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高橋たかはし房次ふさじ

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高橋たかはし 房次ふさじ(たかはし ふさじ、1882ねん12月18にち[1] - 1960ねん6月29にち[2])は、日本にっぽん医師いし高木たかぎけんひろしの「病気びょうきずして病人びょうにんよ」の言葉ことば感銘かんめいけ、北海道ほっかいどう白老しらおいまち地域ちいき医療いりょう貢献こうけんした。アイヌ和人わじん差別さべつせず、まずしいものからは治療ちりょうだいもとらなかった。患者かんじゃ往診おうしん依頼いらいがあれば大雪おおゆき吹雪ふぶきなかでも深夜しんやでも絶対ぜったいことわらなかった。自身じしんしょうおくられることについては信条しんじょうはんすることであった。「コタンあかひげ」とか「コタンのシュバイツァー」ともばれる。白老しらおい小学校しょうがっこう胸像きょうぞうてられた。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

栃木とちぎけん下都賀しもつがぐん間々田ままだむらげん小山おやままれ[1]間々田ままだ尋常じんじょう小学校しょうがっこう栃木とちぎ県立けんりつ中学校ちゅうがっこうすみせい学舎がくしゃまなぶ。1903ねん医師いし国家こっか試験しけん合格ごうかくにち戦争せんそうでは従軍じゅうぐんとして召集しょうしゅうされた。警視庁けいしちょう検疫けんえき委員いいん検視けんしかん)の仕事しごとくが2ねんほどでめた。1907ねん小樽おたる医院いいん研修けんしゅうとしてせきく。ぼう26さいとき結婚けっこん。1909ねん青森あおもりけん田名部たなぶまちげんむつ)の町立ちょうりつ田名部たなぶ病院びょういんげん・むつ総合そうごう病院びょういん)に研修けんしゅうとして勤務きんむ。1915ねん日高ひだかこく高江たかえむらげん新冠にいかっぷまち)で開業かいぎょう。1920ねん石狩いしかり地方ちほう広島ひろしまむら輪厚わあつ開業かいぎょう。1922ねん北海道庁ほっかいどうちょうりつ白老しらおい病院びょういん院長いんちょうむかえられた。1937ねん北海道庁ほっかいどうちょうりつ白老しらおい病院びょういん閉鎖へいさされたが地元じもとひとたちの協力きょうりょく高橋たかはし医院いいんとしてさい出発しゅっぱつした。

受賞じゅしょうれき[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 「いのちのしずく」20ぺーじ
  2. ^ 「いのちのしずく」127ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]