ当主とうしゅ
13だい:1868ねん - 1924ねん
次代じだい
不明ふめい