ちょうまごおき

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ちょうまご おき(ちょうそん し、549ねん - 610ねん)は、きたあまねからずいにかけての政治せいじ軍人ぐんじんなかこうほんぬき河南かなんぐん洛陽らくようけんちょうまごやや次男じなんちょう孫子まごこひろしまごにあたる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

ちょうまごとしてまれた。ぐんしょ渉猟しょうりょうし、成長せいちょうすると武芸ぶげいそなえた。きたしゅうたけみかど道教どうきょうをたっとび、道教どうきょう学問がくもん追究ついきゅうし、けいにもつうじて、談論だんろん得意とくいとするものつうどうかん学士がくしとした。572ねんちょうまごおきはそのせんおうじて、学問がくもんふかめた。573ねん雍州くらじょう県令けんれいにんぜられ、まもなく盩厔県令けんれいてんじた。2けん長官ちょうかんをつとめて、考課こうか連続れんぞくもっと優秀ゆうしゅう評価ひょうかされ、崤郡太守たいしゅてんじた。入朝にゅうちょうしてせい上士じょうしとなった。580ねん楊堅丞相じょうしょうとなると、ちょうまごおき丞相じょうしょうこう曹参ぐん抜擢ばってきされ、だいとくくわえられ、陽平ようへいけんふうぜられた。ややはく大夫たいふてんじた。おうけんえきしゅうで叛くと、ちょうまごおき信州しんしゅうそうかんおうちょうじゅつした長江ながえをさかのぼった。ぜんぐんをつとめて、すわえしゅうごうしゅうなどを平定へいていし、荊山こうもとらえて、功績こうせきによりどうさんつかさとなった。

581ねんずい建国けんこくされると、うち舎人とねりうえただしどうさんにんぜられた。まもなく本官ほんかんのまま東宮とうぐうみぎ庶子しょしをつとめ、ふたつの宮殿きゅうでん出入でいりして、ぶんみかど(楊堅)と太子たいし楊勇両者りょうしゃおもんじられた。ひだりりょうぐんちょうとなり、東南とうなんどうさんじゅうろくしゅう使つかいして、しゅうぐんおけはいし、地方ちほう風俗ふうぞく巡察じゅんさつした。帰還きかんすると太子たいしぼくとなり、諫議大夫たいふくわえられて、長安ながやすけんれい兼任けんにんした。だいおきけんれいはり毗とならしょうされ、りょう毗が厳正げんせいなことでられたのにたいして、ちょうまごおき寛大かんだい公平こうへいなことでられた。まもなくみぎつねひらかんね、雍州さんてんじて、にょうりょうけんあらためふうされた。おおとり臚少きょうてんじた。すうねんふとしつねしょうきょうてんじ、くらい開府かいふどうさんすすんだ。河南かなんどうじゅうはちしゅうじゅんしょう大使たいしとなり、巡察じゅんさつしている途中とちゅう吏部さむらいろうにんぜられた。605ねんだいきょうてんじ、西南せいなんどう大使たいしとなった。戸部とべ尚書しょうしょ抜擢ばってきされた。吐谷渾ちょうわき侵攻しんこうすると、ちょうまごおき精鋭せいえい騎兵きへい5000をひきいて吐谷渾軍を撃退げきたいし、青海あおみまで追撃ついげきして帰還きかんした。功績こうせきによりぎんあおこうろく大夫たいふけた。610ねん煬帝みやこうすると、ちょうまごおき東都とうとにとどまってまもり、ひだりこうまもる将軍しょうぐんごととなった。そのとし在官ざいかんのまま死去しきょした。享年きょうねんは62。おくりなしずかといった。

ちょうまご安世やすよ通事つうじ謁者となった。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]