みなもとためけん

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みなもとためけん
時代じだい 平安へいあん時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん しょう
死没しぼつ 寛弘かんこう8ねん1011ねん)8がつ
別名べつめい みなもときよし
官位かんい せい美濃みのまもる
主君しゅくん 花山はなやま天皇てんのう
氏族しぞく 光孝みつたか源氏げんじ
父母ちちはは ちちみなもとただしみき
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みなもと ためけん(みなもと の ためのり)は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき貴族きぞく文人ぶんじん光孝みつたか源氏げんじ美濃みの権守ごんもりみなもとただしつね曾孫そうそん筑前ちくぜんもりみなもとただしみき官位かんいせい美濃みのまもる

経歴けいれき[編集へんしゅう]

文章ぶんしょうせいから内記ないき蔵人くろうど式部しきぶすすむて、三河みかわ権守ごんもり遠江とおとうみまもる美濃みのまもる伊賀いがまもるなどの地方ちほうかん歴任れきにんした[1]。『北山きたやましょう』『吏途指南しなん』に遠江とおとうみまもる在任ざいにん功過こうかじょうのことがみえる。

長保ながほ元年がんねん999ねん)12月に美濃みのこく発生はっせいした藤原ふじわら宗忠むねただによるたちばなおもんみよりゆきたいらよりゆき親等しんとう殺害さつがい事件じけんかんして、美濃みのまもるためけんつみわれる[2]ためけん職務しょくむ停止ていしめいぜられ[3]あかりほうによるかいかんかんさるおこなわれるが[4]よく長保ながほ2ねん1000ねん)2がつには以下いか理由りゆうによりゆるされている[5]

  • そうただしけいげんじて流刑りゅうけいになったため、ためけんかいかんげんじるべき。
  • 美濃みのこく百姓ひゃくしょうらが、ためけんによって国内こくないきょうふくしていることから解任かいにんすべきでないよしもうしている。
  • 長保ながほ元年がんねん(999ねん)に焼亡しょうぼうした内裏だいり再建さいけんにあたって、うけたまわかおり殿どのきただん造営ぞうえい美濃みのこく担当たんとうしていたが、期限きげんまっているところに、担当たんとう国替くにがえおこなうと、遅延ちえん発生はっせいする懸念けねんがある。

なお、長保ながほ2ねん(1000ねん)9がつうけたまわかおり殿どのちくかきうえ小児しょうに死体したいかれ、7日間にちかんけがれとなる事件じけん発生はっせい内裏だいり造営ぞうえいたずさわっていた国司こくしためけん遷宮せんぐうおくらせるためにった、とのうわさったという[6]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

源順みなもとのしたごう師事しじし、文章ぶんしょう漢詩かんし和歌わかひいで、『本朝ほんちょうぶんいき』に受領じゅりょう申文もうしぶみせ、『本朝ほんちょううらら』『類聚るいじゅう句題くだいしょう』などに漢詩かんし作品さくひんを、『拾遺しゅうい和歌集わかしゅう』(1しゅ)に和歌わか作品さくひんのこしている。そのほか『くちゆう』『世俗せぞく諺文おんもん』などの教養きょうようしょせんしている。また仏教ぶっきょうにも造詣ぞうけいふかく、『三宝さんぼう絵詞えことば』『空也くうや誄(くうやるい)』などをせんしている。

かんれき[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく
  2. ^ けん長保ながほ元年がんねん12がつ13にちじょう
  3. ^ けん長保ながほ元年がんねん12がつ14にちじょう
  4. ^ けん長保ながほ元年がんねん12がつ25にちじょう
  5. ^ けん長保ながほ2ねん2がつ22にちじょう
  6. ^ 日本にっぽんりゃく長保ながほ2ねん9がつ21にちじょう
  7. ^ a b c けん

出典しゅってん[編集へんしゅう]