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高井たかいはん

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高井たかいはん(たかいはん)[よう出典しゅってん]は、信濃しなのこく存在そんざいした尾張おわりはんささえはん尾張おわりはん2だい藩主はんしゅ徳川とくがわ光友みつとも次男じなんである松平まつだいら義行よしゆき四谷よつや松平まつだいら高須たかす松平まつへい)の)が、1681ねん高井たかい水内みずうち伊那いな3ぐんないで3まんせきあたえられて成立せいりつした。1700ねん領地りょうちなかばが交換こうかんされ、あらたに領地りょうちとなった美濃みのこく高須たかす居所きょしょさだめられたために、これ以後いご松平まつだいら義行よしゆきはん高須たかすはんばれることになる。伊那いなぐんない1まん5000せき領地りょうちについては高須たかすはんりょうとして明治維新めいじいしんまでのこった[1]

呼称こしょう

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松平まつだいら義行よしゆき封地ほうちについては信濃しなのこくの「高取たかとり」とする記述きじゅつもあり[注釈ちゅうしゃく 1]、「高取たかとりはん」というはんめい使つかわれるれいもあるが[注釈ちゅうしゃく 2]、「高取たかとり」という地名ちめい所在しょざい不明ふめいである。

義行よしゆき封地ほうちが「高取たかとり」であることは、元禄げんろく年間ねんかんの『国花こっかまんよう』や『武鑑ぶかん』『節用せつようしゅう』『くにつき』といった書籍しょせきられる記述きじゅつという[8][注釈ちゅうしゃく 3]。しかし、元禄げんろくから50ねんあまり瀬下せしもたかしただし信濃しなのこく地誌ちしせんきょく真砂まさご』(たかられき3ねん(1753ねん完成かんせい)を編纂へんさんした時点じてんで、「高取たかとり」は所在しょざい由来ゆらい不明ふめい地名ちめいとなっていた[8]。『せんきょく真砂まさご』の考証こうしょうによれば、元禄げんろくころ出版しゅっぱんされた地図ちず日本にっぽん国大こくだい絵図えず』では信濃しなのこく南部なんぶに「高取たかとりたけ」というやまえがき、その付近ふきん高取たかとりじょうしるすといい[8][注釈ちゅうしゃく 4]、『武鑑ぶかん』にしるされた「高取たかとりじょう」の江戸えどからの距離きょりは、高遠こうえん付近ふきん所在しょざいすることをしめすという[8]。『せんきょく真砂まさご』では、義行よしゆき伊那いなぐん陣屋じんやかまえたのがたけであることから、「竹佐たけさ」をあやまって「高取たかとり」としたのだろうという推測すいそく紹介しょうかいしている[8]

どう時代じだいには「松平まつだいら摂津せっつもりさま領分りょうぶん」など[注釈ちゅうしゃく 5]しょうされたその領地りょうちについて、歴史れきし用語ようごとしては、大名だいみょう居所きょしょ地名ちめいさずたんに「松平まつだいら義行よしゆきりょう[注釈ちゅうしゃく 6]あるいは「尾張おわりささえはんりょう[注釈ちゅうしゃく 7]尾張おわりささえはん松平まつだいら義行よしゆきりょう[注釈ちゅうしゃく 8]呼称こしょうすることがおおられる。

高須たかす移転いてん以前いぜんにさかのぼって義行よしゆきはんを「高須たかすはん」としてあつかれいもあるが[注釈ちゅうしゃく 9]元禄げんろく4ねん(1691ねん)までは小笠原おがさわらさだしん藩主はんしゅである高須たかすはん存在そんざいしている。

歴史れきし

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尾張おわりはん連枝れんし創出そうしゅつ

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尾張おわりはん2だい藩主はんしゅ徳川とくがわ光友みつともは、実子じっし3にん尾張おわり徳川とくがわ分家ぶんけ連枝れんし)とした[6]。すなわち、二男じなん松平まつだいら義行よしゆき三男さんなん松平まつだいら義昌よしまさ大久保おおくぼ松平まつへい。のち陸奥みちのく梁川はしかわはんおも)、じゅういちなん松平まつだいらともちょ川田かわた久保くぼ松平まつへい、のち内分ないぶんぶん)の3にんである[6]義行よしゆき正室せいしつ千代ちよひめ徳川とくがわ家光いえみつ長女ちょうじょ)ので、嫡男ちゃくなん徳川とくがわ綱誠つななりじゅんじる待遇たいぐうであった[11]義昌よしまさ実際じっさいには長男ちょうなんであったが庶出しょしゅつであったために三男さんなんとしてあつかわれた人物じんぶつで、のちに千代ちよひめ養子ようしとなっている[11]ともちょ庶出しょしゅつであるが、千代ちよひめ養子ようしとなった[11]。この3にん処遇しょぐうには千代ちよひめ影響えいきょうかんがえられている[11]義行よしゆき定紋じょうもんとした「きくあおい」は、はは使用しようしていたもんであるという[12]

松平まつだいら義行よしゆきはじまるいえは、江戸えど四谷よつや上屋敷かみやしきかまえたことから「四谷よつや松平まつだいら」とも、のちに高須たかすはんうつったことから「高須たかすはん松平まつへい」「高須たかす松平まつへい」ともばれる。光友みつとも創設そうせつした連枝れんしさんいえのうち、大久保おおくぼ松平まつへい川田かわた久保くぼ松平まつへいはやくにえ、高須たかす松平まつへいのみが幕末ばくまつまで存続そんぞくすることになる[6]

たてはんからはいはんまで

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高井藩の位置(長野県内)
竹佐
竹佐たけさ
新野
新野しんの
権堂
権堂ごんどう
飯田
飯田いいだ
片桐
片桐かたぎり
高遠
高遠たかとお
関連かんれん地図ちず長野ながのけん[注釈ちゅうしゃく 10]

松平まつだいら義行よしゆきりょう3まんせき成立せいりつ

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天和てんわ元年がんねん1681ねん)、幕府ばくふ光友みつともねがいによって、二男じなん松平まつだいら義行よしゆき摂津せっつもり)に信濃しなのこく伊那いなぐん高井たかいぐん水内みずうちぐんうちで3まんせきあたえて大名だいみょうとした[6]。3まんせき知行ちぎょう分布ぶんぷは、南部なんぶ伊那いなぐんで1まん5000せき北部ほくぶ高井たかいぐん水内みずうちぐんで1まん5000せきという[13]#領地りょうちふし参照さんしょう)。

義行よしゆき義昌よしまさ2人ふたり大名だいみょうれっする以前いぜんより光友みつとも同道どうどうして参府さんぷひま参勤交代さんきんこうたい)をおこない、これは大名だいみょうとなったのち同様どうようであった[11]老齢ろうれい病身びょうしん父親ちちおやささえる息子むすことして、交替こうたい名古屋なごや江戸えどめる存在そんざいうことができる[11]義行よしゆき信濃しなの3ぐんない大名だいみょうであった時期じき単独たんどく参府さんぷおこなっておらず[11][注釈ちゅうしゃく 11]尾張おわりはんとはべつりょうばんぶつくだされたまんせき以上いじょう領主りょうしゅとはいえ、いわゆる「大名だいみょう」や「はん」としての自立じりつせいくという指摘してきがある[11]

美濃みの高須たかすへの移転いてん

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元禄げんろく13ねん1700ねん)、義行よしゆき信濃しなのこく高井たかいぐん水内みずうちぐん領地りょうち返上へんじょうし、わって美濃みのこく石津いしづぐんうみ西郡にしごおりうちで1まん5000せき領地りょうちあたえられた[6]

これについて、高井たかいぐん領地りょうちには城下町じょうかまち建設けんせつ十分じゅうぶんひろさがなかったために、義行よしゆき領地りょうちえをのぞんだとされている[13]義行よしゆき希望きぼうしたのは、地形ちけいてきひろ上伊那かみいな片桐かたぎり付近ふきん現在げんざい上伊那かみいなぐん中川なかがわむら片桐かたぎり松川まつかわまち上片桐かみかたぎり周辺しゅうへん[注釈ちゅうしゃく 12])のまくりょうであったが、幕府ばくふ空地くうちとなっていた[注釈ちゅうしゃく 13]美濃みの高須たかす付近ふきんで1まん5000せきをまとめてわたしたという[13]ほんはん尾張おわりはんちかく、高須たかすしろ以来いらい城下町じょうかまちがすでに形成けいせいされていることなどが理由りゆうとして推測すいそくされる[13]

義行よしゆき美濃みのこく石津いしづぐん高須たかす陣屋じんや居所きょしょさだめたため、信濃しなの国内こくない3まんせきのこのはんはいはんとなり、美濃みの高須たかすはんたてはんしたとみなされる。伊那いなぐんないにおける1まん5000せき所領しょりょう高須たかすはんりょうとしてのこった(#領地りょうちふし参照さんしょう)。

領地りょうち

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高井たかいぐん水内みずうちぐん

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松平まつだいら義行よしゆき領地りょうちは、信濃しなのこく北部ほくぶ高井たかいぐん水内みずうちぐんで1まん5000せきとされる[13]。このうち水内みずうちぐんでは権堂ごんどうむら現在げんざい長野ながの中心ちゅうしんふくまれる権堂ごんどうまち付近ふきん)など5040せき知行ちぎょうしていたという記述きじゅつもある[17]

元和がんわ2ねん(1616ねん)の川中島かわなかじまはんあるじ松平まつだいらただしてる改易かいえき、その旧領きゅうりょう幕府ばくふりょう大小だいしょうわたしりょうによって分割ぶんかつされた[18]。なお、高井たかいぐん信濃しなのこく屈指くっし穀倉こくそう地帯ちたいとされている[18]義行よしゆき領地りょうちとなった高井たかいぐん新野あらたのむら現在げんざい長野ながのけん中野なかの新野しんのしんの)には新野しんの陣屋じんやかれた[7]。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』では、「高取たかとりはん」の陣屋じんや新野あらたのむらかれたとある[7]

元禄げんろく13ねん(1700ねん)に松平まつだいら義行よしゆき高井たかいぐん水内みずうちぐんない領地りょうち幕府ばくふりょうもどされると、新野しんの陣屋じんや幕府ばくふりょう陣屋じんやとして継続けいぞくしてもちいられ、とおる年間ねんかんまで存続そんぞくした[19][注釈ちゅうしゃく 14]

伊那いなぐん

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信濃しなのこく南部なんぶ伊那いなぐんには、1まん5000せき知行ちぎょうがあった[13]伊那いなぐん46かそん支配しはいのために[21]伊那いなぐん竹佐たけさむら現在げんざい飯田いいだ竹佐たけさたけさ)の高屋たかや(だぶたかや[22])に竹佐たけさ陣屋じんやき、郡代ぐんだい派遣はけんした[1]

伊那いなぐん領内りょうないには天竜川てんりゅうがわながれており、江戸えど時代じだいつうじてしばしば水害すいがい発生はっせいさせた。天和てんわ3ねん(1683ねん)にはだい規模きぼ洪水こうずいがあり[23]、たとえば伊久間いくまむら現在げんざい下伊那しもいなぐん喬木たかぎむら伊久間いくま)のむらだか事前じぜん事後じご検地けんちで50せきほどの減少げんしょうせている[21]

元禄げんろく13ねん(1700ねん)に北信ほくしん2ぐん西濃せいのう2ぐん領地りょうちえがおこなわれて以降いこうも、伊那いなぐんないの1まん5000せきつづ義行よしゆき知行ちぎょうとしてのこった。以後いご幕末ばくまつ明治維新めいじいしんまで、高須たかすはんりょうとして竹佐たけさ陣屋じんや竹佐たけさ代官だいかんしょ。「山本やまもと役所やくしょ[24][注釈ちゅうしゃく 15]などともしょうされた)をとおして支配しはいされた。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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四谷よつや松平まつだいら高須たかす松平まつへい

親藩しんぱん連枝れんし 3まんせき

  1. 義行よしゆき(よしゆき)〔したがえよん摂津せっつもり少将しょうしょう

備考びこう

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  • もりざか - 東京とうきょう新宿しんじゅく区内くないさか。「摂津せっつもり」をしょうした松平まつだいら義行よしゆき上屋敷かみやしきわきとおることに由来ゆらい

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 『デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus』の「松平まつだいら義行よしゆき」の項目こうもくでは、封地ほうちを「信濃しなの高取たかとり」とする[2]。『日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)』の「高須たかすはん」の項目こうもくでは、義行よしゆきは「信濃しなの高取たかとり領主りょうしゅ」であったとする[3]。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』の「尾張おわりはん[4]・「高須たかすはん[5]項目こうもくでは義行よしゆき封地ほうちを「信濃しなの高取たかとり」とする。高須たかす松平まつへいかんする岸野きしの俊彦としひこ論文ろんぶん(2014ねん)では、松平まつだいら義行よしゆき封地ほうちを「信濃しなのこく伊那いなぐん高取たかとり」とする[6]
  2. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』の「新野あらたのむら(近世きんせい)」の項目こうもくでは、このむらが「尾張おわりささえはんりょう」であったとするほかに、「高取たかとりはん」の陣屋じんやかれたという説明せつめいられる。ただしこの項目こうもくでは「尾張おわりささえはん」と「高取たかとりはん」が同一どういつであるという説明せつめいいている[7]
  3. ^ 徳川とくがわ諸家しょか系譜けいふ 3』p.37では「信濃しなのこく高取たかとり」とある。
  4. ^ たとえば早稲田大学わせだだいがく図書としょ所蔵しょぞうだい日本にっぽん国大こくだい絵図えず信濃しなのこく付近ふきんでそのような描写びょうしゃ確認かくにんできる。
  5. ^ どう時代じだい松代まつだいはん作成さくせいした水内みずうちぐん更級さらしなぐん埴科はにしなぐん高井たかいぐん よんぐん絵図えずめん信州しんしゅうデジタルコモンズ)でも、はんについては「松本まつもとりょう」「上田うえだりょう」などとあるところ、地名ちめいかんさず「松平まつだいら摂津せっつもりさまりょう」などとしてしるされる(上部じょうぶの「きた」という文字もじみぎかたに「此嶺きり」「此澤きり」「松平まつだいら摂津せっつもりさまりょう」としるされている)。
  6. ^ 角川かどかわ新版しんぱん日本にっぽん辞典じてん』「近世きんせい大名だいみょう配置はいちひょう」(近世きんせい大名だいみょう一覧いちらんひょう)は、信濃しなの国内こくないはんちょう所在しょざいぐん不明ふめいの「松平まつだいら義行よしゆきりょう」として掲出けいしゅつする[9]長野ながのけん地方ちほう史家しか天竜川てんりゅうがわ治水ちすい研究けんきゅうしゃである松沢まつざわたけし論文ろんぶん(1986ねん)でも、高須たかす移転いてん以前いぜんの「はん」に特定とくてい地名ちめいさず、たんに「松平まつだいら義行よしゆきりょう」としている[10]
  7. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』の「新野あらたのむら(近世きんせい)」の項目こうもくでは「尾張おわりささえはんりょう」とする(ほかに「高取たかとりはん」の文字もじられる)[7]
  8. ^ 信州しんしゅうデジタルコモンズでの水内みずうちぐん更級さらしなぐん埴科はにしなぐん高井たかいぐん よんぐん絵図えずめん解説かいせつぶんでは「尾張おわりささえはん松平まつだいら義行よしゆきりょう」としるす。長野ながの公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう資料しりょう目録もくろくいちれいとして複製ふくせい資料しりょう 近世きんせい さ~せ)では近世きんせい史料しりょう伝来でんらい分類ぶんるいに「行政ぎょうせい区分くぶんりょう」をもうけており、「尾張おわりささえはん松平まつだいら義行よしゆきりょう」をもちいている。
  9. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』の「竹佐たけさむら(近世きんせい)」の項目こうもくでは、天和てんわ元年がんねん(1681ねん)より高須たかすはんりょうとする[1]
  10. ^ 赤丸あかまる本文ほんぶんないはんりょうとして言及げんきゅうする土地とちあおまるはそれ以外いがい
  11. ^ 義行よしゆきについての叙述じょじゅつで、光友みつとも尾張おわり藩主はんしゅであった時代じだい義行よしゆき将軍しょうぐん代替だいがわりのさい例外れいがいとして、単独たんどくでの参府さんぷおこなっていないとある[11]徳川とくがわ綱吉つなよし死去しきょ義行よしゆき高須たかすうつってからである。
  12. ^ 中世ちゅうせい末期まっき以来いらい片桐かたぎりりょう」とばれた地域ちいき[14]江戸えど時代じだい初頭しょとうには伊那いな街道かいどう片桐かたぎり宿やどふくめた「片桐かたぎりななそん」が成立せいりつした(総称そうしょうして「片桐かたぎりむら」とばれた)。寛文ひろふみ12ねん(1672ねん)に飯田いいだはんりょうから幕府ばくふりょううつされたさい片桐かたぎり陣屋じんや現在げんざい松川まつかわまち上片桐かみかたぎり)がもうけられ[15]のべたから5ねん(1677ねん)には伊那いな街道かいどう飯島いいじままち新設しんせつされた飯島いいじま陣屋じんやにその機能きのううつされた[16]
  13. ^ 元禄げんろく4ねん(1691ねん)に小笠原おがさわらさだしん越前えちぜん勝山かつやまはんうつったために幕府ばくふりょうになっていた[13]揖斐川いびがわ長良川ながらがわなどにかこまれた土地とちで、小笠原おがさわら水害すいがい対策たいさく苦闘くとうしたすえねが転出てんしゅつしたとされる[13]
  14. ^ 高井たかいぐんには大小だいしょうわたしりょうかれてそのおさむおおやけされた関係かんけいで、多数たすう陣屋じんやかれた[18]新野しんの陣屋じんやもそれらのひとつで、元禄げんろく16ねん(1703ねん時点じてんでは市川いちかわ孫右衛門まごえもんが5かしょ陣屋じんや支配しはい兼帯けんたいしていた[20]
  15. ^ 竹佐たけさむら近隣きんりん山本やまもとむら現在げんざい飯田いいだ山本やまもと)がある[25][26]。『せんきょく真砂まさご』によれば、山本やまもとむらはもともとおおきなさとであったために、近隣きんりんむらをもふくめて「山本やまもとむら」とぶのであろうとする[24]。なお、山本やまもとむら竹佐たけさむらなどは明治めいじ時代じだい合併がっぺいして「山本やまもとむら」を編成へんせいしている。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 竹佐たけさむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  2. ^ 松平まつだいら義行よしゆき”. デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus. 2023ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  3. ^ 高須たかすはん”. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ). 2023ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  4. ^ 尾張おわりはん(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  5. ^ 高須たかすはん(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c d e f 岸野きしの俊彦としひこ 2014, p. 427.
  7. ^ a b c d 新野あらたのむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c d e せんきょく真砂まさごまきじゅう信州しんしゅう高取たかとり城有しろありこれせつ」、国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション所蔵しょぞう明治めいじ刊本かんぽん当該とうがい箇所かしょ
  9. ^ 角川かどかわ新版しんぱん日本にっぽん辞典じてん, p. 1307.
  10. ^ 松沢まつざわたけし 1986, p. 38.
  11. ^ a b c d e f g h i 藤田ふじた英昭ひであき. “みずりゅうこう実録じつろく』を”. 八木はちぼく書店しょてんグループ. 2023ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  12. ^ 松沢まつざわたけし 1986, p. 8.
  13. ^ a b c d e f g h 松沢まつざわたけし 1986, p. 9.
  14. ^ 片桐かたぎりりょう(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  15. ^ 片桐かたぎりむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  16. ^ 飯島いいじままち(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん1がつ18にち閲覧えつらん
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  18. ^ a b c 西沢にしざわ淳男あつお 1988, p. 124.
  19. ^ 西沢にしざわ淳男あつお 1988, p. 125.
  20. ^ 西沢にしざわ淳男あつお 1988, p. 127.
  21. ^ a b 松沢まつざわたけし 1986, p. 6.
  22. ^ 高屋たかや (2020506017)”. 農業のうぎょう集落しゅうらく境界きょうかいデータセット. 2023ねん1がつ19にち閲覧えつらん
  23. ^ 松沢まつざわたけし 1986, p. 39.
  24. ^ a b せんきょく真砂まさごまきろく山本やまもと役所やくしょ」、国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション所蔵しょぞう明治めいじ刊本かんぽん当該とうがい箇所かしょ
  25. ^ 山本やまもとむら(近世きんせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん1がつ18にち閲覧えつらん
  26. ^ 山本やまもときょう(中世ちゅうせい)”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん. 2023ねん1がつ18にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 角川かどかわ新版しんぱん日本にっぽん辞典じてん角川かどかわ学芸がくげい出版しゅっぱん、1996ねん 
  • 岸野きしの俊彦としひこ尾張おわりはんじゅうよんだい藩主はんしゅ徳川とくがわ慶勝よしかつ初期しょきはんない権力けんりょく」『名古屋芸術大学なごやげいじゅつだいがく研究けんきゅう紀要きようだい35ごう、2014ねんhttp://www.nua.ac.jp/research/files/pdf/440103178a5720836fb3ffdeffe49259.pdf 
  • 松沢まつざわたけし伊久間いくまさきける天竜川てんりゅうがわ変遷へんせん建設省けんせつしょう中部ちゅうぶ地方ちほう建設けんせつきょく天竜川てんりゅうがわ上流じょうりゅう工事こうじ事務所じむしょ、1986ねんNCID BN12231571http://www.nua.ac.jp/research/files/pdf/440103178a5720836fb3ffdeffe49259.pdf 
  • 西沢にしざわ淳男あつお「<研究けんきゅうノート>近世きんせい信濃しなのにおける天領てんりょう支配しはいについて : 坂木さかき中之条なかのじょう陣屋じんや中心ちゅうしんとして」『法政ほうせい史学しがくだい40ごう、1988ねんdoi:10.15002/00011019