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有馬ありまほまれじゅん

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有馬ありまほまれじゅん
有馬ありまほまれじゅんぞう
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 明和めいわ6ねん4がつ17にち1769ねん5月22にち
死没しぼつ 天保てんぽう7ねん10月27にち1836ねん12月5にち
改名かいめい だいこれしん幼名ようみょう)、ほまれじゅん
戒名かいみょう こよみあん殿どのげんそらほまれ純大じゅんだい居士こじ
墓所はかしょ 福井ふくいけん坂井さかい丸岡まるおかまち篠岡しのおか高岳たかおかてら
東京とうきょう台東たいとう上野うえのもとさとしいん
官位かんい したがえ左衛門さえもん
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ家治いえはる家斉いえなり
はん 越前えちぜん丸岡まるおかはんあるじ
氏族しぞく 有馬ありま
父母ちちはは 有馬ありままことじゅん美濃みの
松平まつだいら定温ていおんむすめ富子とみこ
兄弟きょうだい ほまれじゅん政五郎まさごろう
つま 稲葉いなば正弘まさひろむすめ喜代子きよこ
村田むらたばんおか糸桜いとざくら江間えま草柳くさやなぎ
戸田とだじゅんゆうじゅんぜん国子くにこ久貝くがいせいてん正室せいしつ
小笠原おがさわらちょうただし正室せいしつ浅野あさの長和おさわ正室せいしつ
向井むかいただしとししつ本多ほんだふくなおしつ久貝くがいせいてん継室けいしつおさむけいいん
とくじゅんいちじゅん
テンプレートを表示ひょうじ

有馬ありま ほまれじゅん(ありま しげずみ)は、越前えちぜんこく丸岡まるおかはん5だい藩主はんしゅ晴信はるのぶけい有馬ありま8だい

生涯しょうがい

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明和めいわ6ねん1769ねん)4がつ17にちだい4だい藩主はんしゅ有馬ありままことじゅん長男ちょうなんとしてまれる。安永やすなが元年がんねん1772ねん)11月22にちちち死去しきょにより家督かとくいだ。天明てんめい2ねん7がつ1にち将軍しょうぐん徳川とくがわ家治いえはる目見まみする。天明てんめい4ねん1784ねん)12月16にちしたがえひだりまもる叙任じょにんする。寛政かんせい3ねん1791ねん)8がつ28にち奏者そうしゃばん就任しゅうにんする。文化ぶんか7ねん1810ねん)6がつ28にち寺社じしゃ奉行ぶぎょうとの兼任けんにんとなる。文化ぶんか9ねん1812ねん)4がつ4にち江戸城えどじょう西にしまる若年寄わかどしより就任しゅうにんする。

安永やすなが7ねん1778ねん)、財政難ざいせいなん打開だかいのために年貢ねんぐ増徴ぞうちょうおこなったため、一揆いっきこった。このため、百姓ひゃくしょうがわ要求ようきゅうれて年貢ねんぐ増徴ぞうちょうめてだい庄屋しょうや制度せいど廃止はいし、「さと会所かいしょ設置せっちによる税制ぜいせい改革かいかくおこなった。また文治ぶんじ奨励しょうれいし、文化ぶんか元年がんねん1804ねん)には藩校はんこうたいらあきらかん創設そうせつし、藩士はんし子弟してい教育きょういくつとめた。またしょ礼式れいしき確立かくりつにもつとめ、『くにじょうのこ聞』や『藤原ふじわら有馬ありま』などはんふみ地誌ちし編纂へんさんちからそそいでいる。

文政ぶんせい2ねん1819ねん)8がつ6にち病気びょうきのために若年寄わかどしより辞任じにんする。以降いこうみかどかんあいだめとなる。文政ぶんせい13ねん4がつ23にちむすめ婿むことくじゅん家督かとくゆずって隠居いんきょし、天保てんぽう7ねん(1836ねん)10がつ27にち死去しきょした。享年きょうねん68。

系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ

側室そくしつ

  • 村田むらた
  • ばんおか
  • 糸桜いとざくら
  • 江間えま
  • 草柳くさやなぎ

子女しじょ

養子ようし養女ようじょ