本 浄 院
(本 淨 院 から転送 )
略伝
[本 浄 院 の実名 について
[- 「
古屋 」説 本 淨 院 の初婚 の家 、館林 藩 榊原 家 において、江戸 後期 にあたる文政 年間 (1818年 - )に竹尾 住 武 によって編纂 された榊原 系譜 (「御 当家 御 系譜 」)の康 勝 の項 に《康 勝 室 (古屋 )加藤 肥後守 清正 女 、後 再嫁 阿部 修理 亮 正 澄 》と名前 が入 れられている。
- 「あま」
説 最近 発見 された加藤 家 のいくつかの史料 により判明 した本 浄 院 の実名 である。一 つは、清正 股肱 の家臣 で、加藤 家 において清正 ・忠広 の2代 にわたり万 奉行 を務 めた重臣 ・加藤 平左衛門 の家系 譜 である「柏原 後 改 加藤 家系 」、並 びに同家 に伝 わる「加藤 肥後守 清正 公 御家 系 」の2点 に、清正 息女 あま姫 の誕生 と清正 による命名 の由来 の記載 があった。- ※
加藤 平左衛門 の嫡子 、兵庫 正之 の項 (部分 読 み下 し)
- ※
正之 室 は肥後 の臣 大木 土佐 女 也、兵部 を産 。但 、土佐 室 は清正 卿 の妾 竹之丸 殿 の妹 也。竹之丸 殿 は肥後 の国侍 赤星 太郎 兵衛 女 、於あまの御方 の御 母 公也 。竹之丸 殿 は朝鮮 へ供 に召 され、帰朝 の節 、嶌 にて平 産 。海士 取 揚 げ候 に付 、御名 を於あまと付 け玉 ふ。成人 後 榊原 平十郎 殿 へ嫁 す。平十郎 殿 御 卒去 に付 、阿部 修理 大夫 殿 へ再縁 、播磨 守 殿 出生 。
正之 室 は清正 に殉死 した重臣 、大木 土佐 守 の娘 であった。《土佐 室 は清正 卿 の妾 竹之丸 殿 の妹 也》は「大木 文書 」にも同様 の記載 があり、この関係 が確 かな事実 であったことを裏付 けている。《清正 はその側室 竹之丸 殿 を朝鮮 に召連 れ、日本 へ帰 る途上 の島 で女児 を出産 した。取 り揚 げたのが島 の海士 (海女 カ)であったので、清正 はこれにちなんで生 まれた子 の名 を「あま」と付 けた。》と出産 の様子 から命名 の由来 までを記 してある。慶長 3年 (1598年 )の誕生 も合致 している。- 「あま」
説 の二 つ目 の史料 は1968年 (昭和 43年 )に発見 された加藤 忠広 自筆 の歌 日記 「塵 躰 集 」(徳川 美術館 所蔵 )である。忠広 は慕 っていた姉 「本 淨 院 日 昌 」の月 命日 ごとに偲 んで和歌 を作 っており、その詞書 きのなかで「今生 にて其身名 を自 らあまとぞいへりたまえりける」と本 浄 院 の実名 が「あま」であったことを記 している。これは実 の弟 直筆 の同 時代 史料 で確認 されたことになる。 大名 家 の妻 や姫 、女性 の名前 はわからないことがほとんどである。本 浄 院 と血 のつながりのある従弟 ・加藤 正之 の系譜 と、弟 である加藤 忠広 の自筆 証言 は「あま」であった。竹尾 住 武 の「榊原 系譜 」は時代 が200年 も下 った新 しい史料 であるが、確 かな根拠 があれば榊原 家 では「古屋 」と改名 していたということも考 えられる。
脚注
[- ^
墓地 改装 のため現存 せず。
参考 文献
[水野 勝之 ・福田 正 秀 『加藤 清正 「妻子 」の研究 』ブイツーソリューション、2007年 水野 勝之 ・福田 正 秀 「加藤 清正 の妻子 」第 1回 「清正 の息女 名前 の謎 」(財) 熊本 城 顕彰 会 季刊 「熊本 城 」復刊 代 71号 (2008年 8月 22日 号 )水野 勝之 ・福田 正 秀 「加藤 清正 の妻子 」第 3回 「側室 竹之丸 殿 (淨 光 院 )とあま姫 (本 淨 院 )」(財) 熊本 城 顕彰 会 季刊 「熊本 城 」復刊 代 73号 (2009年 2月 22日 号 )