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喆龍

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喆龍
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 노철룡
노철용
漢字かんじ 喆龍
あきらよう
発音はつおん ノ・チョルリョン
ノ・チョリョン
日本語にほんごみ: ろ・てつりゅう
ろ・てつよう
テンプレートを表示ひょうじ

喆龍(ノ・チョルリョン、1914ねん5月29にち - 没年ぼつねんしょう)は、朝鮮半島ちょうせんはんとう独立どくりつ運動うんどう朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく軍人ぐんじん仮名かめいちぇ成章しげあき(최성장)。

経歴けいれき

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1914ねん5がつ29にち忠清ただきよ南道みなみどうひろしぐすくぐん出身しゅっしん[1][2]実兄じっけいにはおなじく独立どくりつ運動うんどうであるおつりゅうがいる[1][2]。1932ねん10がつ母親ははおやとともに中国ちゅうごく亡命ぼうめい朝鮮ちょうせん革命かくめい幹部かんぶ学校がっこう入学にゅうがく[1][2]。1933ねん4がつ同校どうこうだい1期生きせいとして卒業そつぎょうした[2]。その朝鮮ちょうせん民族みんぞく革命かくめいとう入党にゅうとう南京なんきん党員とういんとなる[2]。1937ねん12月、中央ちゅうおう陸軍りくぐんぐんかん学校がっこう星子ほしこ分校ぶんこう入学にゅうがくし、1938ねん5がつ卒業そつぎょう、10月には朝鮮ちょうせん義勇ぎゆうたい入隊にゅうたいしてだい1たいだい2陣地じんち宣伝せんでん隊員たいいんとなった[2]。1939ねん前半ぜんはん湖南こなんしょう北部ほくぶまく山脈さんみゃく抗日こうにち宣伝せんでん活動かつどう従事じゅうじ[2]。1939ねん8がつ1にち香港ほんこんはな日報にっぽう喆龍(ちぇ成章しげあき)ら隊員たいいん活動かつどうほうじられた[3]。その華中かちゅうしんよんぐんだい4てきぐん工作こうさく課長かちょうつとめた[2]

1946ねん2がつしんよんぐん所属しょぞく朝鮮ちょうせんじん100めいあまりを引率いんそつしてつう移動いどう[2][4]朝鮮ちょうせん義勇軍ぎゆうぐんくれないこう支隊したい独立どくりつだい4だい166参謀さんぼうちょうとして国共こっきょう内戦ないせん参戦さんせんしたのち[4]部隊ぶたい入北にゅうほくともな朝鮮人民軍ちょうせんじんみんぐんだい6師団しだん参謀さんぼうちょうとなり朝鮮ちょうせん戦争せんそう参戦さんせん[4]。1950ねん10がつだい6師団しだん後退こうたいせん最中さいちゅう発令はつれいけ、だい2軍団ぐんだん参謀さんぼうちょう転出てんしゅつ[4]戦後せんごだい1集団しゅうだんぐん参謀さんぼうちょうふく司令しれいかん歴任れきにん[4]。1958ねんごろ、クーデター容疑ようぎ逮捕たいほされ、消息しょうそく不明ふめいとなる[4]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 韓国かんこくきん現代げんだい人物じんぶつ資料しりょう.
  2. ^ a b c d e f g h i 강만길 & 성대경 1996.
  3. ^ 活躍かつやくざい火線かせんじょうてき朝鮮ちょうせん義勇ぎゆうたい 中國ちゅうごく抗戰こうせん勝利しょうりにち就是朝鮮ちょうせん革命かくめい成功せいこう” (中国ちゅうごく). 香港ほんこんはな日報にっぽう. (1939ねん8がつ1にち) 
  4. ^ a b c d e f 김중생 2000, p. 176.

参考さんこう資料しりょう

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  • 노철룡」『한국근현대인물자료』국사편찬위원회http://db.history.go.kr/id/im_102_100452020ねん8がつ14にち閲覧えつらん 
  • 강만길; 성대경 へん「노철룡」『한국사회주의운동인명사전』창작과비평사、1996ねん、165ぺーじISBN 8936470302 
  • 김중생『조선의용군의 밀입북과 6.25전쟁』명지출판사、2000ねんISBN 8931107447