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白票はくひょう事件じけん

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白票はくひょう事件じけん(はくひょうじけん)は、1935ねん昭和しょうわ10ねん)に東京とうきょう商科しょうか大学だいがく一橋大学ひとつばしだいがく前身ぜんしん)でこった学位がくい授与じゅよ審査しんさをめぐる学内がくない紛争ふんそうである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

東京とうきょう商科しょうか大学だいがく助教授じょきょうじゅ杉村すぎむらこうぞう学位がくい請求せいきゅう論文ろんぶん審査しんさをめぐる教授きょうじゅかい対立たいりつどう大学だいがく二分にぶんする紛争ふんそうになり、最終さいしゅうてきには佐野さのよしさく学長がくちょう後任こうにん三浦みうら新七しんしち学長がくちょう、および5教授きょうじゅ辞任じにんにまで発展はってんすることとなった。

経緯けいい[編集へんしゅう]

1935ねん昭和しょうわ10ねん7がつ9にち東京とうきょうしょうだい杉村すぎむらこうぞう助教授じょきょうじゅ学位がくい請求せいきゅう論文ろんぶん経済けいざい社会しゃかい価値かちろんてき研究けんきゅう」を審査しんさする教授きょうじゅかいひらかれ、出席しゅっせきしゃ21めいによる投票とうひょう結果けっか13となり全体ぜんたいの3/4にたなかったため通過つうかとなった(同時どうじ審査しんさされたふじはん加藤かとうゆかりさく論文ろんぶん学位がくい授与じゅよ可決かけつされた)。このさいひょうはわずか1ひょうまり、判断はんだん保留ほりゅう」を意味いみする7ひょう白票はくひょう

このため「白票はくひょう教授きょうじゅとして無責任むせきにん」との批判ひはんたかまり、佐野さのよしさく学長がくちょう白票はくひょうすことの可否かひについての教授きょうじゅかい開催かいさいしようとすると、これにたいしてまた助教授じょきょうじゅ助手じょしゅせん門部かとべ教授きょうじゅによる反対はんたい声明せいめい中山なかやま伊知郎いちろう上原うえはらせんろく高島たかしま善哉ぜんざいらがふくまれていた)がされ、学内がくない二分にぶん白票はくひょうはん白票はくひょう)する紛争ふんそう発展はってんした。審査しんさ委員いいん経済けいざい原論げんろん貨幣かへいろん担当たんとう高垣たかがき寅次郎とらじろうら「白票はくひょうのいいぶん杉村すぎむら論文ろんぶん経済けいざいがくてき内容ないようでなく哲学てつがくてきなテーマをあつかったものであるため判断はんだん保留ほりゅうした、というものであった。また杉村すぎむら提出ていしゅつした申請しんせい論文ろんぶんは「りょう膨大ぼうだいなるよりその内容ないよう大事だいじ」という立場たちばから100まい程度ていど分量ぶんりょうであった(当時とうじ博士はかせ論文ろんぶん原稿げんこう用紙ようしすうひゃくまいから1,000まい普通ふつうとされていた)ことも問題もんだいとされた。

紛争ふんそう教員きょういんのみならず学生がくせいにも波及はきゅうし、事態じたい収拾しゅうしゅうのため辞職じしょくした佐野さの学長がくちょうわり三浦みうら新七しんしち学長がくちょうになると、今度こんどしん学長がくちょう信任しんにんをめぐり教授きょうじゅかい、さらに如水にょすいかいまでもが二分にぶんされるにいたった。一方いっぽう杉村すぎむら三浦みうら学長がくちょうすすめにより、学位がくい請求せいきゅう論文ろんぶんをベースに加筆かひつした『経済けいざい哲学てつがく基本きほん問題もんだい』を1935ねん刊行かんこう、そのじょに「著者ちょしゃはここに東京とうきょう商科しょうか大学だいがく教授きょうじゅかい通過つうかせざりし論文ろんぶん公刊こうかんして大方おおかた批判ひはんぎょうがむとほっする」としるし、論文ろんぶん審査しんさ経緯けいい説明せつめい批判ひはんくわえた(だい2はん以降いこう削除さくじょ)。よく1936ねんはる成立せいりつした広田ひろた内閣ないかく文相ぶんしょう就任しゅうにんした平生ひらお三郎さぶろう東京とうきょうしょうだい前身ぜんしんである(東京とうきょう高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう時代じだい本科ほんか卒業生そつぎょうせい)が調停ちょうていはいり、高垣たかがき本間ほんま喜一きいちら5教授きょうじゅ辞表じひょう受理じゅり杉村すぎむら助教授じょきょうじゅ自発じはつてき辞任じにんとして最終さいしゅうてき事態じたい収拾しゅうしゅうされた。こののち三浦みうら学長がくちょう同年どうねんまつ辞任じにんした。

意義いぎ[編集へんしゅう]

東京とうきょうだかしょうから昇格しょうかくした官立かんりつ単科大学たんかだいがくたる旧制きゅうせい東京とうきょうしょうだいは、こうしょう時代じだいさるとり事件じけん代表だいひょうされるように文部省もんぶしょうみかどだいなど外部がいぶからの圧迫あっぱくたいしては一枚岩いちまいいわ団結だんけつほこっており、(しばしば内部ないぶ対立たいりつ表面ひょうめんした)東京帝大とうきょうていだい経済学部けいざいがくぶくらべると派閥はばつ抗争こうそうすくないとされていた。

しかし大学だいがく昇格しょうかく達成たっせいしたのち、従来じゅうらいどお職業しょくぎょうてき商業しょうぎょう教育きょういく重視じゅうしする立場たちば社会しゃかい科学かがくとしての経済けいざいがく研究けんきゅうおもんじる立場たちば対立たいりつあらわになった。具体ぐたいてきには学科がっかにおいて経営けいえいがく会計かいけいがくのぞ狭義きょうぎ商業しょうぎょうがく分野ぶんやのウェイトが適当てきとうであるかかをめぐってこうそうしょうじ、革新かくしんはこれを過大かだいとしたのにたい保守ほしゅ適当てきとうであると反論はんろんした。さらに大学だいがく発足ほっそく以来いらい長期ちょうきにわたり学長がくちょうつと保守ほしゅ頭目とうもくなされていた佐野さの学内がくない運営うんえいへの不満ふまんもあって事件じけん深刻しんこく学内がくない抗争こうそうへと発展はってんすることとなった。『一橋大学ひとつばしだいがくひゃくじゅうねん』によれば、経済けいざいがく分野ぶんや若手わかておおかった先鋭せんえいてき革新かくしんからの不満ふまん表明ひょうめいであるとされており、「はん白票はくひょう」は若手わかて教員きょういん、「白票はくひょう」は長老ちょうろう中堅ちゅうけん教員きょういん中心ちゅうしんとしていた。

またしょうだい辞職じしょくした杉村すぎむらはその実業じつぎょうかい転身てんしんし、1938ねん経済けいざい倫理りんり構造こうぞう』で経済けいざいがく博士はかせ学位がくいた。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

杉村すぎむらこうぞう経済けいざい哲学てつがく 白票はくひょう事件じけんいちきょう伝統でんとう参照さんしょう
だい1しょう「「国立こくりつ大学だいがくまち」はいかにつくられたか」参照さんしょう
とくつなふちけんじょう東京とうきょうしょうだい参照さんしょう

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]