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洞川どろがわ電気でんき索道さくどう

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洞川どろがわ電気でんき索道さくどう(どろがわでんきさくどう)または洞川どろがわ索道さくどう洞川どろがわ鉄索てっさく(どろかわてっさく)は、かつて存在そんざいした物資ぶっし専用せんよう索道さくどう会社かいしゃ奈良ならけん吉野よしのぐん大淀おおよどまち天川あまかわむら洞川どろがわむすんだ。付近ふきん並行へいこうしてはしっていた日本にっぽん鋼管こうかんげんJFEホールディングス)の鉱石こうせき運搬うんぱん専用せんよう索道さくどうについてもべる。

概要がいよう

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紀伊きい山地さんち位置いちふか山々やまやまかこまれた奈良ならけん南部なんぶ吉野よしのぐん)は、明治めいじはいると馬車ばしゃなどがとおれるような山越やまごえの道路どうろ整備せいびされはじめる。しかし、けわしい山越やまごえのみち大量たいりょう物資ぶっしはこぶにはまだまだ不十分ふじゅうぶんであった。そのため大量たいりょう物資ぶっし確実かくじつはこぶために下市しもいちまち丹生にゅうむらいま下市しもいちまち)、黒滝くろたきむら天川あまかわむら有志ゆうし、また大阪おおさかくにちゅう奈良盆地ならぼんち)にやまち(地主じぬし)らが資金しきん1913ねん大正たいしょう2ねん)に「株式会社かぶしきがいしゃ洞川どろがわ鉄索てっさく」を設立せつりつする(資本しほんきんやく25まんえん[1][2][3]索道さくどう当初とうしょ洞川どろがわむらから現在げんざい下市しもいち町立ちょうりつ下市しもいち中学校ちゅうがっこうあたりまでをむすんでいたが、1917ねん大正たいしょう6ねん)には、吉野川よしのがわかわえて大淀おおよどまち下市しもいちくちえき付近ふきんまで延長えんちょうされ、延長えんちょう12まいる路線ろせん全通ぜんつうした[4]洞川どろがわからは産出さんしゅつされる木材もくざいはこされ、下市しもいちからは生活せいかつ物資ぶっし洞川どろがわへとはこまれ、1にちなんじゅうトンもの物資ぶっし運搬うんぱんされたという。その道路どうろ整備せいびされトラックによる輸送ゆそう発達はったつすると1934ねん昭和しょうわ9ねん)に撤去てっきょされる。

経由けいゆ以下いかとおり。なお、運送うんそうちんこめ1ひょう20せんすみ1ひょう12ぜにだった。

  • 洞川どろがわ川合かわい笠木かさぎ桂原かつらはら長瀬ながせ広橋ひろはしとうげ善城ぜんぎこうえき付近ふきん

なお、経由けいゆにはえきもうけられ、えきへとつうずるみちつくられた[5]。また笠木かさぎえきからそうひのきむら川股かわまた鉱山こうざん五條ごじょう西吉野にしよしのまち西日裏にしひうら付近ふきん)まで支線しせんもうけて鉱石こうせき運搬うんぱんすう年間ねんかんおこなっていた[5]

だい営業えいぎょう報告ほうこくしょによる大正たいしょう4ねん2がつから5がつまでの長瀬ながせえき笠木かさぎえき取扱とりあつかい貨物かもつりょう以下いかとおりだった。括弧かっこない収入しゅうにゅう[5]

  • 長瀬ながせえき
2がつ 18,235かん(56.560えん
3月 10,060かん(51.810えん
4がつ 7,530かん(34.930えん
5月 24,159かん(110.925えん
  • 笠木かさぎえき
2がつ 22,714かん(84.900えん
3月 17,350かん(85.535えん
4がつ 29,699かん(156.465えん
5月 25,007かん(136.690えん

馬車ばしゃひとしゃ鉄道てつどう計画けいかく

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洞川どろがわ電気でんき索道さくどう同社どうしゃ運営うんえいする索道さくどう並行へいこうして軌道きどう敷設ふせつし、索道さくどうでははこべない容積ようせきだいなるもの重量じゅうりょうぶつ馬力ばりきおよ人力じんりき輸送ゆそうする計画けいかく[6]、1921ねん7がつ軌道きどう敷設ふせつ特許とっきょ[7]取得しゅとくしたが1925ねん5がつ失効しっこう[8]となった[9]

輸送ゆそう収入しゅうにゅう実績じっせき

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年度ねんど 貨物かもつ総量そうりょう(トン) 賃金ちんぎんえん
1923 3,564,524 119,020
1924 21,402,240 137,368
1925 2,157,311 80,663
1926 907,955 30,500
1927
1928 1,541,600 44,311
1929 1,438,422 41,350
1930 4,397,575 33,116
1931 3,854,518 20,948
1932 36,748 1,935
1933 休業きゅうぎょうちゅう
  • 奈良ならけん統計とうけいしょかく年度ねんどばん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)

電気でんき事業じぎょう

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吉野よしのぐん天川あまかわむら黒瀧くろたきむら丹生にゅうむら電気でんき供給きょうきゅうしていたが[10]、1921ねん3がつ受電じゅでんしていた大和やまと電気でんき電気でんき事業じぎょう譲渡ゆずりわたしている[11]

日本にっぽん鋼管こうかん索道さくどう

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かつて天川あまかわむら中城なかぐすく観音峯山かんのんみねやま中腹ちゅうふくには大峯おおみね鉱山こうざんばれる鉱山こうざんがあった。『大阪おおさかこうつとむしょ管内かんない鉱区こうく一覧いちらん』では大正たいしょう7年版ねんばん[12](1918ねん)から記載きさいがあり[13]磁鉄鉱じてっこうなどの鉱物こうぶつ資源しげんれた[1]日本鋼管にほんこうかんが、この鉱石こうせきはこすために観音峯山かんのんみねやまからみなみかずら古瀬ふるせいま御所ごしょ古瀬ふるせ吉野口よしのぐちえき付近ふきん)へとつうずる延長えんちょう23.8kmの専用せんよう索道さくどう通称つうしょう大峯おおみね索道さくどう(おおみねさくどう)[13]1917ねん大正たいしょう6ねん)に開設かいせつし、翌年よくねん7がつから運転うんてん開始かいしした[1]。この索道さくどう動力どうりょくは、途中とちゅう阿知賀あちが大阪おおさかガスせい100馬力ばりき発動はつどう長瀬ながせまで運転うんてんし、長瀬ながせで50馬力ばりきえて運転うんてんしたという[14]

鉱石こうせき運搬うんぱん1921ねん大正たいしょう10ねん)までつづいたが[1]早々そうそう専用せんよう索道さくどうから貨物かもつよう索道さくどう転換てんかんされた。『架空かくう鉄索てっさくどう台帳だいちょう[15]によると1919ねん大正たいしょう8ねん)8がつ8にち免許めんきょ申請しんせいがありよく1920ねん大正たいしょう9ねん)1がつ24にち認可にんかされている[13]洞川どろがわえき鉱山こうざんこう)、あぶとうげえき天川あまかわむら洞川どろがわ)、阿知賀あちがえき下市しもいちまち)、吉野口よしのぐちえきの4えきがあったが、臨時りんじ黒木くろきつじ笠木かさぎとうげ東方とうほう)や深谷ふかや天川あまかわむら川合かわい)にえきもうけて貨物かもつみをおこなうこともあった[13]洞川どろがわ電気でんき索道さくどう競合きょうごうしたはずだがあつか荷物にもつほらでんがわ協議きょうぎするなどして共存きょうぞんはかられていたようである[13]

経由けいゆ以下いかとお

  • 観音峯山かんのんみねやまほら川口かわぐち笠木かさぎ桂原かつらはら長瀬ながせ広橋ひろはし岩森いわもり阿知賀あちがみなみかずら古瀬ふるせ吉野口よしのぐちえき付近ふきん

また貨物かもつ索道さくどうとなってからは大阪おおさかばこ株式会社かぶしきがいしゃ(この会社かいしゃ弥山川みせんがわ奥地おくち伐採ばっさい索道さくどう天川あまかわむら沢谷さわたに搬出はんしゅつし、せいばんしてばこ材料ざいりょう製造せいぞうしていた)の索道さくどう接続せつぞくした。天川あまかわむら発行はっこう天川あまかわむらガイドブック』などには、天川あまかわむら沢谷さわたにからあぶとうげびる索道さくどうや搬器の「よしくちぎょう」の文字もじれる写真しゃしん掲載けいさいされており、この索道さくどう撮影さつえいしたものであることがわかる[13][16]

貨物かもつよう索道さくどう転用てんようされ延命えんめいした大峯おおみね索道さくどうではあったが、1929ねん昭和しょうわ4ねんごろまで使つかわれたものの翌年よくねんには休止きゅうし[1]昭和しょうわ10ねん前後ぜんこう撤収てっしゅうされた[5]

観音峯山かんのんみねやま南側みなみがわのハイキングどうわき鉱山こうざん施設しせつ遺構いこうがあるが、そこからやく50m西にし地点ちてん事務所じむしょあと索道さくどうえきあと推定すいていされるコンクリート基礎きそぐんのこっている。またきゅう笠木かさぎとうげどうわき北緯ほくい3416ふん11.0びょう 東経とうけい13550ふん31.1びょう / 北緯ほくい34.269722 東経とうけい135.841972 / 34.269722; 135.841972 (索道さくどう黒木くろきつじえきあと))にコンクリートかたまりのこ平場ひらばがあり黒木くろきつじえきあと推定すいていされるが、洞川どろがわ電気でんき索道さくどう遺構いこうである可能かのうせいもある。阿知賀あちがえきあと近年きんねんさい開発かいはつかえされており姿すがためていない。吉野口よしのぐちえきあと鉄道てつどうえき北西ほくせいにあるはたけ北緯ほくい3425ふん23.0びょう 東経とうけい13544ふん59.9びょう / 北緯ほくい34.423056 東経とうけい135.749972 / 34.423056; 135.749972 (索道さくどう吉野口よしのぐちえきあと))に基礎きそひとのこっている。かつてはJRせんから索道さくどうえきへのせんもあったという[5]

輸送ゆそう収入しゅうにゅう実績じっせき
年度ねんど 貨物かもつ総量そうりょう(トン) 賃金ちんぎんえん 距離きょりまいる
1923 552,800 6,600 8.7
1924 530,000 31,800 8.7
1925 797,000 7,970 8.7
1926 9,460 14,559 31,0
1927
1928 - - -
1929 - - -
1930 休業きゅうぎょうちゅう
  • 奈良ならけん統計とうけいしょかく年度ねんどばん、1927年版ねんばん欠本けっぽん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e 下市しもいちまち
  2. ^ 黒滝くろたきむらでは大正たいしょう元年がんねん12がつ設立せつりつ大正たいしょう3ねん12月に工事こうじ完了かんりょうとある。翌年よくねん大正たいしょう4ねん)から運転うんてん開始かいしされたようだ
  3. ^ 帝国ていこく銀行ぎんこう会社かいしゃ要録ようろく : 大正たいしょう2年度ねんど(だい2はん)』国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)では洞川どろがわ電気でんき索道さくどう株式会社かぶしきがいしゃ
  4. ^ 日本にっぽん近代きんだい架空かくう索道さくどう』184ぺーじ
  5. ^ a b c d e 黒滝くろたきむら
  6. ^ 起業きぎょう目論見もくろみしょ」『鉄道てつどうしょう文書ぶんしょ 東海とうかい電気でんき軌道きどう洞川どろがわ電気でんき軌道きどう徳山とくやま電気でんき軌道きどう徳力とくりき軌道きどう東部とうぶ電力でんりょく豊橋とよはし臨港りんこう鉄道てつどういち)』58ぺーじ国立こくりつ公文書こうぶんしょかん デジタルアーカイブ で画像がぞう閲覧えつらん
  7. ^ 軌道きどう特許とっきょじょう下付かふ」『官報かんぽう』1921ねん8がつ2にち国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)
  8. ^ 軌道きどう特許とっきょ失効しっこう」『官報かんぽう』1925ねん5がつ29にち国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)
  9. ^ 森村もりむら誠之せいしちょ鉄道てつどう未成みせいせんある私鉄してつへんp187
  10. ^ 1913ねん2がつ18にち許可きょか、1915ねん2がつ15にち開始かいし電気でんき事業じぎょう要覧ようらん. だい12かい国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)
  11. ^ 電気でんき事業じぎょう要覧ようらん. だい13かい国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)
  12. ^ NDLJP:986990
  13. ^ a b c d e f 奈良ならけん教育きょういく委員いいんかい 2014ねん pp. 99 f.
  14. ^ 黒滝くろたきむらによれば、笠木かさぎけいはら長瀬ながせには500馬力ばりき運転うんてんしょ出来できたとある
  15. ^ 奈良ならけんでは1912ねん明治めいじ45ねん)に開通かいつうした県下けんか最初さいしょ貨物かもつ索道さくどう大和やまと索道さくどう建設けんせつさい全国ぜんこく先駆さきが貨物かもつ索道さくどう条例じょうれい制定せいていし、貨物かもつ索道さくどう運用うんよう免許めんきょせいとしていた。
  16. ^ 日本にっぽんはいどうだい80ごう日本にっぽんはいどう編集へんしゅう - Google ブックス

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 下市しもいちまち』(昭和しょうわ33年刊ねんかん) p.56-58
  • 黒滝くろたきむら』(昭和しょうわ52年刊ねんかん
  • 齋藤さいとう達男たつお日本にっぽん近代きんだい架空かくう索道さくどう』 コロナしゃ、1985ねん、184-189ぺーじ
  • 奈良ならけん近代きんだい遺産いさん奈良ならけん近代きんだい遺産いさん総合そうごう調査ちょうさ報告ほうこくしょ—』 奈良ならけん教育きょういく委員いいんかい平成へいせい26ねん3がつ