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船頭せんどうひら閘門

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

座標ざひょう: 北緯ほくい357ふん55.5びょう 東経とうけい13640ふん48.9びょう / 北緯ほくい35.132083 東経とうけい136.680250 / 35.132083; 136.680250 (船頭せんどうひら閘門)

船頭平閘門の位置(愛知県内)
船頭平閘門
愛知あいちけんにおける船頭せんどうひら閘門の位置いち
油島あぶらじま締切しめきりつつみ周辺しゅうへん航空こうくう写真しゃしん。やや東側ひがしがわ位置いちするのが福原ふくはらで、福原ふくはら南東なんとう船頭せんどうひら閘門がある。国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい。2009ねん4がつ撮影さつえいの12まい合成ごうせい作成さくせい
船頭せんどうひら閘門

船頭せんどうひら閘門(せんどうひらこうもん、せんどひらこうもん)は、愛知あいちけんあい西市さいち立田たったまち福原ふくはらにある木曽川きそがわ長良川ながらがわあいだをつなぐ閘門である。

概要がいよう

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歴史れきし

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木曽川きそがわ長良川ながらがわ揖斐川いびがわ木曽きそ三川さんせんしも流域りゅういき合流ごうりゅう分岐ぶんきかえして網目あみめにようにながれており、大雨おおあめのたびに洪水こうずい発生はっせいしてはながれがわるなど災害さいがいえなかった[1]江戸えど時代じだいすう治水ちすい工事こうじ実施じっしされるが抜本ばっぽんてき改善かいぜんにはいたらず、明治めいじ時代じだいにはいると最新さいしん土木どぼく技術ぎじゅつもちいた治水ちすい工事こうじもとめるこえつよまる[1]

明治めいじ政府せいふ1877ねん明治めいじ10ねん)にやと外国がいこくじんヨハニス・デ・レーケ派遣はけんして三川みかわ完全かんぜん分流ぶんりゅう目指めざすことになるが、これにともなって三川みかわやそのかわつうじて水路すいろつながっていた地域ちいきあいだ河口かこう地域ちいきまで迂回うかいする必要ひつようしょうじることとなり、はしもほとんどなかったため物資ぶっし輸送ゆそうなどのめん支障ししょうることが予想よそうされた[1]。そのため当初とうしょ計画けいかくから閘門をもうけることが検討けんとうされていたものの場所ばしょ未定みていで、うなぎ江川えがわあおさぎかわとの比較ひかく検討けんとうののちに船頭せんどうたいらへの設置せっち決定けっていされ、だい2工事こうじちゅう1899ねん明治めいじ32ねん)に着工ちゃっこうだい3工事こうじちゅう1902ねん明治めいじ35ねん)に完成かんせいした[1]施工しこう費用ひようは13.6まんえん予算よさんであったが、完成かんせいまでに15.4まんえん増大ぞうだいしており、増額ぞうがくだい部分ぶぶん排水はいすい費用ひようであった[1]

船頭せんどうひら閘門周辺しゅうへん地形ちけい変遷へんせん着色ちゃくしょくは「福原新田ふくはらしんでん」で、木曽川きそがわ長良川ながらがわむすほそ水路すいろのうち福原新田ふくはらしんでん付近ふきん堤防ていぼう狭窄きょうさくに閘門が設置せっちされている。現在げんざいは閘門周辺しゅうへん公園こうえんとして整備せいびされている。

閘門の構造こうぞう門扉もんぴささえる閘頭部分ぶぶん煉瓦れんがみやつこふね接触せっしょくかんがえられる箇所かしょ門扉もんぴせっする部分ぶぶん花崗岩かこうがんんでいる[2]。閘室ないゆかいしり、かべ木製もくせい矢板やいたちで上部じょうぶあいだ石積いしつみとなっていた[2]。閘門の全長ぜんちょうは56.3メートル、閘室ない当時とうじふねおおきさを考慮こうりょしてながさ23.9メートル、はば5.6メートル[2]

木曽川きそがわ長良川ながらがわ水位すいい通常つうじょう木曽川きそがわがわたか年間ねんかん平均へいきん水位すいいは35センチメートル最大さいだい水位すいいつき平均へいきんで54センチメートル、最小さいしょう水位すいいは8センチメートルであった[1]当初とうしょ設計せっけいでは木曽川きそがわがわ長良川ながらがわがわともに2ついの閘門扉もんぴ予定よていであったが、長良川ながらがわがわ水位すいいたかくなる頻度ひんどすくないとかんがえられ、このあいだつう停止ていししても影響えいきょうすくないとの判断はんだんから、完成かんせい長良川ながらがわがわは1ついのみであった[1]。しかし実際じっさい運用うんようすると長良川ながらがわがわ水位すいいたかくなる頻度ひんど予想よそうよりおおく、つう閘に支障ししょうることから1909ねん明治めいじ42ねん)に長良川ながらがわがわとびらも2つい増設ぞうせつされた[1]

完成かんせい翌年よくねん1903ねん明治めいじ36ねん)の利用りよう操作そうさ回数かいすう5833かい通航つうこう船舶せんぱく27169そういかだ5569まいという実績じっせき記録きろくしているが[1]1952ねん昭和しょうわ27ねん)を最後さいごいかだ通航つうこうはなく、近年きんねん年間ねんかん600~700せきだい部分ぶぶんをレジャーボートがめている[3]

改修かいしゅう公園こうえん整備せいび

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1994ねん平成へいせい6ねん)にはそれまでの手動しゅどうから電動でんどうへの近代きんだい改修かいしゅう工事こうじおこなわれた。2000ねん平成へいせい12ねん)5がつには明治めいじ建設けんせつされて現在げんざいでも使用しようされている貴重きちょうな閘門であるということで重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた[4]周辺しゅうへん一帯いったい1987ねん昭和しょうわ62ねん10月開設かいせつされた国営こくえい木曽きそ三川さんせん公園こうえん中流ちゅうりゅう一翼いちよくにな船頭せんどう平河ひらかわがわ公園こうえんとして整備せいびされ、木曽きそ三川さんせん治水ちすい工事こうじかんする情報じょうほう公開こうかい拠点きょてんとして木曽川きそがわ文庫ぶんこ設置せっちされた。公園こうえんないには、改修かいしゅう工事こうじまえ水門すいもんとびら展示てんじや、明治めいじ三川みかわ分流ぶんりゅう工事こうじ功績こうせきのあったヨハニス・デ・レーケぞうがある。

木曽川きそがわ文庫ぶんこ

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木曽川きそがわ文庫ぶんこ(きそがわぶんこ)は、船頭せんどうひら閘門管理かんりしょの2かいにある文庫ぶんこである[5]木曽川きそがわ治水ちすいひゃく周年しゅうねん事業じぎょう一環いっかんとして1987ねん昭和しょうわ62ねん)10がつ8にち開設かいせつされた[6]施設しせつゆか面積めんせきやく170m2で、書籍しょせき資料しりょう所蔵しょぞうする書架しょかコーナーのほか、閲覧えつらんコーナーや資料しりょう展示てんじコーナーをそなえる[6]所蔵しょぞう点数てんすうやく4,500てんで、明治めいじ改修かいしゅうまでの資料しりょう中心ちゅうしんとしている[6]

ギャラリー

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i 国土こくど交通省こうつうしょう 中部ちゅうぶ地方ちほう整備せいびきょく. “KISO特別とくべつごう 木曽きそ三川さんせん 歴史れきし文化ぶんか調査ちょうさ研究けんきゅう史料しりょう 明治めいじ改修かいしゅう完成かんせいひゃくねん特別とくべつごう” (PDF). 2022ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c 船頭せんどうひら閘門(せんどうひらこうもん)”. 文化財ぶんかざいナビ愛知あいち. 2022ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  3. ^ 国土こくど交通省こうつうしょう 中部ちゅうぶ地方ちほう整備せいびきょく 木曽川きそがわ下流かりゅう河川かせん事務所じむしょ. “船頭せんどうひら閘門” (PDF). 2022ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  4. ^ 船頭せんどうひら閘門”. くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース(文化庁ぶんかちょう). 2015ねん12月2にち閲覧えつらん
  5. ^ 船頭せんどうひら閘門”. 木曽川きそがわ下流かりゅう河川かせん事務所じむしょ. 2021ねん6がつ16にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c 河川かせん環境かんきょう総合そうごう研究所けんきゅうじょ報告ほうこく だい15ごう” (PDF). 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん河川かせん財団ざいだん. 2021ねん6がつ16にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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