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永井寺 (古河市) - Wikipedia コンテンツにスキップ

永井ながいてら (古河ふるかわ)

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永井ながいてら

本堂ほんどう(2012ねん7がつ
所在地しょざいち 茨城いばらきけん古河ふるかわ西にしまち9-33
位置いち 北緯ほくい3611ふん48.253びょう 東経とうけい13941ふん48.253びょう / 北緯ほくい36.19673694 東経とうけい139.69673694 / 36.19673694; 139.69673694座標ざひょう: 北緯ほくい3611ふん48.253びょう 東経とうけい13941ふん48.253びょう / 北緯ほくい36.19673694 東経とうけい139.69673694 / 36.19673694; 139.69673694
山号さんごう りゅう渓山けいざん
宗派しゅうは 曹洞宗そうとうしゅう
本尊ほんぞん 釈迦如来しゃかにょらい
創建そうけんねん 寛永かんえい3ねん1626ねん
開基かいき 永井ながいただしかち
正式せいしきめい りゅう渓山けいざん 大雄たいゆういん 永井ながいてら
文化財ぶんかざい 絹本けんぽん着色ちゃくしょく永井ながいただしかち肖像しょうぞう指定してい絵画かいが
法人ほうじん番号ばんごう 9050005005634 ウィキデータを編集
永井寺 (古河市)の位置(茨城県内)
永井寺 (古河市)
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永井ながいてら(えいせいじ)は、茨城いばらきけん古河ふるかわ西町にしまち西片にしかたまち)にある曹洞宗そうとうしゅう寺院じいん正式せいしきには、山号さんごうりゅう渓山けいざん院号いんごう大雄たいゆういん寺号じごう永井ながいてらという。[1]

歴史れきし

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江戸えど時代じだい寛永かんえい3ねん1626ねん)、古河ふるかわしろあるじ永井ながいただしかち開基かいきなおせいちち追善ついぜん供養くようのため建立こんりゅう)し、永井ながい菩提寺ぼだいじとなった[1]古河ふるかわしろ観音寺かんおんじ曲輪くるわほりはさんだ北側きたがわ隣接りんせつし、追手おってもんちか武家ぶけ立地りっちしていた。

文化財ぶんかざい

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  • 永井ながい墓所はかしょ: 初代しょだい永井ながいただしかち墳墓ふんぼたから篋印とう、2だいなおせいと3だいなおせいおとうとなおいさお供養くようとう、および、 はやし羅山らざん撰文せんぶんちょくかち顕彰けんしょうがある。古河ふるかわ指定してい文化財ぶんかざい史跡しせき)。[2]
  • 小山こやま霞外かがいはか: もとは江戸えどまち中央ちゅうおうまち)の小山こやま屋敷やしきにあったが、昭和しょうわ24ねん1949ねん)に改葬かいそうされたもの。の梧岡、まごへりくだどうはかもある。古河ふるかわ指定してい文化財ぶんかざい史跡しせき)。[3] 霞外かがい幕末ばくまつ活躍かつやくした著名ちょめい書家しょかであり、自在じざい唐様からよう書風しょふう確立かくりつ門人もんじん古河ふるかわ江戸えどにてすうせんにんおよんだという[4]指定してい文化財ぶんかざい有形ゆうけい民俗みんぞく)となっている日光にっこう街道かいどう道標どうひょう霞外かがい揮毫きごうによる[5]
  • 小高おだかえききょうはか: えききょう土井どいとしあつし時代じだいに、古河ふるかわはん藩校はんこうであるみつるどう教授きょうじゅつとめた。古河ふるかわ指定してい文化財ぶんかざい史跡しせき)。[6]
  • 絹本けんぽん着色ちゃくしょく永井ながいただしかち肖像しょうぞう: 晩年ばんねん衣冠いかん束帯そくたい姿すがたえがかれている。小牧こまき長久手ながくてたたか戦傷せんしょうによりひだり人差ひとさゆびうしなった姿すがたのままになっている。いちぶく たて137cm、よこ82cm。古河ふるかわ指定してい文化財ぶんかざい絵画かいが)。[7]
  • こう陽成ようぜい天皇てんのうくちせんあん: ぶんろく4ねん1595ねん)、永井ながいただしかち豊臣とよとみ秀吉ひでよし推薦すいせん官位かんいさづけられたときのもの。したがえ右近うこん大夫たいふおのおのについて、1つうずつのこされている。古河ふるかわ指定してい文化財ぶんかざい古文書こもんじょ)。[8]
  • 永井ながいしょうせい永井ながいてらじょうしょ: うけたまわおう元年がんねん1652ねん)、山城やましろ京都きょうとよどみじょうおもとなっていたぜん古河ふるかわ城主じょうしゅ永井ながいしょうせいさだめた永井ながいてら規則きそく幕府ばくふ古河ふるかわ城主じょうしゅ法度はっとそむかないこと、ろうじんには宿やどさないことがさだめられている。古河ふるかわ指定してい文化財ぶんかざい古文書こもんじょ)。[9]
  • 本多ほんだ忠良ただよし寄進きしんじょう: とおる17ねん1732ねん)、古河ふるかわ城主じょうしゅ本多ほんだ忠良ただよし実母じつぼ墓所はかしょもうけるさいに、はたけたん白銀はくぎん25まい寄進きしんしたときのもの。古河ふるかわ指定してい文化財ぶんかざい古文書こもんじょ)。[10]
  • 伊藤いとう平井ひらい寄進きしんじょう: たかられき9ねん1759ねん)、古河ふるかわ城主じょうしゅ本多ほんだ石見いわみこくうたてふうさいに、家臣かしん2めい祖母そぼおや菩提ぼだいとむらうようにはたけえいせんいん寄進きしんしたときのもの。えいせんいん廃寺はいじになったさいいだとかんがえられる。古河ふるかわ指定してい文化財ぶんかざい古文書こもんじょ)。[11]
  • 遠藤えんどうあずか衛門えもん寄進きしんじょう: たかられき9ねん(1759ねん)、古河ふるかわ城主じょうしゅ本多ほんだ石見いわみこくうたてふうさいに、家臣かしんであった遠藤えんどうあずか衛門えもん祖父そふちち永代えいたい供養くようりょうとして、はたけえいせんいん寄進きしんしたときのもの。えいせんいん廃寺はいじになったさいいだとかんがえられる。古河ふるかわ指定してい文化財ぶんかざい古文書こもんじょ)。[12]
  • 文机ふづくえ古河ふるかわしろさんかいこわされたとき、そのとびらさい利用りようしてつくられたとつたわる文机ふづくえのこされている。[13]

交通こうつう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 古河ふるかわ 民俗みんぞくへん』 828ぺーじ
  2. ^ 古河ふるかわ文化財ぶんかざい』 69ぺーじ
  3. ^ 古河ふるかわ文化財ぶんかざい』 77ぺーじ
  4. ^ 古河ふるかわ公式こうしきホームページ 古河ふるかわ歴史れきし博物館はくぶつかん 古河ふるかわ文人ぶんじんたち
  5. ^ 古河ふるかわ文化財ぶんかざい』 62ぺーじ
  6. ^ 古河ふるかわ文化財ぶんかざい』 83ぺーじ
  7. ^ 古河ふるかわ文化財ぶんかざい』 15ぺーじ
  8. ^ 古河ふるかわ文化財ぶんかざい』 41-42ぺーじ
  9. ^ 古河ふるかわ文化財ぶんかざい』 46ぺーじ
  10. ^ 古河ふるかわ文化財ぶんかざい』 43ぺーじ
  11. ^ 古河ふるかわ文化財ぶんかざい』 44ぺーじ
  12. ^ 古河ふるかわ文化財ぶんかざい』 45ぺーじ
  13. ^ 古河ふるかわ公式こうしきホームページ 古河ふるかわ歴史れきし博物館はくぶつかん ぞく歴史れきし散歩さんぽ 古河ふるかわじょうのゆくえ 永井ながいてら所蔵しょぞう文机ふづくえをめぐって
  14. ^ 駅西えきにし口前くちまえはなももかん」(まちなか再生さいせい市民しみんひろば)にて・古河ふるかわ公式こうしきホームページ 観光かんこう歴史れきし 古河ふるかわ観光かんこうパンフレットより

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 古河ふるかわ公式こうしきホームページ
  • 古河ふるかわへんさん委員いいんかい へん古河ふるかわ 民俗みんぞくへん古河ふるかわ、1983ねん
  • 古河ふるかわ文化財ぶんかざい保護ほご審議しんぎかい へん古河ふるかわ文化財ぶんかざい古河ふるかわ、1993ねん