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高山たかやま輝義てるよし

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高山たかやま 輝義てるよしたかやま てるよし
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 1901 - 1931
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん少将しょうしょう
除隊じょたい 若松わかまつ市長しちょう
ややまつかい理事りじ[1]
テンプレートを表示ひょうじ

高山たかやま 輝義てるよし(たかやま てるよし、1879ねん明治めいじ12ねん10月4にち - 没年ぼつねんしょう)は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん政治せいじ最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん少将しょうしょうだい16だい若松わかまつちょう

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

福島ふくしまけん出身しゅっしん会津あいづ中学ちゅうがく(4回生かいせい)を陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう卒業そつぎょう(12)。同期生どうきせいはた俊六しゅんろく杉山すぎやまはじめりょう元帥げんすい小磯こいそ国昭くにあきらがいる。1901ねん明治めいじ34ねん)6がつ歩兵ほへい少尉しょうい任官にんかん歩兵ほへいだい65連隊れんたい中隊ちゅうたいちょうどう連隊れんたい副官ふっかん近衛このえあゆみへいだい2連隊れんたい大隊だいたいちょうなどをて、1928ねん昭和しょうわ3ねん)には歩兵ほへいだい79連隊れんたい連隊れんたいちょう就任しゅうにん同職どうしょくを3ねんつとめた。1931ねん昭和しょうわ6ねん)8がつ1にち少将しょうしょうすすみ、同月どうげつ予備よびやく編入へんにゅうとなる。1942ねん昭和しょうわ17ねん)には若松わかまつ市長しちょう就任しゅうにんし、戦前せんぜん最後さいご市長しちょうとなった。

1944ねん昭和しょうわ19ねん)、会津あいづ松平まつへい当主とうしゅ松平まつだいら保男やすお急逝きゅうせいさいし、旧領きゅうりょう代表だいひょうとして葬儀そうぎ参列さんれつしたが、会津あいづ地方ちほうからは多数たすう参列さんれつしゃ物品ぶっぴん持参じさんして上京じょうきょうした。高山こうざん松平まつだいら養女ようじょ秩父宮ちちぶのみや勢津子せつことついだ秩父宮ちちぶのみや事務じむかんから、昭和しょうわ天皇てんのう交通こうつう事情じじょう悪化あっか物資ぶっし不足ふそくおり多数たすう参列さんれつしゃがあったことをき、謝意しゃいをもらしたとげられ感激かんげきしていた[2]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ややまつかい名簿めいぼ』1937ねん12月
  2. ^ 会津あいづ史談しだん会報かいほう だい24ごう高山たかやま輝義てるよし松平まつだいら子爵ししゃくかく葬儀そうぎ参列さんれつして」。
  3. ^ 官報かんぽうだい5484ごう叙任じょにん及辞れい」1901ねん10がつ11にち
  4. ^ 官報かんぽうだい8185ごう叙任じょにん及辞れい」1910ねん10がつ1にち
  5. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 会津あいづ史談しだんかいへん会津あいづ史談しだん 創刊そうかんごう-だい24ごう会津あいづ史談しだん復刻ふっこく刊行かんこうかい
  1. 会津あいづ史談しだん会報かいほう だい24ごう
  • 外山とやまみさおへん陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 陸軍りくぐんへん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん
  • 福川ふくかわ秀樹ひでき日本にっぽん陸海りくかい軍人ぐんじんめい辞典じてん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん