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柳生やぎゅう徳政とくせい碑文ひぶん

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「柳生の疱瘡地蔵」に刻まれた徳政碑文(左)とその拓本(右)。碑文は風化が進み、文字の判別は困難な状態にある。 「柳生の疱瘡地蔵」に刻まれた徳政碑文(左)とその拓本(右)。碑文は風化が進み、文字の判別は困難な状態にある。
柳生やぎゅう疱瘡ほうそう地蔵じぞう」にきざまれた徳政とくせい碑文ひぶんひだり)とその拓本たくほんみぎ)。碑文ひぶん風化ふうかすすみ、文字もじ判別はんべつ困難こんなん状態じょうたいにある。

柳生やぎゅう徳政とくせい碑文ひぶん(やぎゅうのとくせいひぶん)は、奈良ならけん奈良なら柳生やぎゅうまちにある碑文ひぶん室町むろまち時代ときよ中期ちゅうきせいちょう元年がんねん1428ねん)にきたせいちょう一揆いっきにまつわる遺物いぶつとされている。「せいちょう元年がんねん柳生やぎゅう徳政とくせい」(しょうちょうがんねんやぎゅうとくせいひ)の名称めいしょうで、 昭和しょうわ58ねん1983ねん5月19にちくに史跡しせき指定していされた。

概要がいよう

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きゅう添上そえかみぐん柳生やぎゅうむら柳生やぎゅう街道かいどうめんする、芳徳寺ほうとくじかわへだてたがけに、「疱瘡ほうそう地蔵じぞう」と通称つうしょうする地蔵じぞう菩薩ぼさつ立像りつぞうした花崗岩かこうがん巨石きょせきがあり、そのかってみぎ部分ぶぶん碑文ひぶんきざまれている。せいちょう元年がんねん(1428ねん)にきたせいちょう一揆いっきによって徳政令とくせいれいったさとみんだれかが記念きねんきざんだものとされている。

碑文ひぶんには、

せいちょう元年がんねんヨリ
サキしゃカンへよんカン
カウニヲメアル
ヘカラス

という3ぎょうはん27文字もじぶん陰刻いんこくされており、くだせば「せいちょう元年がんねんよりさきは、神戸こうべ四箇しかきょうあるべからず」となる。「せいちょう元年がんねんより以前いぜんの、神戸こうべ(かんべ)四箇しかきょうにおける負債ふさい一切いっさい消滅しょうめつした」という、徳政令とくせいれい具体ぐたいてき内容ないようしるしたものと解釈かいしゃくされている。

なお、「神戸こうべ四箇しかきょう」とは大柳生おおやぎゅうしょう小柳こやなぎなましょう坂原さかはらしょう邑地おうじしょうの4しょうし、それは、芳徳よしのりぜんてらつたわる沢庵たくあん宗彭そうほうかね銘文めいぶんに「神戸こうべ(かんべ)四ヶ郷しかごう」とあることからも証明しょうめいされている[1]

現況げんきょう

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疱瘡ほうそう地蔵じぞうには屋根やねもうけられている。
巨石きょせき側面そくめんにも地蔵じぞうられている。

いし自体じたいたかさ3メートル、正面しょうめんはば3.5メートル、側面そくめんはば2.5メートル。碑文ひぶんきざまれている区画くかくは、この巨石きょせきみぎよりにあり、たて33センチメートル、よこ21センチメートルほど。いし中央ちゅうおう位置いちする地蔵じぞう菩薩ぼさつぞうは、疱瘡ほうそうけを祈願きがんしてられたとの伝説でんせつがあり、「疱瘡ほうそう地蔵じぞう」のられる。地蔵じぞうぞうには「もとおう元年がんねんおのれ(つちのとひつじ)十一月じゅういちがつ」のこくめいがあり(もとおう元年がんねん1319ねん)、したがって、徳政とくせい碑文ひぶん自体じたいは、地蔵じぞうぞうられてから109ねんきざまれたことになる。

1953ねん昭和しょうわ28ねん)3がつ奈良ならけん文化財ぶんかざい指定していされ、よく1954ねん昭和しょうわ29ねんには高校こうこう3ねん歴史れきし教科書きょうかしょ登載とうさいされた。その、1983ねん昭和しょうわ58ねん)には、くに史跡しせき指定していされた。

碑文ひぶん長年ながねん風雪ふうせつによって磨耗まもうしており、「ちょう」の以外いがい肉眼にくがん判別はんべつすることは困難こんなん状況じょうきょうである。もともとは露天ろてんであったが、1998ねん平成へいせい10ねん)、奈良ならにより周辺しゅうへん整備せいびされ[2]屋根やね木柵もくさくによって保護ほごされるようになった。

なお、国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんだい2展示てんじしつ中世ちゅうせい)にレプリカが展示てんじされている。

研究けんきゅう

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柳生やぎゅう徳政とくせい碑文ひぶん歴史れきしがくてき研究けんきゅうはじめて手掛てがけたのは、郷土きょうど史家しか杉田すぎた定一さだいちである。大正たいしょう3ねんから研究けんきゅう開始かいしした杉田すぎたは、とおる年間ねんかん柳生やぎゅうはん松田まつだ四郎しろう兵衛ひょうえしるした『柳生やぎゅう雑記ざっきろく』に「地蔵じぞうせきてんちょうもとつちのえさるねん春日かすが四箇しかきょうこと書付かきつけゆう」とあるのを確認かくにん、その、1924ねん大正たいしょう13ねん)にせいちょう一揆いっき遺物いぶつせつとなえた。

そして杉田すぎたが、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく史料しりょう編纂へんさんしょ渡辺わたなべゆう鑑定かんてい依頼いらいした結果けっか徳政とくせい一揆いっき史料しりょう確認かくにんされた。それをけ、1925ねん大正たいしょう14ねん)1がつ15にちの『大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん大和やまとばんに「めずらしく発見はっけんされた足利あしかが時代じだいにおける暴政ぼうせい記念きねんぶつ」という見出みだしで記事きじ掲載けいさいされ、はじめて碑文ひぶん世間せけん紹介しょうかいされた[3]

さらに1964ねん昭和しょうわ39ねん)8がつ一橋大学ひとつばしだいがく永原ながはらけい調査ちょうさおとずれ、よく1965ねん昭和しょうわ40ねん)11月に刊行かんこうした著書ちょしょ日本にっぽん歴史れきし10 下克上げこくじょう時代じだい』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ)で「柳生やぎゅう徳政とくせい碑文ひぶん」としてげたことにより、ひろられるようになった[4]

史料しりょうてき価値かち

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せいちょう一揆いっきにおいて、実際じっさい民衆みんしゅうがどのような徳政とくせいたのかを理解りかいする史料しりょうとぼしく、たとえば京都きょうとにおいては、幕府ばくふ徳政とくせい禁止きんしれいしたことは確認かくにんされているが、徳政令とくせいれいそのものをしたことを確認かくにんする史料しりょうはない。だが、奈良ならにおいては、興福寺こうふくじ関係かんけい文書ぶんしょとならび、「柳生やぎゅう徳政とくせい碑文ひぶん」がのこされているため、徳政令とくせいれい具体ぐたいてき内容ないようをうかがうことが可能かのうとなった。また、領主りょうしゅがわ立場たちばからの史料しりょうではなく、農民のうみんがわ立場たちばからの史料しりょうであるてんにも、史料しりょう価値かちみとめられる。

永原ながはらけいは、興福寺こうふくじのこされる文書ぶんしょ禁制きんせい 徳政令とくせいれい 条々じょうじょう」(せいちょう元年がんねん11がつ)を、徳政とくせい実施じっし規則きそくさだめた文書ぶんしょであるとの見解けんかいしめしている。この文書ぶんしょ碑文ひぶん年次ねんじ一致いっちするため、永原ながはらは、大和やまとでは興福寺こうふくじ徳政令とくせいれい発布はっぷし、その結果けっか、「柳生やぎゅう徳政とくせい碑文ひぶん」がきざけられたと結論けつろんづけている[5]

疑問ぎもんてん

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関西学院大学かんせいがくいんだいがく永島ながしま福太郎ふくたろうは、「ヲイメ」という言葉ことばは16世紀せいきまつ天正てんしょう以降いこう言葉ことばではないかとして、碑文ひぶん時代じだい鑑定かんてい疑問ぎもんていしている[6]。また、「四箇しかきょう」をなぜ「シカンカウ」と表記ひょうきしたのかという疑問ぎもん存在そんざいするが、このてんかんしては一橋大学ひとつばしだいがく亀井かめいたかしが、「ン」は当時とうじ発音はつおんにおける「ガおん」に先行せんこうするけい鼻音びおんであるとの見解けんかいしめしている[7]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 杉田すぎた定一さだいち「いろは柳生やぎゅう物語ものがたり」、柳生やぎゅう観光かんこう協会きょうかいへん新版しんぱん柳生やぎゅうさと』、柳生やぎゅう観光かんこう協会きょうかいかん、128 - 131ぺーじ、2000ねん
  2. ^ 柳生やぎゅう観光かんこう協会きょうかいへん新版しんぱん柳生やぎゅうさと』、柳生やぎゅう観光かんこう協会きょうかいかん、22ぺーじ、2000ねん
  3. ^ 永原ながはらけい日本にっぽん歴史れきし10 下克上げこくじょう時代じだい』、中公ちゅうこう文庫ぶんこ、75 - 76ぺーじ、1974
  4. ^ 杉田すぎた定一さだいち「いろは柳生やぎゅう物語ものがたり」、柳生やぎゅう観光かんこう協会きょうかいへん新版しんぱん柳生やぎゅうさと』、柳生やぎゅう観光かんこう協会きょうかいかん、128 - 131ぺーじ、2000ねん
  5. ^ 永原ながはらけい日本にっぽん歴史れきし10 下克上げこくじょう時代じだい中公ちゅうこう文庫ぶんこ、78ページ、1974
  6. ^ 永島ながしま福太郎ふくたろうせいちょう一揆いっき経過けいか」、日本にっぽん歴史れきし学会がっかいへん日本にっぽん歴史れきし」202ごう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1965
  7. ^ 永原ながはらけい日本にっぽん歴史れきし10 下克上げこくじょう時代じだい』、中公ちゅうこう文庫ぶんこ、77ページ、1974

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 永原ながはらけい日本にっぽん歴史れきし10 下克上げこくじょう時代じだい改版かいはん)』中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2005。ISBN 978-4122044951
  • 柳生やぎゅう観光かんこう協会きょうかいへん新版しんぱん柳生やぎゅうさと柳生やぎゅう観光かんこう協会きょうかいかん、2000。

外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい3443ふん28.8びょう 東経とうけい13557ふん10.4びょう / 北緯ほくい34.724667 東経とうけい135.952889 / 34.724667; 135.952889