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東海林しょうじ俊成としなり

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東海林しょうじ俊成としなり

東海林しょうじ 俊成としなり(しょうじ とししげ/としなり、1890ねん10月27にち - 1974ねん12月10にち)は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん少将しょうしょう

経歴けいれき

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宮城みやぎけん出身しゅっしん仙台せんだいだい中学校ちゅうがっこう1912ねん明治めいじ45ねん)5がつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう(24)を卒業そつぎょう同年どうねん12がつ歩兵ほへい少尉しょうい任官にんかん

1939ねん昭和しょうわ14ねん)8がつ歩兵ほへい大佐たいさ昇進しょうしん留守るすだい2師団しだん司令しれいづけ東北とうほく帝国ていこく大学だいがく配属はいぞく将校しょうこう)となった。同年どうねん10がつ仙台せんだい連隊れんたい司令しれいかん就任しゅうにんし、1941ねん昭和しょうわ16ねん)4がつだい38師団しだん歩兵ほへいだい230連隊れんたいちょう発令はつれいされ太平洋戦争たいへいようせんそうむかえた。

開戦かいせん香港ほんこんたたか参加さんかし、いでらんしるし作戦さくせんにおいて東海林しょうじ支隊したいちょうとなりジャワ島じゃわとう攻略こうりゃくせん担当たんとうジャワ島じゃわとう中部ちゅうぶのエレタンに上陸じょうりくしてカリヂャチィの飛行場ひこうじょう占領せんりょうし、だい2師団しだんバタビア攻略こうりゃく支援しえんした。

1943ねん昭和しょうわ18ねん)11月、だい5方面ほうめんぐん隷下れいかだい30警備けいび司令しれいかん発令はつれいされ網走あばしり駐屯ちゅうとん1944ねん昭和しょうわ19ねん)3がつ陸軍りくぐん少将しょうしょう進級しんきゅうした。同年どうねん10がつだい5方面ほうめんぐん兵務へいむ部長ぶちょう就任しゅうにんし、1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ仙台せんだい地区ちく司令しれいかんとなり終戦しゅうせんむかえた。1947ねん昭和しょうわ22ねん)11月28にち公職こうしょく追放ついほうかり指定していけた[1]

戦後せんごBCきゅう戦犯せんぱん容疑ようぎしゃとして、バタヴィア裁判さいばんけた(オランダ・バタヴィア裁判さいばん102ごう)。判決はんけつ死刑しけいであったが、懲役ちょうえき10ねん減刑げんけいされ、巣鴨すがも刑務所けいむしょうつされた。この裁判さいばん資料しりょうは、国立こくりつ公文書こうぶんしょかんに、所蔵しょぞうされている。

親族しんぞく

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つまトミは東京とうきょう高等こうとう工業こうぎょう学校がっこう教授きょうじゅ秋保あきう安治やすじさんじょ[2]

栄典えいてん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 総理そうりちょう官房かんぼう監査かんさへん公職こうしょく追放ついほうかんする覚書おぼえがき該当がいとうしゃ名簿めいぼ日比谷ひびや政経せいけいかい、1949ねん、「昭和しょうわじゅうねんじゅういちがつじゅうはちにち かり指定していしゃ」138ぺーじ
  2. ^ 秋保あきう安治やすじ (男性だんせい)人事じんじ興信録こうしんろくデータベース(名古屋大学なごやだいがく
  3. ^ 官報かんぽうだい167ごう叙任じょにん及辞れい」1913ねん2がつ21にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 外山とやまみさおへん陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1981ねん
  • 福川ふくかわ秀樹ひでき日本にっぽん陸軍りくぐん将官しょうかん辞典じてん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、2001ねん