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江幡えはた広光ひろみつ

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江幡えはた 広光ひろみつ
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ
生誕せいたん 天保てんぽう10ねん9月6にち1838ねん10月12にち[1]
死没しぼつ 元治もとはる元年がんねん6月16にち1864ねん7がつ19にち
別名べつめい はつ栄三郎えいさぶろう通称つうしょうさだ七郎しちろう別名べつめい定彦さだひこ
墓所はかしょ 京都きょうと東山ひがしやま 霊山りょうぜん墓地ぼち
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
はん 水戸みとはん
父母ちちはは ちち江幡えはたじょう衛門えもんのりはは後藤ごとう
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江幡えはた 広光ひろみつ(えばた ひろみつ)は、幕末ばくまつ水戸みとはん

略伝りゃくでん

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水戸みと藤沢ふじさわ小路こうじらす藩士はんし江幡えはたじょう衛門えもんのり長男ちょうなんとしてはんりょう海老沢えびさわむらまれる[1]ちち同村どうそんやくあらためかかだった[1]はは後藤ごとう[1]祖父そふ江幡えはたじょう衛門えもんどうれい[1]

万延まんえん元年がんねん3月、床几しょうぎまわりめいじられ、白銀はくぎんもら[1]文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)、武芸ぶげい出精しゅっせいにつき、ふたた白銀はくぎんもら[1]文久ぶんきゅう3ねん1863ねん)2がつ水戸みと藩主はんしゅ徳川とくがわ慶篤よしあつ上洛じょうらく扈従こしょうし、4がつ10日とおか男山おとこやま行幸ぎょうこうさい供奉ぐぶした徳川とくがわあまりよん麿まろ松平まつだいらあきらくん)に随従ずいじゅうする[1]正親町おおぎまちこうただし攘夷じょうい監察かんさつ使として長州ちょうしゅう下向げこうするさいには警衛けいえいめいじられ、かねじゅうりょうあたえられた。9月7にち有栖川ありすがわみや警衛けいえいめいじられ、どう26にち朝廷ちょうていからかねろくひゃく疋をいただ[1]。12月7にち床几しょうぎまわり世話ぜわやくめいじられる[1]元治もとはる元年がんねん4がつ1にち有栖川ありすがわ警衛けいえい御免ごめんとなり、いちきょうしたがうことになった[1]

当時とうじ公武こうぶ合体がったい諸侯しょこう中心ちゅうしん人物じんぶつ一橋ひとつばし慶喜よしのぶであり、その仲介ちゅうかい実行じっこうやく攘夷じょうい駆逐くちくしようとはかっていたのがいちきょう家老がろうなみ平岡ひらおかまどか四郎しろうられていた。元治もとはる元年がんねん6がつ16にちはやしただし五郎ごろうすうめいとともに、平岡ひらおか京都きょうとまち奉行ぶぎょうしょ与力よりき長屋ながや千本せんぼんぐみ屋敷やしきそと斬殺ざんさつした。

平岡ひらおか即死そくしだったが、いちきょう使役しえき家人かじん川村かわむらめぐみ十郎じゅうろうにより、はやしただし五郎ごろうとともにころされた。広光ひろみつ重傷じゅうしょうったのち自害じがいしたといわれる。

登場とうじょう作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 勤王きんのう殉国じゅんこく事蹟じせき じゅう東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさん所蔵しょぞう