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ほそせき憲二けんじ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 ほそせき 憲二けんじ 
Kenji Hosoishi
基本きほん情報じょうほう
名前なまえ ほそせき 憲二けんじ
生年月日せいねんがっぴ 1937ねん3月25にち
ぼつ年月日ねんがっぴ 2001ねん5月15にち[1]
身長しんちょう 170 cm (5 ft 7 in)
体重たいじゅう 90 kg (198 lb)
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 福岡ふくおかけん
経歴けいれき
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ほそせき 憲二けんじ(ほそいし けんじ、1937ねん3月25にち - 2001ねん5月15にち[1])は福岡ふくおかけん出身しゅっしんもとプロゴルファー

来歴らいれき

[編集へんしゅう]

福岡ふくおかまれたが、のち名古屋なごやした。13さいときキャディからゴルフをはじめ、1955ねんにプロ[2]すると[3]1960ねん日本にっぽんプロでは決勝けっしょう棚網たなあみ良平りょうへいやぶれて2わる[2]たなもうが2にウッドやロングアイアンをにぎるパー4でほそせきがショートアイアンということがしばしばあるなど距離きょり圧倒あっとうし、序盤じょばんほそせき優勢ゆうせいであった[4]長打ちょうだりょくかし、9ばんえて2アップとリードしたが、インにはいってたなもう反撃はんげきゆる[4]後半こうはんも8ばんえて3アップとアウトはほそせきはしり、はつ優勝ゆうしょうとプロ日本一にっぽんいちちかづいたかにえたが、ここから棚網たなあみねば[4]。9ばんほそせきがティーショットをひだりげて2すだけで、棚網たなあみひとかえすと、14ばん棚網たなあみがバーディーをうばって1ダウンにかえ[4]ほそせきは15ばんでティーショットをひだりげたことからみだれてダブルボギーで、ついに棚網たなあみいつかれ、17ばんパー4はたがいに2は2ばんウッドであった[4]ほそせきのショットはひだりがってグリーンひだり砂地すなじち、ここからのだい3をオーバーさせてぎゃくサイドのバンカーにれてしまうが、棚網たなあみ確実かくじつせてパーと土壇場どたんばでついにリードをうばい、そのままりをゆるした[4]

1961ねんには日本にっぽんプロで中村なかむら寅吉とらきち小野おの光一こういちならぶ3タイ[5]になってのぼ調子ちょうしとなり、日本にっぽんオープン出場しゅつじょう[2]。36ホールでおこなわれた最終さいしゅうは、中村なかむらが2オーバーとくずしたことでだい混戦こんせんになり、午前ごぜん18ホールをえて通算つうさん2アンダーで首位しゅいった小野おのを3展開てんかいになった[2]午後ごごもアウトをえて小野おのが3アンダーで独走どくそうし、3ほそせきかたちになったが、濃厚のうこうであった小野おのがインで4ボギーをたたいて自滅じめつ[2]小野おの&勝俣かつまたいさお日本の旗 日本にっぽん)・しゃえいいく&ちんきよしなみ中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく)ととも通算つうさん1オーバーでならだい接戦せっせん[2]になり、日没にちぼつにも決着けっちゃくがつかなかった。1、7、8ばんの3ホールの合計ごうけいストロークであらそうプレーオフは、にちれてクラブハウスにかりがともされたころはじまった[2]。1ばん小野おの、7ばんひねがボギーとし、最後さいごの8ばんしゃがボギー、勝俣かつまたがダブルボギーをたたくと、3ホールすべてパーをったほそせきがプレーオフをせいした[2]最後さいご競技きょうぎ委員いいんがカップに懐中かいちゅう電灯でんとうをつける[2] [6]など、暗闇くらやみなかでプレーオフがおこなわれた結果けっか自動車じどうしゃのヘッドライトのもとぼそいし優勝ゆうしょうまった[7] [8]優勝ゆうしょうはパーで[9]当時とうじのトッププレーヤーをやぶっての勝利しょうりおおきくおどろかれた[10]ほそせきは10mほどのパットを10cmにせての勝利しょうりであったが、プレーオフ2ホールでボールの行方ゆくえまかせてったためバンカーにれたが、最後さいごのパッティングはキャディの距離きょりどおりにってまった[2]

1963ねん中日ちゅうにちクラウンズでは初日しょにちだい1ラウンドで1オーバーの3けると、午後ごごだい2ラウンドでは杉原すぎはら輝雄てるおともに67のコースレコードをマーク[11]ほそせきは1、2ばんのバーディでなみると、7ばんから3ホール連続れんぞく1パットとパットが絶好調ぜっこうちょうとなり、2ラウンドは通算つうさん1パット17かい(アウト8、イン9)とわたった[11]。11ばんではだい1ラウンドにOBをち、だい2ラウンドは3パットとくるしめられたが、通算つうさん4アンダーの140で単独たんどくトップにった[11]最終さいしゅうはスコアにみだれがはじめ、前日ぜんじつだい2ラウンドのいきおいそのままに猛追もうついしてきた杉原すぎはらだい接戦せっせんえんじた[11]だい3ラウンドのアウトは、杉原すぎはらほそせきともに37と6ストロークのちぢまらなかったが、インにはいると好調こうちょうであったほそせきのパットがみだれだす[11]。15、17ばんを3パットのダブルボギーとし77で、手堅てがた杉原すぎはらげて74をマークし、そのは3ストロークまでちぢまった[11]午後ごご最終さいしゅうラウンドはだい接戦せっせんとなり、ほそせきは、不安定ふあんていなショットがひびき、1、6ばんでバンカーにつかまってボギーというくるしい展開てんかいとなる[11]ぎゃく杉原すぎはらげは午後ごごはいってもまらず、1、5ばん絶妙ぜつみょうなショートゲームでバーディをり、6ばんでは通算つうさん2オーバーでついにほそせきらえたが、ほそせきは10ばんでバーディをうばふたたびトーナメントリーダーにかえ[11]。10ばんきをもどしたほそせきは、15ばんで5mちかいロングパットをしずめて優位ゆういつと、つづく16ばんでも3.5mのパットをめてリードをひろげた[11]一方いっぽう杉原すぎはらは15ばんぼそいしどう距離きょりのパットをはずしてボギーにし、リズムをくずす。結局けっきょくこのパットの成否せいひ明暗めいあんけ、ほそせきもっと苦手にがてとしていた17ばんのショートホールも手前てまえきざんで、アプローチでピンにせパーセーブで優勝ゆうしょうした[11]

そのアジアサーキットでも活躍かつやくし、1966ねん3がつマレーシアオープンハロルド・ヘニング南アフリカの旗 みなみアフリカ共和きょうわこく)、ピーター・トムソンオーストラリアの旗 オーストラリア)、石井いしい朝夫あさおベン・アルダフィリピンの旗 フィリピン)にぎ、勝俣かつまたならぶ5タイにはい[12]

1967ねんにはふたたびマレーシアオープンに出場しゅつじょうして8タイにはいると、4がつインディアンオープンでは最終さいしゅう6からスタートし、5アンダー68をマークして通算つうさん5アンダー287で首位しゅいならび、マルコム・グレッグソンイングランドの旗 イングランド)とのプレーオフをせいして優勝ゆうしょう[13] [14]

1968ねんフィリピンオープン[15]もと渓山けいざん中華民国ちゅうかみんこく)・内田うちだしげるぐ3[16]すべ[14]翌週よくしゅうシンガポールオープンでは通算つうさん9アンダーで優勝ゆうしょうしたしゃひさしに6ながら2[17] [14]翌週よくしゅうのマレーシアオープンは初日しょにちに6アンダー66をマークして首位しゅいったりょりょう中華民国ちゅうかみんこく)を33いかけ、2にちには内田うちだともに66でまわり、通算つうさん9アンダーで首位しゅいなみはしとなった[14]ほそせきは9ばんパー4(439ヤード)で280ヤードのドライバーショットをはなち、8ばんアイアンでのだい2直接ちょくせつれるイーグルをうばうなど1イーグル、4バーディーであった[14]。3にちには12ばんまで4バーディーとばし、14ばんでバンカーにつかまってこの大会たいかいはつのボギーをたたいたが、16ばんで3mをれてこの68をマーク[14]通算つうさん13アンダーで単独たんどく首位しゅいち、最終さいしゅうには上位じょういうかがっていたりょとの一騎打いっきうちとなる[14]最終さいしゅうは3ばんでボギー[14]にするなど不安定ふあんていなスタートをったが、ティーオフから1時間じかん以内いない素晴すばらしいパッティングとチップショットで[18]、4ばんで9mをしずめてなおると、6、8、12、17ばんでバーディーをうばい、終盤しゅうばんボギーをかさねたりょはなして優勝ゆうしょう[14]大会たいかいしん記録きろくの271(-17)[14]でフィニッシュし、りょを4ストロークでたおして、アジアサーキット日本人にっぽんじん3にん優勝ゆうしょうしゃ[14]となる[19]優勝ゆうしょうめた18ばんホールでは1人ひとり日本人にっぽんじんてきて、ほそせきシャンパンあたまからかけてだいよろこびした[14]優勝ゆうしょう賞金しょうきんは2167ドル(当時とうじやく78まんえん)であったが、ほそせきは「グリーンの調子ちょうしをつかめたのはきみのおかげ」とキャディに100ドルをわたした[14]。ラウンドにトムソンは「ほそせきわたしたち全員ぜんいん凌駕りょうがし、このツアーでナンバーワンのスターとして浮上ふじょうする可能かのうせいたかい」とかたった[18]。4月のインディアンオープンではパー5を9番手ばんてでイーグルし、リードを半分はんぶんった。14ばんホールまでにほそせきはじめてソロリードをうばうと、最終さいしゅうてきには最終さいしゅうラウンド69(-4)をち、かれは285(-7)で連覇れんぱ達成たっせい[20]大会たいかいはつ連覇れんぱとなり、そのジョティ・ランダワ2006ねん-2007ねん)、SSP.チャウラシア2016ねん-2017ねん)が連覇れんぱ記録きろくしている[21]ほそせきはアジアサーキットで連続れんぞくしてった最初さいしょのプレーヤーとなり、このころ杉本すぎもと英世ひでよ日本にっぽんからの唯一ゆいいつのライバルとなされていた[18]。トムソンも、ほそせき杉本すぎもと日本にっぽん最高さいこうのゴルファーとなしていた[18]5月ブラジルオープンではヒュー・バイオッキみなみアフリカ)とならんで河野こうの高明こうめいの2タイにはいり、日本人にっぽんじんワンツーとなった[22]

1ねんとおして活躍かつやくしたほそせきは、10月ロイヤル・バークデール・ゴルフクラブ(イングランド)で開催かいさいされたアルカンゴルファーオブザイヤーチャンピオンシップ出場しゅつじょうし、23にんちゅう21であった。11月ローマイタリアの旗 イタリア)で開催かいさいされたワールドカップでは河野こうのとも日本にっぽん代表だいひょうとして出場しゅつじょうし、アル・ボーディング&ジョージ・クヌードソンカナダの旗 カナダ)、ジュリアス・ボロス&リー・トレビノアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく)、ロベルト・ベルナルディーニ&アルフォンソ・アンジェリーニ(イタリア)、しゃひさし&りょりょう中華民国ちゅうかみんこく)、セバスチャン・ミゲル&ラモン・ソタスペインの旗 スペイン)、コビー・ルグランジ&プレーヤー(みなみアフリカ)、ボブ・チャールズ&ウォルター・ゴドフリーニュージーランドの旗 ニュージーランド)、リチャード・デイビス&ブライアン・ハゲットウェールズの旗 ウェールズ)、ロベルト・デ・ビセンツォ&ボノ・トゥディーノ(アルゼンチンの旗 アルゼンチン)にぎ、ニール・コールズ&バーナード・ハント(イングランド)、ジミー・キンセラ&クリスティ・オコナーアイルランドの旗 アイルランド)とならぶ10タイであった。このころはマネーランクが存在そんざいしない時代じだいであったが、同年どうねんドル仕立したての高額こうがく賞金しょうきん賞金しょうきんおういた[23]

1966ねん下関しものせきオープンで杉本すぎもとどうスコア、1967ねんのチャンピオンズトーナメントでは杉本すぎもとやぶって優勝ゆうしょう[24] [25]

1968ねん西日本にしにほんサーキットBSでは橘田きったただししゃ敏男としお中華民国ちゅうかみんこく)とのどもえせんとなり、1ストロークをあらそあせする激戦げきせん乱戦らんせん模様もようとなる[26]午前ごぜんのラウンドでは2オーバーで午後ごごのラウンドが勝負しょうぶどころになり、午後ごごはインからスタートし、ほそせきは10ばんエッジからそのままホールインのイーグル、11ばんバーディとたちまちトップグループをげてインを2アンダー34とした[26]午後ごごのインをおわったところでパープレーを堅持けんじして1アンダーのしゃ橘田きったともにイーブン、パーではげしくった[26]。アウト1ばんしゃやく1mのバーディとチャンスをかたくなっ てわずかにはずし、橘田きったはその1ばんをバンカーからやく5mにげ、根性こんじょう克服こくふくしてバーディ、ほそせきもこれにおとらず1ばんをバーディとした[26]三者さんしゃがここで完全かんぜんならんであらそいはいよいよ激烈げきれつとなり、橘田きったは4ばんで6mのロングパットをめて2アンダーでトップにったが、つぎの5ばんのアプローチピンから50cmとせ、なんでもないパットをはずしてボギーとしてしまった[26]。ボールはカップの手前てまえひだりれて観衆かんしゅうからは溜息ためいきれ、橘田きった一瞬いっしゅん”しまった”と表情ひょうじょうをした[26]結果けっかてきにはこのボギーが明暗めいあんけたが、このころほそせきおおきなバスタオルながれるあせくマイペースでパープレイをつづける[26]。7ばんショートホールでしのチャンスがおとずれ、1オンで右寄みぎより3mのパットを冷静れいせいにラインをんでつと、ややよわいかとおもわれたパットがピンのえんいちころびしてバーディとなり、2アンダーで優勝ゆうしょうした[26]

1968ねん西日本にしにほんオープン[27]ではアマチュア中部ちゅうぶ銀次ぎんじろう連覇れんぱ阻止そししてプロの面目めんぼくたもち、1969ねん西日本にしにほんサーキット下関しものせきりょりょう煥をやぶり、西日本にしにほんオープンを連覇れんぱ[28]

1970ねんはシンガポールオープンでしゃえいいくの2最終さいしゅうはいったが[29]最終さいしゅうラウンド72(+1)をち、6タイでえた[30]翌週よくしゅうのマレーシアオープンではボギーフリーの65(-7)をってソロリードをうばったが[31]、2にちに76(+4)をち、最終さいしゅうてきに31タイでフィニッシュした[32]。 

1971ねんはシンガポールオープンでジョイントリードをにぎ[33]、ボギーフリーの67(-4)で開幕かいまくしたが、最終さいしゅうラウンド74の8タイでえた[33] [34] [35]同年どうねん日本航空にほんこうくうオープン初日しょにち1えるが、優勝ゆうしょうはならなかった。

1970年代ねんだいなかばまでアジアサーキット[36]1980年代ねんだいなかばまで日本にっぽんツアーでプレーし、1972ねんちゅう四国しこくオープン[37]最後さいご優勝ゆうしょうとなる。

1972ねん沖縄おきなわテレビカップ(6380ヤード、パー72)では日吉ひよし定雄さだお山本やまもと善隆よしたか橘田きったただし宮本みやもと省三しょうぞう新井あらい規矩きくゆう沼澤ぬまさわ聖一せいいち杉原すぎはら輝雄てるお村上むらかみたかし尾崎おざき将司まさしらをおさえ、今井いまいあきらゆきならんで[37]ときに56さい5ヶ月かげつと4にち、レギュラーの最年長さいねんちょう優勝ゆうしょう記録きろく樹立じゅりつ[38]した中村なかむらの2タイにはいった[39]大会たいかいは2日間にちかん54ホールのいそがしくタフな試合しあいであったが、この試合しあい参加さんか人数にんずうなどは不明ふめいだが、日本にっぽんちゅうの100すうじゅうにんのプロが参加さんかし、当時とうじ沖縄おきなわ返還へんかん記念きねん行事ぎょうじとして大々的だいだいてき開催かいさいされた[39]

1986ねん中日ちゅうにちクラウンズ[40]最後さいごにレギュラーツアーから引退いんたいし、そのはシニアり。

1996ねんすえまで日本にっぽんプロゴルフ協会きょうかいふく会長かいちょうつと[1]、1996ねんにインディアンオープンをせいするしろかたえいじゅんそだてた[41]

2001ねん5がつ15にち午前ごぜん617ふん[1]大腸だいちょうガンのため[3]山口やまぐちけん下関しものせき病院びょういん死去しきょ。64さいぼつ[1]

おも優勝ゆうしょう

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レギュラー
  • 1961ねん - 日本にっぽんオープン
  • 1963ねん - 中日ちゅうにちクラウンズ
  • 1966ねん - 下関しものせきオープン
  • 1967ねん - チャンピオンズトーナメント
  • 1968ねん - 西日本にしにほんサーキットBS、西日本にしにほんオープン
  • 1969ねん - 西日本にしにほんサーキット下関しものせき西日本にしにほんオープン
  • 1972ねん - ちゅう四国しこくオープン
海外かいがい
  • 1967ねん - マレーシアオープン、インディアンオープン
  • 1968ねん - インディアンオープン

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e ほそせき憲二けんじ死去しきょもと日本にっぽんプロゴルフ協会きょうかいふく会長かいちょう | 全国ぜんこくニュース | 四国新聞社しこくしんぶんしゃ
  2. ^ a b c d e f g h i j だい26かい日本にっぽんオープンゴルフ選手権せんしゅけん(1961ねん) | 日本にっぽんプロゴルフ殿堂でんどう
  3. ^ a b ほそせき憲二けんじ プロフィール|GDO ゴルフダイジェスト・オンライン
  4. ^ a b c d e f だい28かい日本にっぽんプロゴルフ選手権せんしゅけん(1960ねん) | 日本にっぽんプロゴルフ殿堂でんどう
  5. ^ だい29かい日本にっぽんプロゴルフ選手権せんしゅけん(1961ねん
  6. ^ たかたいカンツリー倶楽部くらぶ太平洋戦争たいへいようせんそう消滅しょうめつするも、昭和しょうわ29ねん牧場ぼくじょう兼用けんよう復活ふっかつ。コース設計せっけい井上いのうえ誠一せいいち
  7. ^ JGA 日本にっぽんゴルフ協会きょうかい
  8. ^ 女子じょし開幕かいまくせん6にんプレーオフをせいしたコルダ。ほかのだい人数にんずうプレーオフは?
  9. ^ Obscure Jap Pro Wins Japan Open”. p. 13 (November 11, 1961). 2020ねん12がつ10日とおか閲覧えつらん
  10. ^ “Miyaoka Places 38th In Japan Open Tourney”. Honolulu Star-Bulletin. United Press International: p. 25. (1961ねん11月10にち). https://www.newspapers.com/clip/64576813/honolulu-star-bulletin/ 2020ねん12がつ10日とおか閲覧えつらん 
  11. ^ a b c d e f g h i j 中日ちゅうにちクラウンズ | CBCテレビ | クラウンズの歴史れきし
  12. ^ “Henning triumphs”. The Straits Times (Singapore): p. 20. (14 March 1966). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/straitstimes19660314-1.1.20 8 March 2020閲覧えつらん 
  13. ^ “Hosoishi triumphs”. The Straits Times (Singapore): p. 18. (18 April 1967). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/straitstimes19670418-1.2.136.5 7 July 2020閲覧えつらん 
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m 日本にっぽん男子だんし海外かいがい挑戦ちょうせん昭和しょうわへん㉑】1968ねんほそせき憲二けんじ日本にっぽん選手せんしゅ3にん極東きょくとうサーキット制覇せいは
  15. ^ “Hosoishi leads but Lu is on his tail”. The Straits Times: p. 22. (10 March 1968). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/straitstimes19680310-1.2.37.11?ST=1&AT=search&k=Kenji%20Hosoishi&QT=kenji,hosoishi&oref=article 2020ねん12月1にち閲覧えつらん 
  16. ^ “Hsu wins by 8 strokes”. The Straits Times: p. 4. (26 February 1968). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/straitstimes19680226-1.1.24 13 March 2020閲覧えつらん 
  17. ^ “Yung-Yo fires eagle to signal victory”. The Straits Times: p. 20. (4 March 1968). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/straitstimes19680304-1.2.98 
  18. ^ a b c d Thomson, Peter (11 March 1968). “Top golfer a roly-poly”. The Age: p. 19. https://news.google.com/newspapers?id=Gv5UAAAAIBAJ&sjid=f5MDAAAAIBAJ&pg=5502%2C1987623 
  19. ^ “Open golf to Japanese”. The Canberra Times: p. 19. (1968ねん3がつ12にち). http://nla.gov.au/nla.news-article107041325 2020ねん12月1にち閲覧えつらん 
  20. ^ 川村かわむら昌弘まさひろ参戦さんせん欧州おうしゅうツアー「ヒーロー インディアンオープン」?小松こまつ直行なおゆき週刊しゅうかんオフチューブ | ヨーロピアンツアー | ニュース・コラム・おらせ | ゴルフネットワーク
  21. ^ !SSP.チャウラシアの勝利しょうり意味いみする事実じじつ
  22. ^ “Takaaki Kono venceu o Aberto Brasileiro” (Portuguese). Jornal do Brasil (Rio de Janeiro, Brazil): p. 20. (5 November 1968). https://news.google.com/newspapers?id=VaIpAAAAIBAJ&sjid=oe8DAAAAIBAJ&pg=5354%2C1338165 21 May 2020閲覧えつらん 
  23. ^ マネーランクなき時代じだい賞金しょうきんおう ジャンボは1800まんえんはつ戴冠たいかんのこしたいゴルフ記録きろく
  24. ^ 男子だんしトーナメント年度ねんどべつ一覧いちらんひょう(1926ねん~1972ねん) | 日本にっぽんプロゴルフ殿堂でんどう
  25. ^ 男子だんしトーナメント年度ねんどべつ一覧いちらんひょう(1926ねん~1972ねん) | 日本にっぽんプロゴルフ殿堂でんどう
  26. ^ a b c d e f g h 「BSCCの歴史れきし」ブリヂストンカンツリー倶楽部くらぶ公式こうしきウェブサイト
  27. ^ 男子だんしトーナメント年度ねんどべつ一覧いちらんひょう(1926ねん~1972ねん) | 日本にっぽんプロゴルフ殿堂でんどう
  28. ^ 男子だんしトーナメント年度ねんどべつ一覧いちらんひょう(1926ねん~1972ねん) | 日本にっぽんプロゴルフ殿堂でんどう
  29. ^ “Murray, Yung Yo lead into last round”. The Straits Times: p. 26. (1 March 1970). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/straitstimes19700301-1.2.160?ST=1&AT=search&k=Kenji%20Hosoishi&QT=kenji,hosoishi&oref=article 2020ねん12月1にち閲覧えつらん 
  30. ^ “Yung Yo's S'pore Open by 2 strokes”. The Straits Times: p. 24. (2 March 1970). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/straitstimes19700302-1.1.24 19 March 2020閲覧えつらん 
  31. ^ “Hosoishi sets scorching pace”. The Straits Times: p. 24. (6 March 1970). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/straitstimes19700306-1.2.129.11?ST=1&AT=search&k=Kenji%20Hosoishi&QT=kenji,hosoishi&oref=article 2020ねん12月1にち閲覧えつらん 
  32. ^ “Arda's title as Kono flops at last two holes”. The Straits Times: p. 24. (9 March 1970). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Page/straitstimes19700309-1.1.24 19 March 2020閲覧えつらん 
  33. ^ a b “Tight finish for Open”. New Nation: p. 15. (5 March 1971). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/newnation19710305-1.2.61.22?ST=1&AT=search&k=Kenji%20Hosoishi&QT=kenji,hosoishi&oref=article 2020ねん12月1にち閲覧えつらん 
  34. ^ “Serious Yasuda takes Open lead”. The Straits Times: p. 31. (7 March 1971). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/straitstimes19710307-1.2.141?ST=1&AT=search&k=Kenji%20Hosoishi&QT=kenji,hosoishi&oref=article 2020ねん12月1にち閲覧えつらん 
  35. ^ “Yasuda holds off challenge”. New Nation: p. 14. (8 March 1971). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/newnation19710308-1.2.72.1?ST=1&AT=filter&K=haruo%20yasuda&KA=haruo%20yasuda&DF=&DT=&Display=0&AO=false&NPT=&L=&CTA=&NID=&CT=&WC=&YR=1971&QT=haruo,yasuda&oref=article 2020ねん12月15にち閲覧えつらん 
  36. ^ “Marsh is tipped to win in Bangkok”. The Straits Times: p. 30. (28 March 1973). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/straitstimes19730328-1.2.121.8?ST=1&AT=search&k=Kenji%20Hosoishi&QT=kenji,hosoishi&oref=article 2020ねん12月1にち閲覧えつらん 
  37. ^ a b 男子だんしトーナメント年度ねんどべつ一覧いちらんひょう(1926ねん~1972ねん) | 日本にっぽんプロゴルフ殿堂でんどう
  38. ^ 驚異きょういのエージシューター田中たなか菊雄きくお世界せかい90 武藤むとう一彦かずひこのコラム
  39. ^ a b 谷口たにぐちとおる中村なかむらとらさんになれるか 武藤むとう一彦かずひこのコラム – GOLF報知ほうち
  40. ^ ほそせき 憲二けんじ選手せんしゅ 年度ねんどべつ大会たいかい成績せいせき - 日本にっぽんゴルフツアー機構きこう - The Official Site
  41. ^ しろかたえいじゅんプロフィール | PGA WEB MAGAZINE -Powered by 日本にっぽんプロゴルフ協会きょうかい

外部がいぶリンク

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