町村 敬 貴
経歴
[1882
1903
1917
1946
1962
1969
人物
[札幌 農 学校 時代
[敬 貴 は少年 時代 から健康 に恵 まれ、背 も高 く、スポーツ万能 であった。札幌 農 学校 で敬 貴 が作 ったハンマー投 げの記録 は、北大 で25年間 破 られなかったという。その頃 のハンマーは、現在 の針金 の付 いた鉄 球 と違 い、本当 のハンマーのように、鉄 球 に60センチくらいの木 の柄 がついたもので、それを大 きく振 って投 げた。敬 貴 が競技 会 で投 げた時 、大 きく振 り回 した鉄 球 が地面 に触 れて、土煙 を上 げたので、もう一度 やり直 したら、というものもいたが、審判 部長 の松村 松年 がこれだけ投 げたのだから、よいだろうといって、一 回 投 げただけで止 めたという。それまでの農 学校 の記録 は18メートルであったが、敬 貴 は19メートルと一挙 に1メートルも記録 を伸 ばした[8]。
ウィスコンシン州 の牧夫 時代
[- ウィスコンシン
州 のラスト牧場 で牧夫 として実習 敬 貴 が渡米 したのは明治 39年 4月 。横浜 港 から家族 に見送 られて旅立 った。それから十 年間 、敬 貴 はその立志 を達成 すべく帰国 しなかった。渡米 から1年間 はシアトル周辺 で農家 の手伝 い、製薬 工場 のタンク掃除 、赤帽 などの数々 のアルバイトをした。敬 貴 がアメリカに渡 った翌年 の明治 40年 (1907年 )春 、宇都宮 仙 太郎 がアメリカに牛 を買 いに来 て、父 金弥 からの依頼 で、北海道 と自然 風物 がよく似 ているウィスコンシン州 ・ウエストアリスのラスト牧場 で牧夫 として働 けるよう手配 をした。
ウィスコンシン州立 農 科 大学 時代
[- ウィスコンシン
州 州立 農 科 大学 に学 ぶ - アメリカへ
渡 って4年 目 、敬 貴 は札幌 農 学校 出身 ということもあり、英語 さえわかればアメリカの大学 へ入学 できうるということになり、ウィスコンシン州 の州立 農 科 大学 酪農 科 に入学 した。大学 のある州都 マディソンは当時 人口 2万 程度 、酪農 の中心 地 であっただけに、大学 も試験 研究所 も一流 中 の一流 の水準 を持 っていた[9]。 敬 貴 は後年 ラスト牧場 における回想 を次 のように語 っている。- 「
私 が初 めて世話 になった家庭 (ラスト牧場 のこと)でも、いろいろと私 のために図 ってくれまして、お前 も折角 来 たんだから、やはり大学 だけはやらなければうまくないだろう、夏 はおれのところで働 けばいいから、秋 から春 までは大学 に行 って勉強 して来 い、といいます。向 こうに丁度 大学 がありましたから、三 年間 だけは夏 働 いて、秋冬 春 を大学 で過 ごしまして、もうその時 には、どうやら言葉 が自由 になりましたが、みんなと一緒 に学 んで得 た利益 は多 いと、私 は思 っております。それはみな、自分 がその家 に非常 に尽 くしたものですから、学費 を出 してくれたのです。学校 を出 ましてから後 も、ラスト牧場 に帰 りまして、また相当 長 い期間 働 きましたが、常 に北海道 へ帰 ろうということだけは、自分 の念頭 から離 れなかった。」[10]。
家族 ・親族 ・系譜
[妻 志津 (福井 県 渡辺 仙 太郎 長女 、酢 醸造 業 山本 怡仙の玄孫 )長男 善啓 次男 泰男 (実業 家 )三男 鉄雄 (実業 家 )四 男 俊郎 (医師 )長女 婦美子 (官僚 岩倉 規夫 に嫁 する)次女 光子 (東京 官僚 、政治 家 原 文兵衛 に嫁 する)孫 町村 敬志 (社会 学者 ・一橋大学 大学院 社会 学 研究 科 教授 )、町村 泰 貴 (法学 者 ・北海道大学 大学院 法学 研究 科 教授 )、町村 貴 郎 (医師 )、町村 英郎 (医師 )、美穂 (東京 官僚 、政治 家 中川 雅治 に嫁 する)など
脚注
[参考 文献
[- 『
町村 金 五 伝 』北海タイムス社 1982年 447、451-452頁 衆議院 ・参議院 編 『議会 制度 百 年 史 -貴族 院 ・参議院 議員 名鑑 』大蔵省 印刷 局 、1990年 。佐藤 朝 泰 『豪 閥 地方 豪族 のネットワーク』 2001年 10-21頁 蛯名 賢三 『北海道 牛 づくり百 二 十 五 年 ―町村 敬 貴 と町村 農場 』西田 書店 、2000年 。ISBN 488866322X。