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深尾ふかお

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ふかお しょう

深尾ふかお
後列こうれつひだりから深尾ふかお韶、荒畑あらはた寒村かんそん渡辺わたなべ政太郎まさたろうケア・ハーディ歓迎かんげいかいにて
生誕せいたん 1880ねん11月12にち
静岡しずおかけん静岡しずおか駿府すんぷじょう
死没しぼつ (1963-11-08) 1963ねん11月8にち(82さいぼつ
死因しいん 老衰ろうすい
出身しゅっしんこう 小島こじまむら尋常じんじょう小学校しょうがっこう
職業しょくぎょう 教員きょういん
革命かくめい
工場こうじょう経営けいえいしゃ
著名ちょめい実績じっせき ボーイスカウトしき少年しょうねんだん結成けっせい
運動うんどう動向どうこう 平民へいみんしゃ
日本にっぽん社会党しゃかいとう
運動うんどう離脱りだつ
罪名ざいめい 兇徒きょうと聚集ざい電車でんしゃ事件じけん
受賞じゅしょう ボーイスカウト日本にっぽん連盟れんめい先達せんだつ
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深尾ふかお(ふかお しょう、1880ねん11月12にち - 1963ねん11月8にち)は、静岡しずおかけん静岡しずおか城内きうちまれの明治めいじ時代じだい社会しゃかい主義しゅぎもの教育きょういくしゃ日本にっぽん社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう草分くさわけのひとり。日本にっぽんボーイスカウト運動うんどう草創そうそうになったひとりでもある。

経歴けいれき

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1880ねん11月12にち駿府すんぷ城内じょうのうち旗本はたもと屋敷やしきまれる[1]ちちもと静岡しずおか藩士はんししるし税吏ぜいり教員きょういん深尾ふかお信四郎のぶしろう。1891ねん小島こじまむら尋常じんじょう小学校しょうがっこうげん静岡しずおか市立しりつ清水しみず小河内おかうち小学校しょうがっこう卒業そつぎょうしたのちちちかれ師範しはん学校がっこう進学しんがくすすめたが、勤務きんむ義務ぎむきら進学しんがくしなかった[1]少年しょうねん時代じだいから文芸ぶんげい雑誌ざっしによく投稿とうこうしていた[2]静岡しずおか監獄かんごく職員しょくいん沼津ぬまづ裁判所さいばんしょ職員しょくいんて、1897ねんより袖師そでし尋常じんじょう小学校しょうがっこうげん静岡しずおか市立しりつ清水しみず袖師そでし小学校しょうがっこう)の代用だいよう教員きょういんとなる。その1898ねんなぞらえ教員きょういん免状めんじょう交付こうふされ、以降いこう静岡しずおか北海道ほっかいどうで7つの学校がっこうなぞらえ訓導くんどうとして奉職ほうしょくした[ちゅう 1][1]

社会しゃかい主義しゅぎしゃとして

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1901ねん発足ほっそく理想りそうだん静岡しずおか支部しぶ参加さんかしている[3]

教員きょういん時代じだいから『週刊しゅうかん平民へいみん新聞しんぶん』に寄稿きこうしていた[4]北海道ほっかいどう小学校しょうがっこう教員きょういん労働ろうどう組合くみあい結成けっせい目指めざしていたが、1904ねんにち戦争せんそう開戦かいせんにより[1]、7がつ両親りょうしん要請ようせいをうけて静岡しずおか帰郷ききょうした。その帰郷ききょう途中とちゅう東京とうきょう平民へいみんしゃさかい利彦としひこ面談めんだん

1905ねんおなじく静岡しずおか出身しゅっしん渡辺わたなべ政太郎まさたろう原子はらこはじめさんにん社会しゃかい主義しゅぎ伝道でんどうのための「伝道でんどう行商ぎょうしょう」を計画けいかくした。同年どうねん4がつ東京とうきょう出発しゅっぱつ北海道ほっかいどうをくまなくまわ計画けいかくであったが、渡辺わたなべ退しりぞいたため深尾ふかお原子げんしめいとなり、荒畑あらはた寒村かんそん助言じょげん目的もくてき甲府こうふ地方ちほう変更へんこうした。4がつ10日とおか平民へいみんしゃ出発しゅっぱつするも、4がつ13にちには府中ふちゅう警察けいさつしょ検束けんそくされ、行商ぎょうしょう道具どうぐ一式いっしきりょうおけされたため14にち平民へいみんしゃかえってきた。同年どうねん5がつからは北海道ほっかいどうちょくかりむらの「平民へいみん農場のうじょう」の開墾かいこん事業じぎょうはじめる。農場のうじょう経営けいえい困難こんなんきわめ、同年どうねん8がつには経営けいえい原子げんしまか帰京ききょうし、二度にどかえることはなかった[4][ちゅう 2][4]。11月には、解散かいさんした平民へいみんしゃ出版しゅっぱんかたち設立せつりつされたよし分社ぶんしゃ入社にゅうしゃし、『家庭かてい雑誌ざっし』の編集へんしゅうたずさわる[4][1]

1906ねん2がつさかい利彦としひことともに主幹しゅかんとなり日本にっぽん社会党しゃかいとう組織そしきし、西川にしかわ光二郎こうじろうらの日本にっぽん平民へいみんとう合併がっぺい日本にっぽん社会党しゃかいとう評議ひょうぎいんとなり、『ひかり』・『しん紀元きげん』を統一とういつした『日刊にっかん平民へいみん新聞しんぶん』の編集へんしゅうにあたるが、よく1907ねん2がつには社会党しゃかいとう禁止きんし平民へいみん新聞しんぶん廃刊はいかんにあっている。

1906ねん3がつ15にち電車でんしゃちん値上ねあ反対はんたい市民しみん大会たいかい大杉おおすぎさかえらとともに逮捕たいほ電車でんしゃ事件じけん)。保釈ほしゃくさかいてい居候いそうろうし、さかいほり保子やすこさかい前妻ぜんさいいもうと)、荒畑あらはたよんにん同居どうきょしていた。深尾ふかおほり保子やすこ婚約こんやくし8がつにはにん静岡しずおか婚前こんぜん旅行りょこうかけたが、同月どうげつちゅう大杉おおすぎさかえほりを「手籠てかご同然どうぜんに」屈服くっぷくさせ結婚けっこんした[1]

深尾ふかおは『平民へいみん新聞しんぶん発行はっこう名義めいぎじんであったため、社会党しゃかいとうだいかい大会たいかいかんする記事きじおよび大杉おおすぎの「青年せいねんに訴う」の記事きじかんして起訴きそされた[1]。しかし4がつ発禁はっきんまで精力せいりょくてき執筆しっぴつをつづけた。『社会しゃかい問題もんだい辞典じてん編集へんしゅうたずさわり、『世界せかい婦人ふじん』『社会しゃかい新聞しんぶん紙上しじょうにおいて女性じょせい解放かいほうについて論陣ろんじんった[1][2]。1907ねん8がつケア・ハーディ来日らいにちさいには、ケア・ハーディが宿泊しゅくはくするさかいていで、山川やまかわ荒畑あらはたらと「とみくさり」をうた歓迎かんげいした[1]

このケア・ハーディ歓迎かんげいかいのちから深尾ふかお高熱こうねつ病床びょうしょうした。はじめマラリアと診断しんだんされるが、のちに肺病はいびょう判明はんめいし、帰郷ききょうして療養りょうようする。1908ねん3がつには病床びょうしょうにありながら『おんな教師きょうし』を創刊そうかん[2]。『おんな教師きょうし』は経営けいえいなんにより半年はんとし廃刊はいかんされるが、のちに「婦人ふじん教師きょうし対象たいしょうとした教育きょういく雑誌ざっし先駆せんくしゃとして永久えいきゅう記録きろくされるべきもの」とひょうされた。[ちゅう 3]同年どうねん5がつ19にち病気びょうきため仙台せんだいおこなわれた電車でんしゃ事件じけん控訴こうそしん欠席けっせきした。[ちゅう 4]。これ以降いこう自身じしん病気びょうきや、西川にしかわ議会ぎかい政策せいさく幸徳こうとく直接ちょくせつ行動こうどう対立たいりつ深尾ふかお私信ししん西川にしかわによって公表こうひょうされさかいいかりをうなど運動うんどう内部ないぶこうそうなどの理由りゆうにより深尾ふかお運動うんどうからとおざかっていくこととなる[2][ちゅう 5]

スカウティング創始そうししゃとして

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療養りょうようちゅう1909ねんはる英字えいじ新聞しんぶんで、ボーイスカウトの創始そうししゃロバート・ベーデン・パウエルきょう著書ちょしょスカウティング・フォア・ボーイズ』(Scouting for Boys)の存在そんざいり、同書どうしょ入手にゅうしゅ叔父おじである『少年しょうねん時報じほう主幹しゅかんくさりしょうともにボーイスカウト運動うんどう研究けんきゅう開始かいしする。1909ねん研究けんきゅう成果せいかを『少年しょうねん時報じほう紙上しじょう発表はっぴょうし、「少年しょうねん軍団ぐんだん」の設立せつりつびかける。よく1910ねんには静岡しずおか歩兵ほへい連隊れんたいちょうであった白川しらかわ義則よしのり大佐たいさ協力きょうりょく結成けっせいかったが、白川しらかわ転任てんにんのため頓挫とんざした[5]。1910ねん上京じょうきょう土方どかたきゅうげん代表だいひょうとする報恩ほうおんかい運動うんどう組織そしきである斯道しどうかい書記しょきしょく、そのろくみながらボーイスカウト運動うんどう創設そうせつのためのロビー活動かつどうはじめる。1912ねん学習がくしゅういんではおなじくボーイスカウト運動うんどう重要じゅうようせい認識にんしきしていた乃木のぎ希典まれすけはつ面談めんだんして以降いこう深尾ふかお再三さいさん乃木のぎたずねた[1]。そのほか田中たなか義一ぎいちなど軍部ぐんぶ田所たどころ美治よしはるなど教育きょういく関係かんけいしゃ少年しょうねん軍団ぐんだん設立せつりつへの協力きょうりょくんとはたらきかけた[5]。1913ねん東京とうきょうしばでは少年しょうねん軍団ぐんだん設立せつりつにむけた小学校しょうがっこう校長こうちょう会議かいぎひらかれるなどしたが、深尾ふかお前歴ぜんれき疑問ぎもん関係かんけいしゃがあり結成けっせいにはいたらなかった[5][6]

1914ねんから1916ねんにかけては静岡しずおか新報しんぽう記者きしゃとなる。そのさい静岡しずおかけん学務がくむ課長かちょうとして赴任ふにんしていたあら芳徳よしのり(のちに少年しょうねんだん日本にっぽん連盟れんめい理事りじちょう)と知遇ちぐうた。二荒ふたあら深尾ふかお静岡しずおか名望めいぼう代議士だいぎし尾崎おざき元次もとつぐろうわせた。1913ねん6がつ尾崎おざき団長だんちょう深尾ふかお高杉たかすぎあきら次郎じろう理事りじとして「静岡しずおか少年しょうねん軍団ぐんだん」を創設そうせつした。浅間あさま神社じんじゃもよおされた入団にゅうだんしきには111めい隊員たいいんあつまった[6]高杉たかすぎもと社会しゃかい主義しゅぎしゃである深尾ふかお排除はいじょすることをもとめたが、尾崎おざき深尾ふかお擁護ようごしている[1]

1915ねん、「スカウティング・フォア・ボーイズ」の翻訳ほんやくもと独自どくじ研究けんきゅう成果せいかんだ著書ちょしょ少年しょうねん軍団ぐんだん教範きょうはん」を中央ちゅうおう報徳会ほうとくかいから出版しゅっぱん同年どうねん11がつには月刊げっかん義勇ぎゆうだん』を創設そうせつし、少年しょうねん軍団ぐんだん宣伝せんでんおこなった。

1916ねん興津おきつきゅう静岡しずおかけん清水しみず)に転居てんきょ静岡しずおか少年しょうねん軍団ぐんだん解散かいさん余儀よぎなくされた。1918ねんにはまんあさほう記者きしゃとしてふたた静岡しずおかもどり、尾崎おざき岡本おかもと礼一れいいちらとともに「静岡しずおか少年しょうねんだん」を結成けっせいしている[6]

1922ねん4がつ13にち静岡しずおか少年しょうねんだん日本にっぽん連盟れんめいだいいちかい大会たいかいもよおされ、「少年しょうねんだん日本にっぽん連盟れんめい」が結成けっせいされた。1923ねん日本にっぽん連盟れんめい常任じょうにん理事りじ就任しゅうにん。1925ねんには台湾たいわん総督そうとく招聘しょうへいされ竹内たけうち二郎じろうとともに台湾たいわんでのスカウティングの基礎きそてた。

1933ねん清水しみず電力でんりょく起業きぎょうするも翌年よくねんこれを解散かいさんし、かみいとせい袋物ふくろもの製造せいぞうぎょうをはじめる。

晩年ばんねん

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昭和しょうわ年間ねんかんはいると、ほううん心服しんぷく報恩ほうおんかい活動かつどうせいし、戦後せんごには報恩ほうおんかい静岡しずおかぶん会長かいちょうとなった[1]

1953ねん6がつ20日はつか、ボーイスカウト日本にっぽん連盟れんめい年次ねんじ総会そうかいにおいて、スカウティングへの貢献こうけんたたえて先達せんだつ称号しょうごう授与じゅよされる。1957ねん、ボーイスカウト日本にっぽん連盟れんめい有功ゆうこうしょうであるたかあきら授与じゅよされる[6]

1963ねん11月8にち老衰ろうすいのため死去しきょ享年きょうねん83さい

著作ちょさく

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  • 社会しゃかい主義しゅぎはなし』1905ねん 即日そくじつ発禁はっきん
  • 車夫しゃふ諸君しょくんもうす』1907ねん 発禁はっきん
  • 少年しょうねん軍団ぐんだん教範きょうはん中央ちゅうおう報徳会ほうとくかい 1915ねん
  • 『スカウト読本とくほん少年しょうねんだん日本にっぽん連盟れんめい 1925ねん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1899ねん 中河内なかごうち尋常じんじょう小学校しょうがっこうげん静岡しずおか市立しりつ清水しみず中河内なかかわち小学校しょうがっこうじゅん訓導くんどう 1900ねん4がつ内房うつぶさ尋常じんじょう小学校しょうがっこうげん富士宮ふじのみや市立しりつ内房うつぶさ小学校しょうがっこうじゅん訓導くんどう同年どうねん6がつ依願いがん退職たいしょく) 1900ねん6がつ当別とうべつ尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうげん当別とうべつ町立ちょうりつ当別とうべつ小学校しょうがっこう弁華別べんけべつぶん教室きょうしつじゅん訓導くんどう(1901ねん依願いがん退職たいしょく) 1901ねん4がつ西奈にしな尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうげん静岡しずおか市立しりつ西奈にしな小学校しょうがっこうじゅん訓導くんどう(1902ねん依願いがん退職たいしょく) 1902ねん5がつ東旭川ひがしあさひかわ尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうげん旭川あさひかわ市立しりつ旭川あさひかわ小学校しょうがっこうじゅん訓導くんどう 1903ねん9がつ福島ふくしま尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうげん福島ふくしま町立ちょうりつ福島ふくしま小学校しょうがっこうじゅん訓導くんどう(1904ねん依願いがん退職たいしょく) 1904ねん9がつ富士川ふじかわ尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうげん富士ふじ市立しりつ富士川ふじかわだい小学しょうがくわざじゅん訓導くんどう
  2. ^ その平民へいみん農場のうじょうは1907ねん解散かいさんしている。
  3. ^ 木戸きどわかゆう婦人ふじん教師きょうしひゃくねん』によるもの[2]
  4. ^ 1909ねん控訴こうそしんけい執行しっこうねん猶予ゆうよするとの判決はんけつがいいわたされている[2]
  5. ^ 吉川よしかわ守圀もりくには『荊逆星霜せいそう日本にっぽん社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう側面そくめん』において「深尾ふかおはこれよりさき病気びょうき理由りゆう社会党しゃかいとうり、分離ぶんり裁判さいばん申請しんせいしてその席上せきじょう今後こんご社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう絶縁ぜつえんすることちかって無罪むざいとなり、静岡しずおかかえっていた。」と記述きじゅつ深尾ふかお転向てんこうしゃてたが、市川いちかわ正恵まさえはこの記述きじゅつとき系列けいれつあやまっているとしている[1]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 市原いちはら正恵まさえ「もうひとりの明治めいじ社会しゃかい主義しゅぎしゃ――深尾ふかお韶の生涯しょうがい」『思想しそう科学かがくだい75かん思想しそう科学かがくしゃ、1977ねん、83-97ぺーじ 
  2. ^ a b c d e f 加藤かとう義夫よしお静岡しずおかさん人組にんぐみ なか」『思想しそう科学かがくだい96かん思想しそう科学かがくしゃ、1978ねん、124-133ぺーじ 
  3. ^ 有山ありやま輝雄てるお理想りそうだん研究けんきゅう Ⅱ」『桃山学院大学ももやまがくいんだいがく社会しゃかいがく論集ろんしゅうだい13かんだい2ごう、1980ねん、315-346ぺーじ 
  4. ^ a b c d 加藤かとう義夫よしお静岡しずおかさん人組にんぐみ じょう」『思想しそう科学かがくだい94かん思想しそう科学かがくしゃ、1978ねん、91-101ぺーじ 
  5. ^ a b c 上平かみひら泰博やすひろ; 田中たなか治彦はるひこ; 中島なかじまじゅん少年しょうねんだん歴史れきしもえぶんしゃ、1996ねん 
  6. ^ a b c d 『ボーイスカウト運動うんどうボーイスカウト日本にっぽん連盟れんめい、1973ねん