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獅子窟寺ししくつじ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
獅子窟寺ししくつじ
瑠璃るり殿どの
所在地しょざいち 大阪おおさか交野かたのわたし2387
位置いち 北緯ほくい3446ふん7.83びょう 東経とうけい13541ふん46.02びょう / 北緯ほくい34.7688417 東経とうけい135.6961167 / 34.7688417; 135.6961167座標ざひょう: 北緯ほくい3446ふん7.83びょう 東経とうけい13541ふん46.02びょう / 北緯ほくい34.7688417 東経とうけい135.6961167 / 34.7688417; 135.6961167
山号さんごう ひろし見山みやま
宗派しゅうは 高野山こうのやま真言宗しんごんしゅう
本尊ほんぞん 薬師やくし如来にょらい
創建そうけんねん しょう
開山かいさん つて役行者えんのぎょうじゃ
開基かいき つて行基ぎょうき聖武天皇しょうむてんのう勅願ちょくがん
文化財ぶんかざい 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい坐像ざぞう国宝こくほう
法人ほうじん番号ばんごう 7120005013004 ウィキデータを編集
獅子窟寺の位置(大阪府内)
獅子窟寺
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獅子窟寺ししくつじ(ししくつじ)は、大阪おおさか交野かたのにある高野山こうのやま真言宗しんごんしゅう寺院じいん山号さんごうひろし見山みやま本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらい

歴史れきし[編集へんしゅう]

生駒いこま山塊さんかいあまね見山みやまちゅう位置いちする。山内さんないには寺号じごう由来ゆらいとなった獅子ししえるかたちいわもある[1]

黄檗おうばくそうがつ潭による『獅子窟寺ししくつじ』(元禄げんろく5ねん・1692ねん)によれば、とうてら文武ぶんぶ天皇てんのうころ役行者えんのぎょうじゃ開山かいさんし、聖武天皇しょうむてんのう勅命ちょくめいにより行基ぎょうき金剛こんごう般若はんにゃくつ寺号じごう創建そうけんしたとされる。てん長年ながねんあいだ(824 - 833ねん)には空海くうかい当地とうちふつふつはは修法しゅほうおこなったという。えいただし4ねん(1507)、そううみによる『獅子窟寺ししくつじ縁起えんぎ』も役行者えんのぎょうじゃ草創そうそうつたえる。当地とうち平安へいあん時代じだいには葛城かつらぎ修験しゅげん山岳さんがく霊場れいじょうとなっていた。『しんせん和歌集わかしゅう』には、せいじん法親王ほうしんのうこう土御門天皇つちみかどてんのうだい6皇子おうじ)が当地とうちの「獅子ししのいはや(岩屋いわや)にこもはべりける」んだうたのこされている[2]

鎌倉かまくら時代じだい一時いちじ衰退すいたいし、亀山かめやま上皇じょうこう帰依きえにより14世紀せいきには復興ふっこうするが、元和がんわ元年がんねん1615ねん)にちにぜんやまじゅう二院にいん焼失しょうしつした[1]。これは大坂おおさかなつじんさいとうてら豊臣とよとみかたへの加勢かせい拒否きょひしたためであるという[3]現存げんそんする薬師如来像やくしにょらいぞう塔頭たっちゅう吉祥院きっしょういん法師ほうし尽力じんりょくによってなんのがれ、一時いちじ大和やまとこく避難ひなんしていた。その寛永かんえい年間ねんかん(1624 - 1643ねん)、和泉いずみ槇尾山まきおさんてらほどこせぶくてら)のひかりかげにより再興さいこうされ、現在げんざいいたっている[4]

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

薬師如来像やくしにょらいぞう
薬師やくし如来にょらい頭部とうぶ
  • 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい坐像ざぞう - 1968ねん国宝こくほう指定してい
ぞうだかは92.3センチメートル。9世紀せいき平安へいあん時代じだい初期しょき)のさく。カヤざいいち木造もくぞうで、両脚りょうきゃく前部ぜんぶ右腕うわんひじからさきひだり手首てくびからさきなどにべつざいぐ。ただし、右腕うわん左手ひだりてべつざい部分ぶぶんこうである。ぞうそこ後頭部こうとうぶ背部はいぶからうちりをおこなう。ひだりあしうえにしてましまし、左足ひだりあしさきころもつつ形式けいしきで、とうだい彫刻ちょうこく唐招提寺とうしょうだいじ盧舎那仏るしゃなぶつ坐像ざぞう代表だいひょうされる天平てんぴょう彫刻ちょうこくふる形式けいしき踏襲とうしゅうしたものとみられる。面相めんそう表現ひょうげんには観心寺かんしんじ如意輪観音にょいりんかんのんぞうなどうけたまわ半期はんき(840年代ねんだい)の仏像ぶつぞうとの共通きょうつうてん指摘してきされる。しるししょう右手みぎてむねまえげたほどこせかしこしるしとし、左手ひだりてひざじょうくのではなくむねまえまでげて宝珠ほうしゅささげるかたちとするてんめずらしい。前述ぜんじゅつのとおり、ほんぞう右腕うわんひじからさきひだり手首てくびからさき持物もちもの宝珠ほうしゅこうで、当初とうしょからこのしるししょうであったかどうかはわからない。とくこう右腕うわん角度かくど不自然ふしぜんであることから、製作せいさく当初とうしょ説法せっぽうしるしむすんだ阿弥陀如来あみだにょらいぞうであった可能かのうせいかんがえられている[5]

伽藍がらん[編集へんしゅう]

  • 本堂ほんどう瑠璃るり殿どの
  • 経蔵きょうぞう
  • 庫裏くり
  • 国宝こくほう薬師如来やくしにょらい保存ほぞん
  • 仁王門におうもんあと
  • 鐘楼しゅろうあと
  • おうはか
  • 大師だいしみず

巨石きょせきとう[編集へんしゅう]

観音岩かんのんいわ
  • 観音岩かんのんいわ
  • 獅子ししいわおんながん
  • 男岩おいわ
  • 天福てんぷくがん
  • 鏡岩かがみいわ
  • みろくがん
  • 袈裟けさかけがん
  • 八丈はちじょういわ
  • りゅういわくつ
  • うしがん
  • とら噛石

所在地しょざいち[編集へんしゅう]

〒576-0004 大阪おおさか交野かたの私市きさいち2387

交通こうつうアクセス[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』35ごう、p.3 - 152
  2. ^ 日本にっぽん名刹めいさつだい事典じてん』、pp.312 - 313; 『日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 大阪おおさか地名ちめい』、pp.859 - 860
  3. ^ 日本にっぽん名刹めいさつだい事典じてん
  4. ^ 日本にっぽん名刹めいさつだい事典じてん』、pp.312 - 313
  5. ^ 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』35ごう、pp.3 - 152 - 3 - 152(解説かいせつ井上いのうえはじめみのる

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 大阪おおさか地名ちめい』、平凡社へいぼんしゃ、1986
  • 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』35ごう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1997(解説かいせつ井上いのうえはじめみのる
  • けいむろ文雄ふみお日本にっぽん名刹めいさつだい事典じてん』、雄山閣ゆうざんかく、1992

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]