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この項目では、日本にかつて存在した自治体警察について説明しています。諸外国の自治体警察については「自治体警察」をご覧ください。 |
自治体警察(じちたいけいさつ、旧字体:自治體警察)は、連合国軍占領下の日本で、1947年(昭和22年)の警察法(昭和22年法律第196号、いわゆる「旧警察法」)により約1600の市町村に設置された警察組織。略称は自警または自治警。
第二次世界大戦後に進められた戦後改革の一つとしてGHQ民政局のチャールズ・L・ケーディスの主導の下、戦前の中央集権的な日本の警察機構を全面的に見直して地方分権的な警察へと改めるべく設置され、アメリカ合衆国のシティポリスや保安官に倣った形態をとった。しかし、重い財政負担や犯罪対処力の低下などの諸問題(後述)から、1951年(昭和26年)以降には自治体警察を返上して国家地方警察の管轄に入る市町村が多発する。1954年(昭和29年)の警察法改正によって、自治体警察は新たに発足した各地の都道府県警察に吸収、再編されて消滅した。
自治体警察はすべての市および、人口5000人以上の市街的町村に設置されると定められた。市町村長の所轄のもとに市町村公安委員会を置き、自治体警察を管理するものとされ、自治体警察は、最高責任者である警察長(現行法における警察本部長に相当)と警察吏員(現行法における警察官に相当)によって構成された[1]。経費は当初、旧警察法附則に於いて「市町村警察に関する費用は、地方自治財政が確立される時まで、政令の定るところにより国庫及び都道府県がこれを負担する」と定められていたが、警察法施行からわずか三カ月後に地方財政法によって「自治体警察に要する経費」は「当該地方公共団体が、全額これを負担する」とされた事で、自治体警察はすべて当該自治体の負担とされた[2]。
国家非常事態が布告された場合には、内閣総理大臣が全警察を統制する事が可能となっていた[3]。
戦前の日本の警察は、国家の警察として非常に統一的であり極めて中央集権的であり、軍部や政党やその他一部の人々が自分たちの利益や目的のために、この警察力を利用して国民の平和や権利を踏みにじる場合が少なくなかった。その反省を踏まえて警察組織を「国家地方警察」と「自治体警察」との二つに分かち、それぞれが互いに独立する仕組みにした[4]。
複数の警察署を置く場合は警察本部の設置が義務付けられており、大都市の警察本部は警察局と称することが多かった。
東京23区はかつての東京市の区域であったことから、特別区の区域全体を一つの市とみなし、東京都知事の所轄のもとに特別区公安委員会を置き、自治体警察たる警視庁を管理した。警視庁設置に際して、GHQ公安課は、東京以外の七大都市にも警視庁の名を冠した自治体警察を設置することを条件に、東京特別区の自治体警察組織の名称を「警視庁」とすることを認めた。これを受けて、大阪市の警察本部は、一時期大阪市警視庁を称していた。
自治体警察の問題と廃止
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警察経費については当該自治体が全額負担する事になった事もあり、小規模の町村にとって警察経費は重い財政負担だった[5]。そのため旧警察法が施行された1948年時点でも自治体警察の返上の希望が相次いだ[5]。財政負担は町村のみならず、都市部でも問題であった。一例を挙げると、札幌市警察は当時の金額で毎年40万円程度の赤字を抱えており、予算が尽きる年末あたりになると警察長が市民に対して募金活動を行っていた[6]。また、大半の警察署が定員が十数人から二十数人のみ[7]で、小規模な警察署では署長以下7人で業務を行わなければならないなど負担も大きく、物資不足でパトカーすら無い警察署もあった[8]。
また、自治体ごとに小分けにされた警察は広域犯罪に対処することができず[9]、戦後の混乱期にあって増加する犯罪に的確に対処することが難しい事例もあった。国家地方警察との間には命令などの権利が無く縦割りも浮き彫りになり、一つの警察署に2人の署長がいたり、捜査の情報が伝わらなかったり[7]、捜査の優先権などで対立することもあった。福岡県城島町は町域が細長く、全域が自治体警察と国家地方警察の共同管理地域になるため、町は自治体警察は不要と主張したが、GHQの指令だからと説得し城島町警察署が設置された[8]。さらに自治体警察は小規模かつ地元に密着していることから、地元の有力者や暴力団などとの癒着も横行していた[8]。
これらの様々な問題を受け、1951年(昭和26年)に一部法改正が行われ、住民投票の付託で自治体警察の存廃ができるようになると、自治体警察の返上が相次ぎ、ほんの僅かな期間に1千以上の自治体警察が廃止された。自治体警察の返上の是非を問う住民投票の関心は総じて低く、比較的関心が高かったとされる大阪府20町村でも投票率は41%と低調だった[10]。1953年(昭和28年)までに町村警察は139に激減。自治警を廃止した町村は国家地方警察の管轄となった。
それでも自治体警察の約3割が存続した[7]が、1953年(昭和28年)の第15国会で国家地方警察と自治体警察を都道府県警察に一本化する警察法改正案が提出された。この改正案は国会がバカヤロー解散で閉会したことから廃案となったが、中央集権の再来として五大都市や福岡県(福岡市、小倉市、門司市、八幡市、若松市)を中心に反対運動が起き、市議会での改正案反対決議や地元選出議員による陳情、市当局による反対運動が実施された[7]。しかし、1954年(昭和29年)に全面改正された現行の警察法が施行されたことにより、国家地方警察と自治体警察は廃止され、警察庁と都道府県警察に再編成された。国家地方警察東京都本部と警視庁 (旧警察法)も廃止され、都内全域を管轄する単一の組織である、警視庁に再編成された。一方、五大市の市警察(横浜市警、名古屋市警、京都市警、大阪市警、神戸市警)は暫定措置として存置されたが、翌1955年には五大市警察も廃止され、府県警察に吸収された。
元警察官僚で作家の佐々淳行によると、自治体警察の廃止に関して、東京と大阪の二つの警視庁をはじめとした大都市の市警察が強く反対していたという[11]。これは、総監や本部長以外は、非高文組が中核を占めていた自治体警察側が、高文組で旧内務省警保局の後継である国家地方警察側に事実上吸収され、戦前のように高文組のエリートに警察行政の主導権を握られることを嫌ったためである。実際、新警察法施行後は、国家地方警察側が警察庁と都道府県警察の主要ポストを独占し、居場所をなくした自治体警察の幹部はその後、弁護士に転身したり、畑違いの仕事に転職して苦労する者も多かった。
一方で、警察の民主化に自治体警察は大きな効果があったという意見もある[8]。公安委員会は都道府県単位で存続し、都道府県警察に対する行政機構として一応の存続を見た。
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