ちょう舒翹

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ちょう 舒翹(ちょう じょぎょう、Zhào Shūqiáo1848ねん - 1901ねん)は、きよしすえ官僚かんりょうてんごうきんばんごうまきひとし陝西せんせいしょう西安しーあん出身しゅっしん

どう13ねん1874ねん)に進士しんしとなり、刑部おさかべ主事しゅじとなった。ひかりいとぐち8ねん1882ねん)より刑部おさかべいん外郎ういろうみずうみ広司こうじろうちゅうおおとりよう浙江せっこう温州うんしゅうどう浙江せっこうぬのせい使歴任れきにんし、ひかりいとぐち21ねん1895ねん)に江蘇こうそめぐなでとなった。ひかりいとぐち23ねん1897ねん)に北京ぺきんしだされ、刑部おさかべひだりさむらいろうけんれいひだりさむらいろうとなり、よく24ねん1898ねん)に刑部おさかべ尚書しょうしょ昇進しょうしんした。ひかりいとぐち25ねん1899ねん)、総理そうり各国かっこく事務じむ衙門大臣だいじん軍機ぐんき大臣だいじんとなった。

ひかりいとぐち26ねん1900ねん)、義和よしかずだんらん発生はっせいすると大学だいがく剛毅ごうき(ガンイ)ととも調査ちょうさたった。ちょう舒翹は「こぶしみん恃むべからず」とかんがえたが、剛毅ごうき意見いけんされ「これをもちいるべし」との上奏じょうそう提出ていしゅつした。その結果けっか8ヶ国かこく連合れんごうぐん北京ぺきん陥落かんらくさせ、西にしふとしきさき西安しーあん逃亡とうぼうすることになった。北京ぺきん議定ぎていしょ調印ちょういんにあたり、連合れんごうぐんちょう舒翹を戦犯せんぱん指名しめいし、しんがわ厳罰げんばつせまった。西にしふとしきさき当初とうしょかわしょく留任りゅうにんかんがえていたが、やがて斬罪ざんざい変更へんこうされた。これをいた西安しーあん人々ひとびと助命じょめいうたため服毒ふくどく自殺じさつ変更へんこうされ、ひかりいとぐち27ねん(1901ねん)に自殺じさつした。

ちょう舒翹は刑部おさかべにあったときほう執行しっこう謹厳きんげんで、圧力あつりょくこごめせず、おおくの冤罪えんざいあきらかにして無実むじつひとすくったという。

先代せんだい
奎俊(クイジュン)
江蘇こうそめぐなで
1895ねん - 1897ねん
次代じだい
奎俊(クイジュン)
先代せんだい
廖寿つね
刑部おさかべかん尚書しょうしょ
1898ねん - 1900ねん
次代じだい
薛允ます