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いしたから

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いし たから(せき ほう)は中国ちゅうごく小説しょうせつよんだい奇書きしょひとつである『みず滸伝』の登場とうじょう人物じんぶつ

だい114かい~118かいまで登場とうじょうする、ほう配下はいか将帥しょうすい出身しゅっしんふくしゅうで、役職やくしょくみなみはなれ大将軍だいしょうぐん元帥げんすいほう臘のだい太子たいしでありみなみ安王やすおうほうたかしじょう統治とうちする杭州こうしゅう守備しゅびするよん大将軍だいしょうぐん一人ひとり三重みえよろいであろうとふうようやぶするどさを宝刀ほうとう劈風がたな[注釈ちゅうしゃく 1]流星りゅうせいづち使つかい、その腕前うでまえせきまさる互角ごかくわたうほど。また自身じしん武勇ぶゆうたのんで突出とっしゅつするようなことをせず、鄧元さとしなど味方みかた連携れんけいしてうごくことで、かずまさ梁山泊りょうざんぱくぐん部隊ぶたい各個かっこ撃破げきはされることを最小限さいしょうげんおさえる慎重しんちょうさとぐんないでの統率とうそつりょくあわつ。そのため、いしたから自身じしんとその配下はいかぐんあわせてじゅうさんにん好漢こうかんっていて、名実めいじつども最強さいきょうてきである。

生涯しょうがい

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いしたからはじめて登場とうじょうするのは、そうぐんたかしとくけん侵攻しんこうかたてんじょう行宮あんぐうかいして協議きょうぎひらいたときで、協議きょうぎ結果けっかさんぽうからせるそうぐんをこちらもさんけてむかつことになり、いしたからぬるかつゆずるちょうあつしくれひやきょうれんあきらちょう道原どうばらおうひとしおおとりただしはちにん首将しゅしょうひきいて城郭じょうかくにててきむかつことになる。

官軍かんぐん到着とうちゃくまたたおうひとしおおとりただしたれみなみぐん杭州こうしゅうじょうまでまれるが、数日すうじつ退却たいきゃくしたみなみぐん偵察ていさつじょやすし郝思ぶん北関きたのせき門前もんぜんまでおびせて、じょやすし毒矢どくや射殺しゃさつし、郝思ぶんとらえて斬首ざんしゅした。つぎそうぐんちょうじゅん水門すいもんであるゆうきんもんから城内きうち侵入しんにゅうさせようとする。それをみなみぐんは、城壁じょうへきうえかくしていたしろへい射殺しゃさつさせ侵入しんにゅう阻止そしする。そうこうちょうじゅん供養くようゆうきんもんかったこと察知さっちすると、じゅうにん首将しゅしょうけたがあらかじめ待機たいきしていた伏兵ふくへい襲撃しゅうげきされ、ちょうあつし逢士、かやすすむもときょう涇のにんうしなう。梁山泊りょうざんぱく相手あいて苦戦くせんしながらもいちかないみなみぐん本隊ほんたいだったが、厲天うるうまもどくまつせきち、はさちをかけようとそうぐんしろ猛然もうぜんめかかり、きた関門かんもんにて、ようやくいしたから自身じしん戦場せんじょう先鋒せんぽうせきまさるいちになるが、おたがいに手強てごわいとてそのりょうぐん退却たいきゃくとなった。一方いっぽう東関ひがしせきもんでは、鄧元さとし魯智ふかいちちになるが、武松たけまつよこやりで敗走はいそう助太刀すけだちにきた首将しゅしょうかいおう夔が武松たけまつられる。そして、どくまつせきつづいてつかさ行方ゆくえまもとくせいけんちたことでことたい急変きゅうへんさんかれていたそうぐん城下じょうかにて集結しゅうけつ猛攻もうこうをかけはじめる。前日ぜんじつつづいてきた関門かんもんから先鋒せんぽうとして出撃しゅつげきしたいしたからは、してさくちょうまじえ、おびせたところを得意とくい流星りゅうせいづちころし、さくちょうけようとった鄧飛かえかたなころした。この魔神まじんのようないしたから活躍かつやくをみたみなみぐん城内じょうないからってて、そうぐん散々さんざんらした。後日ごじつふたたきた関門かんもんめかかってきたそうぐん先鋒せんぽうせきかちっていしたからしろはなれるが、手薄てうすとなったしろべついちたいめられてしまう。しかし、城内きうちにゅうろうとしたりゅうとう守兵しゅへい城門じょうもんとしてころしたことでそうぐん退却たいきゃくさせた。翌日よくじつたちよんとうりょうひきいる歩兵ほへいぐんが、いしたからぐん激突げきとついしたからくれれんあかりしたがえて出陣しゅつじんしたが乱戦らんせんなかうま逵にられて敗走はいそうし、れんあかりあわびあさひられる。みなみぐん歩兵ほへいよん頭領とうりょうにあっと城壁じょうへきにまでられてしまうが、ただ一人ひとり城内じょうないはいんだあわびあさひいしたから城門じょうもんかげから一刀いっとうびせてころし、退しりぞけた。

度々どどそうぐん攻撃こうげきふせいだ杭州こうしゅうみなみぐんだが、民間みんかんかてせんひそんだ梁山泊りょうざんぱくはちにん頭領とうりょう城内じょうない侵入しんにゅうされてしろ落城らくじょうほうたかしじょうげるところをちょうよこたれ事実じじつじょう杭州こうしゅう陥落かんらくひやきょうちぇ彧はられ、くれちょう道原どうばらられる。いしたからは鄧元さとしあつしかつゆずるおう勣、あきらちゅうさんにん首将しゅしょうともとみけん退却たいきゃくし、しろ欽とけいとく合流ごうりゅう再起さいきはかるが失敗しっぱいしてぬるかつゆずるうしなう。そしてきりいおりけん逃走とうそうがらすりゅうみね関所せきしょ駐屯ちゅうとんし、がらすりゅうみねみずふさが守備しゅびするなりとうと、翟源、たかしただししゃぶくよんにん水軍すいぐん頭目とうもく連携れんけいして、水路すいろからのぼ阮小自害じがいみ、はじめやすし火砲かほうばし、つぎみねのぼって関内かんない侵入しんにゅうしようとしたかいめずらしかいたから重囲じゅういなかころし、その遺体いたいみねふもとでさらしてそうぐん包囲ほういした。しかし、そうぐん手痛ていた反撃はんげきおもわぬ援軍えんぐんによりおう勣とあきらちゅううしない、みなみぐん退却たいきゃく余儀よぎなくされる。

ここまではそうぐんしゅふせいで善戦ぜんせんしているようにえるみなみぐんだったが、のところそうぐん裏道うらみちづたいにむつみしゅうにまわりまれればせいけいけん皇居こうきょにいるほう立場たちばあやうく、峻険しゅんけんがらすりゅうみね要害ようがい意味いみさない。いしたから援軍えんぐんもとめるがほう臘はききいれず、みすみすそうぐんむつみしゅう侵入しんにゅうさせることになってしまう。そうぐん出現しゅつげんおどろいたむつみしゅうぐんはすぐにいしたから救援きゅうえんもとめるが、いしたからはこの身勝手みがって要請ようせいはら救援きゅうえん拒否きょひ、鄧元さとし事態じたいおもて、いしたからめるのを無視むししてへいせんともみねりたが、そのとき、ちょうどそうぐんがらすりゅうみねめようと進軍しんぐんしていたところにぶつかってしまい、善戦ぜんせんむなしくたれてしまう。

こののちいしたから私心ししんによって戦友せんゆううしなったことをいたのか、そうぐんつつみどうおつていぴょうむつみしゅうぐんとの決戦けっせんおりがらすりゅうみね西にし布陣ふじんしていたそうぐん攻撃こうげきをかけしろ欽の投槍なげやりにひるんだうま一刀いっとうもとせ、ちかかってきたつばめじゅん流星りゅうせいづちころした。さらにめかかろうとするいしたからだったがまえ憤怒ふんぬせきまさるあらわれ、相手あいてわるいといそいでみねうえ退却たいきゃくした。しかし、すでにむつみしゅう陥落かんらくがらすりゅうみね東西とうざいからめられるかたちとなっていて関所せきしょだい混乱こんらんとなっており、しろ欽はりょかたとともにたにそこ転落てんらくし、けいとくわらわぬきぐんおう稟にられ、なりとうとしゃぶくられ、翟源とたかしせい行方ゆくえれずとなる。頂上ちょうじょうったいしたから東西とうざい両方りょうほうからせまそうぐんたりにして、もはや退路たいろいとさとるやとらえられてはずかしめをけることをおそれ、劈風がたなにて自刎じふんしててた。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ この劈風がたな形状けいじょうについては本文ほんぶんちゅう明確めいかく記述きじゅつがないため、あおりゅう偃月刀えんげつとうのような長柄ながえ武器ぶきとされたり、柳葉やなぎばがたなのようなかた手持てもちのかたなとされたりと、媒体ばいたいによって描写びょうしゃ大幅おおはばことなる。

出典しゅってん

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