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もときよしいん

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阿部あべ墓所はかしょ
阿部あべ墓所はかしょ

もときよしいん(ほんじょういん、慶長けいちょう3ねん1598ねん) - 寛永かんえい4ねん8がつ19にち1627ねん9月28にち))は、江戸えど時代じだい初期しょき女性じょせい加藤かとう清正きよまさ長女ちょうじょは「あま」また「こや」(古屋ふるや)とも(後述こうじゅつ)。はは側室そくしつきよしひかりいん竹之丸たけのまる殿どの)。加藤かとう2だい忠広ただひろ徳川とくがわ頼宣よりのぶ正室せいしつはちじゅうひめようりんいん)のあねである。

略伝りゃくでん

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はは慶長けいちょうやくさい清正きよまさともなわれて朝鮮ちょうせんわたり、同地どうち懐妊かいにん慶長けいちょう3ねん1598ねん)11月朝鮮ちょうせんより撤退てったい日本にっぽん帰国きこく途中とちゅうしま壱岐いきか)でまれた。出産しゅっさん海女あまがとりあげたので、清正きよまさによって「あま」とづけられたという。

慶長けいちょう11ねん1606ねん)、あまひめは9さい館林たてばやしじょうあるじ榊原さかきばら康政やすまさ徳川とくがわ家康いえやす側近そっきん徳川とくがわ四天王してんのう)の嫡男ちゃくなんかんまさる結婚けっこん熊本くまもとより館林たてばやし輿入こしいれする。清正きよまさ在世ざいせいちゅうであり、輿入こしいれの壮麗そうれい様子ようすが「当代とうだい」にしるされている。かんまさる慶長けいちょう20ねん(1615ねん)、大坂おおさかなつじんのち病没びょうぼつしたために実家じっか加藤かとうもどり、江戸えど屋敷やしきはいる。のちにだい坂城さかきだい阿部あべ正次まさつぐ嫡男ちゃくなんせいきよし再嫁さいかした。寛永かんえい4ねん(1627ねん)に老中ろうじゅう阿部あべ正能しょうのうみ、同年どうねんに30さい死去しきょした。

はか池上本門寺いけがみほんもんじ阿部あべ墓地ぼちにあり、もときよしいん先立さきだって寛永かんえい2ねん1625ねん)6がつ24にちくなった生母せいぼきよしひかりいんはかおな基壇きだんうようにならべててられている。現在げんざいはかもときよしいんさんじゅうさん回忌かいきにあたる万治まんじ2ねん1659ねん)8がつ19にちに、阿部あべただしのうによって再建さいけんされたものである(墓碑銘ぼひめい[1]法名ほうみょうもときよしいんあきらかみ

もときよしいん実名じつめいについて

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もときよしいん実名じつめいかんしては諸説しょせつある。

古屋ふるやせつ
もときよしいん初婚しょこんいえ館林たてばやしはん榊原さかきばらにおいて、江戸えど後期こうきにあたる文政ぶんせい年間ねんかん(1818ねん - )に竹尾たけおじゅうによって編纂へんさんされた榊原さかきばら系譜けいふ(「当家とうけ系譜けいふ」)のかんまさるこうに《かんまさるしつ古屋ふるや加藤かとう肥後守ひごのかみ清正きよまさおんなこう再嫁さいか阿部あべ修理しゅうりあきらせいきよし》と名前なまえれられている。
「あま」せつ
最近さいきん発見はっけんされた加藤かとうのいくつかの史料しりょうにより判明はんめいしたもときよしいん実名じつめいである。ひとつは、清正きよまさ股肱ここう家臣かしんで、加藤かとうにおいて清正きよまさ忠広ただひろの2だいにわたりまん奉行ぶぎょうつとめた重臣じゅうしん加藤かとう平左衛門へいざえもん家系かけいである「柏原かしわばらあらため加藤かとう家系かけい」、ならびに同家どうけつたわる「加藤かとう肥後守ひごのかみ清正きよまさおおやけ御家おいえけい」の2てんに、清正きよまさ息女そくじょあまひめ誕生たんじょう清正きよまさによる命名めいめい由来ゆらい記載きさいがあった。
加藤かとう平左衛門へいざえもん嫡子ちゃくし兵庫ひょうご正之まさゆきこう部分ぶぶんくだし)
正之まさゆきしつ肥後ひごしん大木たいぼく土佐とさおんな也、兵部ひょうぶさんただし土佐とさしつ清正きよまさきょうわらわ竹之丸たけのまる殿どのいもうと也。竹之丸たけのまる殿どの肥後ひご国侍くにざむらい赤星あかほし太郎たろう兵衛ひょうえおんな、於あまの御方おかたはは公也きみや竹之丸たけのまる殿どの朝鮮ちょうせんともされ、帰朝きちょうふししまにてたいらさん海士あまこうづけ御名ぎょめいを於あまとだまふ。成人せいじん榊原さかきばら平十郎へいじゅうろう殿どのよめす。平十郎へいじゅうろう殿どの卒去そっきょづけ阿部あべ修理しゅうり大夫たいふ殿どの再縁さいえん播磨はりままもる殿どの出生しゅっしょう
正之まさゆきしつ清正きよまさ殉死じゅんしした重臣じゅうしん大木たいぼく土佐とさもりむすめであった。《土佐とさしつ清正きよまさきょうわらわ竹之丸たけのまる殿どのいもうと也》は「大木たいぼく文書ぶんしょ」にも同様どうよう記載きさいがあり、この関係かんけいたしかな事実じじつであったことを裏付うらづけている。《清正きよまさはその側室そくしつ竹之丸たけのまる殿どの朝鮮ちょうせんに召れ、日本にっぽんかえ途上とじょうしま女児じょじ出産しゅっさんした。げたのがしま海士あま海女あまカ)であったので、清正きよまさはこれにちなんでまれたを「あま」とけた。》と出産しゅっさん様子ようすから命名めいめい由来ゆらいまでをしるしてある。慶長けいちょう3ねん(1598ねん)の誕生たんじょう合致がっちしている。
「あま」せつふた史料しりょうは1968ねん昭和しょうわ43ねん)に発見はっけんされた加藤かとう忠広ただひろ自筆じひつうた日記にっきちりからだしゅう」(徳川とくがわ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう)である。忠広ただひろしたっていたあねもときよしいんあきら」のつき命日めいにちごとにしのんで和歌わかつくっており、その詞書ことばがきのなかで「今生こんじょうにて其身めいみずからあまとぞいへりたまえりける」ともときよしいん実名じつめいが「あま」であったことをしるしている。これはおとうと直筆じきひつどう時代じだい史料しりょう確認かくにんされたことになる。
大名だいみょうつまひめ女性じょせい名前なまえはわからないことがほとんどである。もときよしいんのつながりのある従弟じゅうてい加藤かとう正之まさゆき系譜けいふと、おとうとである加藤かとう忠広ただひろ自筆じひつ証言しょうげんは「あま」であった。竹尾たけおじゅうの「榊原さかきばら系譜けいふ」は時代じだいが200ねんくだったあたらしい史料しりょうであるが、たしかな根拠こんきょがあれば榊原さかきばらでは「古屋ふるや」と改名かいめいしていたということもかんがえられる。


脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 墓地ぼち改装かいそうのため現存げんそんせず。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 水野みずの勝之かつゆき福田ふくだただししゅう加藤かとう清正きよまさ妻子さいし」の研究けんきゅう』ブイツーソリューション、2007ねん
  • 水野みずの勝之かつゆき福田ふくだただししゅう加藤かとう清正きよまさ妻子さいしだい1かい清正きよまさ息女そくじょ 名前なまえなぞ(財)ざいだんほうじん熊本くまもとじょう顕彰けんしょうかい 季刊きかん熊本くまもとじょう復刊ふっかんだい71ごう(2008ねん8がつ22にちごう
  • 水野みずの勝之かつゆき福田ふくだただししゅう加藤かとう清正きよまさ妻子さいしだい3かい側室そくしつ竹之丸たけのまる殿どのきよしひかりいん)とあまひめもときよしいん)」(財)ざいだんほうじん熊本くまもとじょう顕彰けんしょうかい 季刊きかん熊本くまもとじょう復刊ふっかんだい73ごう(2009ねん2がつ22にちごう