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賀集かしゅう

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賀集かしゅう(かしゅう しょう、1924ねん大正たいしょう13ねん10月31にち[1] - 2008ねん平成へいせい20ねん7がつ26にち)は、日本にっぽん裁判官さいばんかんもと東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ判事はんじ総括そうかつ兵庫ひょうごけん神戸こうべ出身しゅっしん

来歴らいれき[編集へんしゅう]

福井ふくい家裁かさい所長しょちょう和歌山わかやま家裁かさい所長しょちょう歴任れきにん東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ判事はんじ総括そうかつ退官たいかん退官たいかん弁護士べんごし登録とうろくし、帝京大学ていきょうだいがく法学部ほうがくぶ教授きょうじゅつとめる一方いっぽう多方面たほうめん役職やくしょく歴任れきにんした。

民事みんじ裁判さいばん手続てつづき司法しほう制度せいど分野ぶんや権威けんいでもあった[2]

永年えいねんにわたる功労こうろうにより1994ねん平成へいせい6ねん)にはくんとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょう死後しごしたがえさんじょされた。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

1944ねん海軍かいぐん経理けいり学校がっこう卒業そつぎょう、1945ねん海軍かいぐん主計しゅけい中尉ちゅうい、1947ねん京都きょうと帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ入学にゅうがく、1949ねん12月 司法しほう試験しけんだい試験しけん合格ごうかく、1950ねん京都大学きょうとだいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょう司法しほう修習しゅうしゅうせい、1952ねん司法しほう修習しゅうしゅう終了しゅうりょう名古屋なごや地方裁判所ちほうさいばんしょ名古屋なごや家庭かてい裁判所さいばんしょ判事はんじ、1954ねん東京とうきょう家庭かてい裁判所さいばんしょ判事はんじ最高さいこう裁判所さいばんしょ事務じむ総局そうきょく民事局みんじきょくづけ最高裁判所さいこうさいばんしょ事務じむ総局そうきょく総務そうむきょくづけ、1957ねん旭川あさひかわ地方裁判所ちほうさいばんしょ旭川あさひかわ家庭かてい裁判所さいばんしょ判事はんじおぎなえ、1958ねん札幌さっぽろ地方裁判所ちほうさいばんしょ札幌さっぽろ家庭かてい裁判所さいばんしょ判事はんじおぎなえ、1960ねん東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ東京とうきょう家庭かてい裁判所さいばんしょ判事はんじおぎなえ、1962ねん東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ東京とうきょう家庭かてい裁判所さいばんしょ判事はんじ、1963ねん司法研修所しほうけんしゅうしょ教官きょうかんけん、1968ねん大阪おおさか高等こうとう裁判所さいばんしょ判事はんじ、1971ねん東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ判事はんじ、1972ねんどう総括そうかつ、1973ねん東京とうきょう高等こうとう検察庁けんさつちょう検事けんじ法務大臣ほうむだいじん官房かんぼう参事官さんじかん、1975ねん法務大臣ほうむだいじん官房かんぼう司法しほう法制ほうせい調査ちょうさ部長ぶちょうけん、1978ねん東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ判事はんじ、1980ねん福井ふくい地方裁判所ちほうさいばんしょ福井ふくい家庭かてい裁判所さいばんしょちょう。1982ねん和歌山わかやま地方裁判所ちほうさいばんしょ和歌山わかやま家庭かてい裁判所さいばんしょちょう、1984ねん東京とうきょう高等こうとう裁判所さいばんしょ判事はんじ総括そうかつ)、1989ねん10がつ定年ていねん退官たいかん帝京大学ていきょうだいがく法学部ほうがくぶ教授きょうじゅ弁護士べんごし登録とうろく東京とうきょう弁護士べんごしかい)、1991ねん臨時りんじ行政ぎょうせい改革かいかく推進すいしん審議しんぎかい専門せんもん委員いいん、1994ねん11月じょくんとう瑞宝章ずいほうしょう、2000ねん帝京大学ていきょうだいがく定年ていねん退職たいしょく。2008ねん7がつ26にち肺炎はいえんのため死去しきょ[1]没後ぼつごじょしたがえさん

共編きょうへんちょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 現代げんだい物故ぶっこしゃ事典じてん2006~2008』(日外にちがいアソシエーツ、2009ねん)p.168
  2. ^ 弁護士べんごし法人ほうじん 松尾まつお綜合そうごう法律ほうりつ事務所じむしょ