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もりつくるせん

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もりつくる せん(もりさく こせん、明治めいじ9ねん1876ねん10がつ10日とおか - 大正たいしょう14ねん1925ねん9月5にち)は、明治めいじから大正たいしょう時代じだい女流じょりゅう画家がかである。

経歴けいれき

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茨城いばらきけん行方ゆくえぐん秋津あきつむら串挽くしひきげん鉾田ほこた)にもりさく要蔵ようぞう・すき夫妻ふさい次女じじょとしてまれた。本名ほんみょうはふじ(一説いっせつとみおもえ)。幼少ようしょうより画才がさいをあらわし、かみだこえがいては市販しはんのものよりすぐれていたといわれた。のち上京じょうきょうし、松本まつもと楓湖ふうこいえ画業がぎょうはげんだ。明治めいじ29ねん(1896ねん)と明治めいじ30ねん(1897ねん)にみずうみせんあに竹次郎たけじろうてた封書ふうしょうらには、「東京とうきょう浅草あさくさかやまち2丁目ちょうめ31番地ばんち松本まつもと楓湖ふうこじゅくかた」とあるので、20さいごろにはすでに入塾にゅうじゅくし、このころからみずうみせんというごう使つかっていたこと、また文面ぶんめんから、あに竹次郎たけじろう学費がくひ援助えんじょしていたことをることができる。明治めいじ29ねん1896ねん)に松本まつもと楓湖ふうこ門下生もんかせい中心ちゅうしんたつみ画会がかい結成けっせいされているので、みずうみせんもこのかい研磨けんまんだであろうとおもわれる。みずうみせんは「人物じんぶつ花鳥かちょうをよくし、とく美人びじん得意とくいとした」とわれている。明治めいじ40ねん1907ねん)の東京とうきょう勧業かんぎょう博覧はくらんかいでは、楓湖ふうこは「長年ながねんたてまつみかど」で1とうしょう受賞じゅしょうし、みずうみせん出品しゅっぴんした「きん調ちょう」は当時とうじ台湾たいわん総督そうとく買上かいあげとなった。生家せいかのある鉾田ほこた発行はっこうした歴史れきししょ紹介しょうかいらんには、あたらしいかた主張しゅちょうする明治めいじ女性じょせいとして、唯一ゆいいつ写真しゃしんりで掲載けいさいされている。また大正たいしょう4ねん1915ねん発行はっこうの『婦人ふじん週報しゅうほう』7がつごうに「面白おもしろかったなつ」とだいして手記しゅき掲載けいさいされた。みずうみせん生涯しょうがい故郷こきょうもどることなく、晩年ばんねん東京とうきょう本郷ほんごうみ、やまいて、大正たいしょう14ねん(1925ねん)にくなった。享年きょうねん50。生涯しょうがい独身どくしん遺骨いこつ故郷こきょう串挽くしひき自蔵じぞういん分骨ぶんこつ埋葬まいそうされている。

代表だいひょうさく

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  • あきよる日本にっぽん美術びじゅつ協会きょうかい明治めいじ32ねん(1899ねん
  • 美人びじんかんはな日本にっぽん絵画かいが協会きょうかい明治めいじ33ねん(1900ねん
  • から美人びじん日本にっぽん絵画かいが協会きょうかい明治めいじ34ねん(1901ねん
  • 元禄げんろく美人びじんたつみ画会がかい明治めいじ38ねん(1905ねん
  • きん棋書たつみ画会がかい明治めいじ39ねん(1906ねん
  • きん調ちょう東京とうきょう勧業かんぎょう博覧はくらんかい明治めいじ40ねん(1907ねん)
  • 『しづかなよるたつみ画会がかい明治めいじ44ねん(1911ねん
  • 朝霧あさぎり東洋とうよう絵画かいが協会きょうかい明治めいじ44ねん(1911ねん

関係かんけい資料しりょう

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  • 図説ずせつ『ほこたの歴史れきし鉾田ほこたまち編纂へんさん委員いいんかい、170-171P
  • 鉾田ほこた通史つうしした)』、278-280P
  • 大内おおうち健二けんじ茨城いばらき書画しょが鑑賞かんしょう手引てびき』 筑波つくば書林しょりんうえ62P
  • 広報こうほうほこた』昭和しょうわ49ねん3がつごう