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航空こうくう神社じんじゃ (所沢ところざわ)

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航空こうくう神社じんじゃ北野きたのたかし神社じんじゃ境内けいだいしゃ

航空こうくう神社じんじゃ北野きたのたかし神社じんじゃ境内けいだい
所在地しょざいち 埼玉さいたまけん所沢ところざわ小手指こてさし元町もとまち3-28-44
位置いち 北緯ほくい3547ふん26.0びょう 東経とうけい13925ふん43.3びょう / 北緯ほくい35.790556 東経とうけい139.428694 / 35.790556; 139.428694 (航空こうくう神社じんじゃ (所沢ところざわ))座標ざひょう: 北緯ほくい3547ふん26.0びょう 東経とうけい13925ふん43.3びょう / 北緯ほくい35.790556 東経とうけい139.428694 / 35.790556; 139.428694 (航空こうくう神社じんじゃ (所沢ところざわ))
主祭しゅさいしん

主祭しゅさいしん 天照大御神あまてらすおおみかみ 神武じんむ天皇てんのう 明治天皇めいじてんのう

はいまつ もと陸軍りくぐん航空こうくうたい戦没せんぼつしゃおよ殉職じゅんしょくしゃ
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航空こうくう神社じんじゃ外観がいかん

航空こうくう神社じんじゃ(こうくうじんじゃ)は、埼玉さいたまけん所沢ところざわ小手指こてさし元町もとまち北野きたのたかし神社じんじゃ鎮座ちんざする神社じんじゃである。昭和しょうわ12ねん徳川とくがわ好敏よしとく宿願しゅくがんにより所沢ところざわ陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこううち創建そうけんされた。

昭和しょうわ13ねん埼玉さいたまけん豊岡とよおか陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう設置せっちされるとともに奉遷ほうせんされ、士官しかん学校がっこう生徒せいと尊崇そんすう中心ちゅうしんとして礼拝れいはいけてきた。昭和しょうわ20ねん終戦しゅうせんとなり陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう敷地しきちべいぐん接収せっしゅうされる情勢じょうせいとなり、徳川とくがわ好敏よしとく陸軍りくぐん航空こうくう士官しかんがく校長こうちょう中心ちゅうしんとした航空こうくう関係かんけいしゃは、ほん航空こうくう神社じんじゃ永久えいきゅう保全ほぜんすることをねがい、従来じゅうらい祭典さいてん奉仕ほうしせられた北野きたのたかし神社じんじゃ宮司ぐうじ栗原くりはら良介りょうすけ懇請こんせいし、どう宮司ぐうじ地元じもと有志ゆうし協力きょうりょくにより、べいぐん進駐しんちゅう先立さきだ昭和しょうわ20ねん9がつ3にちたかしほこら原型げんけいのまま、現在げんざい北野きたのたかし神社じんじゃ奉遷ほうせんされ、現在げんざいいたっている。

航空こうくう神社じんじゃしゃ

祭神さいじん[編集へんしゅう]

祭神さいじんもと陸軍りくぐん航空こうくうたい戦没せんぼつしゃおよ殉職じゅんしょくしゃ)の内訳うちわけ

れい位牌いはい
御霊みたま璽第いち 大正たいしょう2ねん3がつ28にち昭和しょうわ15ねん3がつ6にち 81はしら
御霊みたま璽第 昭和しょうわ15ねん2がつ12にち昭和しょうわ17ねん10がつ24にち 64はしら
御霊みたま璽第さん 昭和しょうわ16ねん2がつ26にち昭和しょうわ17ねん10がつ8にち 209はしら
れい名簿めいぼ
祭神さいじん 昭和しょうわ18ねん11月3にちはいまつ 181はしら
神璽しんじ 昭和しょうわ19ねん11月3にちはい 335はしら
れい名簿めいぼ戦後せんご処理しょりしたもの)
明野あけの飛行ひこう学校がっこう関係かんけい 1651はしら
特攻とっこう比島ひじま方面ほうめん飛行ひこうたい 252はしら
特攻とっこう比島ひじま方面ほうめん挺身ていしんたい 457はしら
特攻とっこう沖縄おきなわ台湾たいわん方面ほうめん飛行ひこうたい 235はしら
特攻とっこう九州きゅうしゅう沖縄おきなわ方面ほうめん飛行ひこうたい 780はしら
特攻とっこう南方なんぽう方面ほうめんのぞ比島ひじま飛行ひこうたい 65はしら
特攻とっこう本土ほんど方面ほうめん飛行ひこうたい 55はしら
少年しょうねん飛行ひこうへい出身しゅっしんしゃ 382はしら
終戦しゅうせん自決じけつ烈士れっし 78はしら
れいめいしょうしゃ祭祀さいし証左しょうさあるも氏名しめいしょう 131はしら

由緒ゆいしょ[編集へんしゅう]

航空こうくう神社じんじゃ建立こんりゅう由来ゆらいは、1936ねん昭和しょうわ11ねん当時とうじ航空こうくう殉職じゅんしょくしゃ一命いちめいささげて国家こっか航空こうくう開発かいはつ発展はってん貢献こうけんしながらも靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうしされない実情じつじょうまえ、かつて所沢ところざわ飛行ひこうがく校長こうちょうであった徳川とくがわ好敏よしとく中将ちゅうじょう宿願しゅくがんにより、伊勢神宮いせじんぐう造営ぞうえい古木ふるきおよ氷川神社ひかわじんじゃ用材ようざい拝受はいじゅし、所沢ところざわ陸軍りくぐん飛行場ひこうじょう南端なんたん社殿しゃでん造営ぞうえいてんあきら大神だいじん鎮座ちんざおよ航空こうくう殉職じゅんしょくしゃはいまつさい執行しっこうしたものであり、1937ねん昭和しょうわ12ねん)9がつ25にち創建そうけん陸軍りくぐん航空こうくう関係かんけい神社じんじゃとして滋賀しがけん八日市ようかいち飛行場ひこうじょうの冲原神社じんじゃいで創建そうけんねん確認かくにんできる2番目ばんめふるい営内神社じんじゃ)された。翌日よくじつ部隊ぶたい改編かいへんにより所沢ところざわ陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう閉校へいこうとなったが、学校がっこう施設しせつだい部分ぶぶん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう分校ぶんこうとなり、航空こうくう神社じんじゃ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう分校ぶんこう守護しゅごれいとして崇敬すうけい中心ちゅうしんとなった。

航空こうくう神社じんじゃ斎主さいしゅは、北野きたのたかし神社じんじゃ栗原くりはらつとめてきた。北野きたのたかし神社じんじゃは、埼玉さいたま県内けんない有数ゆうすういにしえしゃであるからばかりでなく、延喜えんぎ式内しきないしゃでもある物部ものべたかし神社じんじゃ祭神さいじんくしだまにょうそくいのちてんいわせんっててんよりくだったため、航空こうくう安全あんぜんかみさまとして崇敬すうけいけることふか関係かんけいしているとおもわれる[1]

 航空こうくう創始そうし以来いらいじゅうゆうきゅうねん歴史れきししん一瞬いっしゅんゆめごとしと雖貴重きちょうなる幾多いくた犠牲ぎせいはら先輩せんぱい各位かくいなみだくましき苦心くしん努力どりょくかさ牢固ろうこたる決意けついした航空こうくう進展しんてん寄與きよせられし結果けっか今日きょうささえ四百餘州しひゃくよしゅう震駭しんがい皇軍こうぐんはな無敵むてき空軍くうぐんとして其威りょく遺憾いかんなく發揮はっきせるだい航空こうくう現出げんしゅつえしとはこれとう空中くうちゅう戰士せんしの殆と大部たいぶ當校とうこう功績こうせきまた偉大いだいうへし

 今次こんじ軍備ぐんび改變かいへんためにわかこれ廢止はいしせられ其名を永久えいきゅうめっするは感慨無量かんがいむりょういちいちせきことごと有情うじょう哀惜あいせきねん一入ひとしおふかきをさとゆるもこうこう趾の大部たいぶ陸軍りくぐん士官しかん學校がっこう分校ぶんこうとして其由緒ゆいしょ相應ふさわしくわか空軍くうぐん將校しょうこう練武れんぶ道場どうじょうとなるしん好個こうこ後継こうけいたりとうへくとう飛行場ひこうじょういてしょくに殉し不幸ふこう中道ちゅうどう烈士れっし英靈えいれい今次こんじ創建そうけん神社じんじゃ合祀ごうし陸軍りくぐん士官しかん學校がっこう分校ぶんこう守護しゅごれいとしてなが全校ぜんこう崇敬すうけい中心ちゅうしんとなり祭祀さいしせらるることとせり將来しょうらい英靈えいれい照覧しょうらん加護かごした學校がっこう光輝こうきある歴史れきし傳統でんとう精神せいしんは必らすやたけししんはつ剌たる航空こうくう候補こうほせい琴線きんせん彼等かれらをして發奮はっぷん興起こうきいよいよいよいよ盒盒航空こうくう進展しんてん邁進まいしん國軍こくぐん期待きたいふくふへきをしんじしてうたがわすすなわほろぼがたかわるも所澤ところざわ陸軍りくぐん飛行ひこう學校がっこう萬古ばんこ不朽ふきゅううへし 

 -昭和しょうわ12ねん9がつ26にち 所沢ところざわ陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう廃校はいこう陸軍りくぐん士官しかん學校がっこう分校ぶんこう開校かいこう)に挙行きょこうされた航空こうくう神社じんじゃ奉告ほうこくさいべる学校がっこうちょう祭文さいぶん より-

1938ねん昭和しょうわ13ねん)5がつ7にち建設けんせつちゅう学校がっこう施設しせつがいし、所沢ところざわ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう分校ぶんこう埼玉さいたまけん豊岡とよおかげん埼玉さいたまけん入間いるま)に移転いてんすることとなり、同年どうねん12がつ10日とおか同地どうち陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう創設そうせつされた。これにあわせて航空こうくう神社じんじゃ豊岡とよおか奉遷ほうせんすることとなった。それまで所沢ところざわ陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう関係かんけい殉職じゅんしょくしゃよんじゅうきゅうはしらはいまつされていたが、豊岡とよおかへの移転いてんは、将来しょうらい航空こうくう関係かんけい出身しゅっしん英霊えいれいはいまつされることとなった。航空こうくう神社じんじゃ生徒せいと修学しゅうがくちゅうにおいて、英霊えいれい直面ちょくめんしてその霊気れいきれうる環境かんきょうとすべきという当時とうじ学校がっこうちょう意図いともとづき、もっと静寂せいじゃく学校がっこう北部ほくぶはやしなかえらばれた。毎日まいにち早朝そうちょう候補こうほせいたちは航空こうくう神社じんじゃ参詣さんけいし、その精神せいしんどころとしていた。航空こうくう神社じんじゃには、靖国神社やすくにじんじゃまつられることのなかった殉職じゅんしょくしゃれいまつられ、航空こうくう発展はってんねが航空こうくうたましい宿やどっていた。

1945ねん昭和しょうわ20ねん)9がつ3にち終戦しゅうせんべいぐん陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう進駐しんちゅう接収せっしゅうされる情勢じょうせいとなり、陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこうちょうであった徳川とくがわ好敏よしとく中将ちゅうじょうほか航空こうくう関係かんけいしゃは、航空こうくう神社じんじゃたかしほこら永久えいきゅう保全ほぜんすることをねがい、これまで祭典さいてん奉仕ほうししてきた北野きたのたかし神社じんじゃ栗原くりはら良介りょうすけ宮司ぐうじ懇請こんせいし、どう宮司ぐうじ厚意こうい地元じもと有志ゆうし協力きょうりょくにより、べいぐん進駐しんちゅう先立さきだって、たかしほこら原型げんけいのまま埼玉さいたまけん所沢ところざわ大字だいじ北野きたのにある北野きたのたかし神社じんじゃ奉遷ほうせんした。

航空こうくう神社じんじゃ由来ゆらいとその変遷へんせん昭和しょうわさんじゅうろくねん

ほん神社じんじゃ創建そうけん昭和しょうわじゅういちねんにそのしょ準備じゅんびすすめ、昭和しょうわじゅうねんきゅうがつじゅうにち伊勢神宮いせじんぐう造営ぞうえい古木ふるきならびに氷川神社ひかわじんじゃ用材ようざい拝受はいじゅし、同年どうねん所沢ところざわ飛行場ひこうじょう南端なんたん社殿しゃでん造営ぞうえいてんあきら大神だいじん鎮座ちんざおよ航空こうくう殉職じゅんしょくしゃはいまつさい執行しっこうしたものであります。  そして本社ほんしゃ建立こんりゅう由来ゆらいは、当時とうじ航空こうくう殉職じゅんしょくしゃが、一命いちめいささげて国家こっか航空こうくう開発かいはつ発展はってんしながら靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうしされない実情じつじょうるをおもべつ護国ごこく神霊しんれいとして祭祀さいしすべき宿願しゅくがんによったものであります。  そのたかしほこら埼玉さいたまけん豊岡とよおか創設そうせつされた陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう一隅いちぐうえらび、森厳しんげんかそけみどりたるたまものめいおさむたけだい奉遷ほうせんされその学生がくせい生徒せいと尊崇そんすう中心ちゅうしんとして礼拝れいはいけていた次第しだいであります。  しかるに、昭和しょうわじゅうねん終戦しゅうせんとなるやこのおさむたけだいべいぐん接収せっしゅうせらるる情勢じょうせいとなりましたので、航空こうくう関係かんけいしゃはこのたかしほこら永久えいきゅう保全ほぜんせんことをこいねがい、従来じゅうらい奉仕ほうしせられた北野きたの天神てんじん宮司ぐうじ栗原くりはら良介りょうすけ懇願こんがんし、どう宮司ぐうじ好意こうい地元じもと有志ゆうし協力きょうりょくり、べいぐん進駐しんちゅう先立さきだきゅうがつさんにちたかしほこら現形げんけいのまま完全かんぜん現在地げんざいち奉遷ほうせんしたのであります。  爾来じらいしんある人々ひとびとなみだぐましき奉仕ほうしにより、占領せんりょうにおいてもいちにち祭祀さいしくこと今日きょうまでつづけてまいりましたが、その国家こっか独立どくりつ発効はっこうとし奉賛ほうさんかい設立せつりつして祭祀さいし完璧かんぺきした次第しだいであります。  そのあらたに防衛庁ぼうえいちょう関係かんけい殉職じゅんしょくしゃをも合祀ごうしすることになりましたことは本会ほんかいもっと光栄こうえいとするところでありますとともにいては一般いっぱん航空こうくうかい犠牲ぎせいしゃにもおよぼしたいとぞんじている次第しだいであります。昨年さくねんは偶々航空こうくうじゅう周年しゅうねんたりますとともに、遷座せんざじゅうねんにもなりましたので、十一月じゅういちがつさんにちには祭祀さいし神霊しんれい合祀ごうしをもね、盛大せいだい荘厳そうごん大祭たいさい施行しこういたした次第しだいであります。そのまつりばしらさんせんひゃくはちじゅうろくはしらのぼり、うち自衛隊じえいたい関係かんけいまつりばしらはちじゅうきゅうはしらとなりました。  みぎごとほん神社じんじゃ航空こうくうかいとして由緒ゆいしょある崇史たかふみゆうするものでありますが、いまふたた日本航空にほんこうくう発展はってんともな益々ますますその象徴しょうちょうとして、あるいは空中くうちゅう交通こうつう安全あんぜん航空こうくう事業じぎょう繁昌はんじょう守護神しゅごじんとしてはたまた航空こうくう同人どうじん大空おおぞらたいする慕情ぼじょう故里ふるさととして永久えいきゅう奉祀ほうしすべきものとかたしんずるものであります。  いまふたた清澄せいちょうそらかいしょうする銀翼ぎんよくあおときおも青雲せいうん彼方かなたよりよみがえり、しょ神霊しんれい破顔一笑はがんいっしょう面影おもかげしのぶものであります。さらに日本にっぽん航空こうくうふたた祖国そこくまもりに、あるいはまた世界せかいむすはし一翼いちよくとして健在けんざいするのもしょ神霊しんれいたっと血潮ちしおたまものそとならざるをおもいますときだれせい航空こうくうとおるけたしゃあるいはとおるけあるものがどうしてこれをわすれることが出来できましょうか。航空こうくう神社じんじゃ護持ごじ永久えいきゅう祈念きねんしたいとの念願ねんがんもえゆる所以ゆえんであります。

奉賛ほうさんかいふく会長かいちょう 菅原すがわら みちだい

北野きたのたかし神社じんじゃうつった航空こうくう神社じんじゃにおいては、かすことなく祭祀さいしつづけられ、春秋しゅんじゅうかい祭礼さいれいには、ひがし久邇くにみや殿下でんか以下いか多数たすう参詣さんけいがあり盛大せいだいであった[2]

1954ねん昭和しょうわ29ねん)、航空こうくう自衛隊じえいたい発足ほっそく航空こうくう自衛隊じえいたい殉職じゅんしょくしゃはこの航空こうくう神社じんじゃ合祀ごうしされるという特別とくべつ神社じんじゃとなり、つね航空こうくうかい中枢ちゅうすう神社じんじゃであった。なお、1962ねん昭和しょうわ37ねん)に防衛ぼうえいしょう市ヶ谷いちがや地区ちく慰霊いれいてられたため、ひゃくはしら殉職じゅんしょく自衛じえいかん御霊みたまどういしぶみに遷還された[3]

1965ねん昭和しょうわ40ねん)11月19にち諸般しょはん事情じじょうから航空こうくう自衛隊じえいたい幹部候補生学校かんぶこうほせいがっこうれい璽がうつされることとなり、奉遷ほうせんには菅原すがわらみちだいほかおおくの神官しんかん西下さいかした。幹部候補生学校かんぶこうほせいがっこうにおいては奉遷ほうせんされたれい璽は神社じんじゃとしてではなく参考さんこうかん安置あんちされた[2]

1988ねん昭和しょうわ63ねん)2がつ26にち航空こうくう自衛隊じえいたい入間いるま基地きち整備せいびされたおさむたけだい記念きねんかんれい位牌いはいおよれい名簿めいぼ安置あんちされた[2]

2024ねんれい6ねん)3がつ13にち航空こうくう神社じんじゃ遷霊さいなみ奉遷ほうせんさい挙行きょこうされれい位牌いはいおよれい名簿めいぼ北野きたのたかし神社じんじゃふたた遷座せんざされた。

例祭れいさい[編集へんしゅう]

航空こうくう神社じんじゃ遷霊さいなみ奉遷ほうせんさいて、2024ねんれい6ねん)4がつ15にち、1965ねん昭和しょうわ40ねん以来いらい本来ほんらいあるべきかたちでの航空こうくう神社じんじゃ例祭れいさい開催かいさいされた。なお、例祭れいさいあわせて、航空こうくう神社じんじゃかか史料しりょう写真しゃしん展示てんじかいおこなわれた。

御朱印ごしゅいん御守おまもり[編集へんしゅう]

航空こうくう神社じんじゃ遷霊さいなみ奉遷ほうせんさいて、2024ねんれい6ねん)4がつ13にちより、御朱印ごしゅいん御守おまもり頒布はんぷはじまった。

航空こうくう神社じんじゃ御守おまもり

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう刊行かんこうかい、1996ねん2がつ11にち 

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 航空こうくう神社じんじゃ航空こうくう神社じんじゃ奉賛ほうさんかい
  • 陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう刊行かんこうかい平成へいせい8ねん1がつ10日とおか
  • 飛翔ひしょう所沢ところざわ飛行場ひこうじょう経歴けいれき所沢ところざわ航空こうくう資料しりょう調査ちょうさ収集しゅうしゅうするかい

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]