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鎮岑ぐん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
1872ねんごろジンジャムけん付近ふきんみち

鎮岑ぐん韓国かんこく表記ひょうき진잠군)は、大田おおた広域こういき儒城鎮岑ほら西にしせき雎洞・佳水かすいいんほら中心ちゅうしん大田おおた広域こういき西南せいなん一帯いったいにあったむかし行政ぎょうせい区域くいきである。朝鮮ちょうせん時代じだいには忠清ただきよどうおおやけしゅうまぎ儒城けんぞくしており、こうむね32ねん(1895ねん)には鎭岑ぐん改編かいへんされ、1914ねんぐん合併がっぺいされ大田おおたぐんとなった。

概要がいよう

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鎮岑の岑はちいさいそびえやま意味いみするが、きゅう峰山みねやまいわほう意味いみする。[1] 鎮岑ぐん朝鮮ちょうせん時代じだいふところとくけん儒城けんおおやけしゅうまぎぞくしており、こうむね32ねん(1895ねん)の地方ちほう行政ぎょうせい制度せいど改編かいへんで鎮岑ぐん名前なまええた。現在げんざい、鎮岑小学校しょうがっこうちかくに鎮岑けん官衙かんがあとがあったと推定すいていされる。[2]

歴史れきし

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  • もとうちほらほそほら一帯いったい先史せんし時代じだい人類じんるい居住きょじゅうあと発見はっけんされた。大井おおいほらでは青銅器せいどうき時代じだい遺跡いせき確認かくにんされた。
  • うまかん時代じだいしんしん釁国があった。ゆたか祚王婁王だいには百済くだら領土りょうど併合へいごうされた。そのもしばらく百済くだら対外たいがいてきうまかん名乗なのってうまかん体制たいせい存続そんぞくして百済くだら支配しはい小国しょうこく体制たいせいつづいていた。
  • 百済くだら時代じだい、鎮岑ほら鎮峴けん設置せっちされた。
  • 660ねん - 百済くだらほろびてしん領土りょうど編入へんにゅうされた。しかし、百済くだら復興ふっこうぐんにわとり龍山たつやまひがし位置いちする鎮峴じょう拠点きょてん抵抗ていこうしたが、とうりゅうひとしねがいりゅうひとし軌によっておにしつぶくしんなどが降伏ごうぶくすることにより、最後さいごむかえた。鎮峴じょうひがし西にし北側きたがわ馬川まのかわかこまれた黒石くろいしほらりゅうむらほらまたがって位置いちする山城やましろである。
  • 757ねんけい徳王とくおう16ねん)の行政ぎょうせい体制たいせい改編かいへんで鎮嶺けん改名かいめいされ、やまぐんぞくけんとなった。
  • 高麗こうらい時代じだいには鎭岑けん改名かいめいされた。この時期じきから鎭岑という名称めいしょう使用しようされた。にわとり山洞やまほら高麗こうらい青磁せいじすえかま運営うんえいされた。
  • 1895ねん - 23せい施行しこうにより行政ぎょうせい区域くいき再編さいへんされ、けん制度せいど廃止はいしされたため、ぐん昇格しょうかくされておおやけしゅう管轄かんかつ鎭岑ぐんになった。翌年よくねん忠清ただきよどう南北なんぼく分割ぶんかつされたかたち復活ふっかつして忠清ただきよ南道みなみどう編入へんにゅうされた。
  • 日本にっぽん植民しょくみん時代じだい1914ねんぐんめん統合とうごうにより大田おおたぐん合併がっぺいされて鎭岑めんと杞城めん再編さいへんされた。現在げんざいの鎭岑ほらにわとりりゅう市新いちしんあんめんは鎭岑めんとなった。杞城ほら佳水かすいいんほらせき雎洞一帯いったいは杞城めんとなった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 이츠대전, 2011년 6월호 30쪽
  2. ^ 대전광역시 향토사료관[リンク]