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玉田 黙翁(たまだ もくおう、1697年(元禄10年)[1] - 1785年(天明5年)[2])は、江戸時代中期の儒学者。名は信成[3]、通称は喜内(記内[4])、久左衛門[5]といい、虎渓庵(こけいあん)・適山(てきざん)・黙翁と号した[2]。
野尻新田村[3](現・加古川市志方町野尻)生まれ。京都に出て朱子学者・山崎闇斎の高弟・三宅尚斎に学んだ[2]。祖父と父が書斎とした建物を引き続き利用して塾を開き、門弟の教育にあたった[2]。塾は虎渓精舎と呼ばれていた[2]。この塾では、姫路藩の儒学者・合田麗沢や龍野藩主の学問の師・股野玉川をはじめ多くの人が学び、遠く京都からの訪問者もみられた[2]。黙翁の在世当時、野尻新田を小田原藩が所領していたこともあり、江戸の藩邸に2回招かれて講義をした[2]。
『播磨鑑』には「儒医の名高く且筆芸に富めり」とある[3][4]。
- 玉田家
玉田家は赤松氏の一族で、飾西郡玉田村(のち飾磨郡置塩村、現・姫路市夢前町)より細工所村に移住し、代々医を業とし、傍ら農業を営んだ[3]。玉田黙翁の祖父は、江戸時代前期の1662年に野尻新田村を開墾した細工所村庄屋の玉田修斎である[1]。修斎は晩年に庄屋の職を退き、子の柔庵を連れて野尻新田に移り住み、山林の中に書斎を建てた[1]。柔庵は学問を好み、子の黙翁に先立って三宅尚斎の門下生になった[1]。また医術にも優れていた[1]。修斎の死後、柔庵がこの書斎を引き継いだ[1]。黙翁の孫の代で玉田家は絶えた[2]。
- 平野庸修『播磨鑑』播磨史談会、1909年。
- 兵庫県印南郡編『増訂印南郡誌 前編』兵庫県印南郡、1916年。
- 楠本碩水編『崎門学脈系譜(本編)』晴心堂、1940 - 1941年。
- 加古川市史編さん専門委員編『加古川市史 第2巻(本編 2)』加古川市、1994年。