1993ねんカナダそう選挙せんきょ

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1993ねんカナダ連邦れんぽうそう選挙せんきょ
1993 Canadian federal election
カナダ
1988ねん ←
1993ねん10がつ25にち (1993-10-25)
→ 1997ねん

内閣ないかく キャンベル内閣ないかく
解散かいさん 任期にんき満了まんりょう
改選かいせんすう 295
選挙せんきょ制度せいど 単純たんじゅんしょう選挙せんきょせい
有権者ゆうけんしゃ まん18さい以上いじょうのカナダ国民こくみん
有権者ゆうけんしゃすう 19,906,796
選挙せんきょ党派とうはべつ勢力せいりょく

投票とうひょうりつ 70.9%[1] (減少4.4%)
  だい1とう だい2とう だい3とう
 
党首とうしゅ ジャン・クレティエン ルシアン・ブシャール プレストン・マニング
政党せいとう カナダ自由党じゆうとう ブロック・ケベコワ カナダ改革かいかくとう
党首とうしゅ就任しゅうにん 1990ねん6がつ23にち 1990ねん7がつ25にち 1987ねん11月1にち
党首とうしゅ選挙せんきょ サン=モーリス サン・ジャン サウスウェスト・カルガリー
前回ぜんかい選挙せんきょ 83 新党しんとう 0
選挙せんきょぜん議席ぎせき 81 10 1
獲得かくとく議席ぎせき 177 54 52
議席ぎせき増減ぞうげん 増加96 増加44 増加51
得票とくひょうすう 5,647,952 1,846,024 2,559,245
得票とくひょうりつ 41.24% 13.52% 18.69%
得票とくひょうりつ増減ぞうげん 増加9.32% 新党しんとう 増加16.59%

  だい4とう だい5とう
 
党首とうしゅ オードリー・マクラフリン キム・キャンベル
政党せいとう しん民主党みんしゅとう カナダ進歩しんぽ保守党ほしゅとう
党首とうしゅ就任しゅうにん 1989ねん12月5にち 1993ねん6がつ13にち
党首とうしゅ選挙せんきょ ユーコン バンクーバーセンター
前回ぜんかい選挙せんきょ 43 169
選挙せんきょぜん議席ぎせき 44 156
獲得かくとく議席ぎせき 9 2
議席ぎせき増減ぞうげん 減少35 減少154
得票とくひょうすう 939,575 2,186,422
得票とくひょうりつ 6.88% 16.04%
得票とくひょうりつ増減ぞうげん 減少13.50% 減少26.97%

しゅうじゅんしゅうべつ選挙せんきょ結果けっか

選挙せんきょまえ首相しゅしょう

キム・キャンベル
カナダ進歩しんぽ保守党ほしゅとう

選出せんしゅつ首相しゅしょう

ジャン・クレティエン
カナダ自由党じゆうとう

1993ねんカナダ連邦れんぽうそう選挙せんきょ(1993ねんカナダれんぽうそうせんきょ、英語えいご: 1993 Canadian federal election)は、1993ねん10月25にちカナダおこなわれた議会ぎかい庶民しょみんいん議員ぎいんだい35)のそう選挙せんきょである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

きょでは下院かいんの295議席ぎせきを14の政党せいとうあらそった。これはカナダ史上しじょうもっと波乱はらんんだ選挙せんきょであり、有権者ゆうけんしゃ半分はんぶん支持しじ政党せいとうを1988ねんカナダ連邦れんぽう選挙せんきょから変更へんこうした。結果けっかクレティエンひきいる自由党じゆうとう下院かいん圧倒的あっとうてき多数たすうにし、つぎのカナダ政府せいふ形成けいせいした。この選挙せんきょカナダ進歩しんぽ保守党ほしゅとうは、1988ねんからひょう半分はんぶん以上いじょううしない、156議席ぎせきのうち2議席ぎせきのぞすべての議席ぎせき喪失そうしつした。これはカナダの連邦れんぽうレベルで、また西欧せいおう諸国しょこく与党よとう政権せいけんとして最悪さいあく敗北はいぼくであった。

この選挙せんきょでは2つの新党しんとうが、おもにカナダ進歩しんぽ保守党ほしゅとう支持しじしゃなかから登場とうじょうした[2]主権しゅけん主義しゅぎしゃブロック・ケベコワケベックしゅう過半かはんひょう獲得かくとく勝利しょうり公式こうしき野党やとうとなった。カナダ改革かいかくとうは、マニトバしゅうよりもひがしで1議席ぎせきしか獲得かくとくしなかったものの、一般いっぱんてきなほぼおなすう議席ぎせき獲得かくとくし、下院かいん主要しゅよう右翼うよく政党せいとうとして進歩しんぽ保守党ほしゅとうにとってかわった。

伝統でんとうてきだいさんとうであるしん民主党みんしゅとう前回ぜんかい健闘けんとうから一転いってん、9議席ぎせきまで議席ぎせきすうらした[3]。この選挙せんきょしん民主党みんしゅとう史上しじょう唯一ゆいいつの100まんひょうった最悪さいあく結果けっかとなっている。

庶民しょみんいん議員ぎいん任期にんき満了まんりょうともなって実施じっしされた選挙せんきょである。選挙せんきょでは6がつまで9ねんあま首相しゅしょうつとめていたブライアン・マルルーニーカナダ進歩しんぽ保守党ほしゅとう以下いか進歩しんぽ保守党ほしゅとう」)の政権せいけん運営うんえいたいする評価ひょうか年額ねんがく350おくドルにものぼ財政ざいせい赤字あかじ解消かいしょうや、11%をえるこう失業しつぎょうりつをどう改善かいぜんするかがおも争点そうてんとなった。選挙せんきょ直前ちょくぜん世論せろん調査ちょうさでは与党よとう進歩しんぽ保守党ほしゅとう支持しじりつは17%であり、野党やとうカナダ自由党じゆうとう以下いか自由党じゆうとう)の43%にくらおおきなおくれをっていた[4]選挙せんきょ結果けっか自由党じゆうとうが295議席ぎせきちゅう178議席ぎせき獲得かくとくして圧勝あっしょう政権せいけんを9ねんぶりに奪還だっかんした。一方いっぽう進歩しんぽ保守党ほしゅとう解散かいさんまえの155議席ぎせきをわずか2議席ぎせきまで激減げきげん、6がつ就任しゅうにんしたばかりのキャンベル首相しゅしょう自身じしん落選らくせんした。まただいさん全国ぜんこく政党せいとうであり、これまでだい政党せいとう不満ふまん有権者ゆうけんしゃざらとなってきたしん民主党みんしゅとう議席ぎせき激減げきげんさせた。ケベックしゅう分離ぶんり独立どくりつ党是とうぜとするブロック・ケベコワ西部せいぶ地域ちいき地盤じばんとする新党しんとうであるカナダ改革かいかくとう以下いか改革かいかくとう)はおおきく躍進やくしんし、だいだいさんとう地位ちい地域ちいき政党せいとうめることとなった。従来じゅうらいだい政党せいとうせい崩壊ほうかい地域ちいき政党せいとう台頭たいとうするという、カナダ政界せいかい構図こうずおおきくえた選挙せんきょとなった[5]。なおマニトバしゅうから立候補りっこうほした日系にっけいカナダじんアーサー・ミキ自由党じゆうとう)が当選とうせんし、カナダ史上しじょうはつ日系にっけい庶民しょみんいん議員ぎいん誕生たんじょうした[6]

選挙せんきょデータ[編集へんしゅう]

内閣ないかく[編集へんしゅう]

投票とうひょう[編集へんしゅう]

  • 1993ねん10がつ25にち (1993-10-25)

改選かいせんすう[編集へんしゅう]

  • 295

選挙せんきょ制度せいど[編集へんしゅう]

投票とうひょう方法ほうほう[編集へんしゅう]

選挙せんきょけん被選挙権ひせんきょけん[編集へんしゅう]

  • 18さい以上いじょうのカナダ国民こくみん

有権者ゆうけんしゃすう[編集へんしゅう]

  • 19,906,796

背景はいけい[編集へんしゅう]

マルルーニー政権せいけん[編集へんしゅう]

1984ねんブライアン・マルルーニーカナダ進歩しんぽ保守党ほしゅとうひきいてカナダ史上しじょう最大さいだい多数たすう政権せいけん樹立じゅりつし、すべてのしゅう過半数かはんすう議席ぎせき獲得かくとくした。カナダ進歩しんぽ保守党ほしゅとう政権せいけんった1984ねん当時とうじ、カナダの連邦れんぽう政府せいふ赤字あかじは345おくドルにたっしており、この削減さくげん公約こうやくかかげていた。しかし、1993ねんまでにこれは400おくドル以上いじょうふくがっており、また、カナダ連邦れんぽう債務さいむ政府せいふ債務さいむは5,000おくドルにまでみあがっていた[7]財政ざいせい健全けんぜん方策ほうさくとしてマルルーニーがおこなったのは増税ぞうぜいであった。民意みんいつよ反対はんたいけながら1999ねん消費しょうひぜい設定せっていした。[8]

マルルーニー退陣たいじんとキャンベル政権せいけん[編集へんしゅう]

これらの要因よういんによってマルルーニーは1940年代ねんだいからはじまった世論せろん調査ちょうさもっと人気にんきのない指導しどうしゃとなった[9]。 これにより1991ねん進歩しんぽ保守党ほしゅとう支持しじりつは15%だいまで低下ていかした[10]法務大臣ほうむだいじんであったキム・キャンベル後継こうけいしゃとして首相しゅしょうとなった。キャンベルは就任しゅうにんからの短期間たんきかんたか人気にんきほこり、それは1960年代ねんだい後半こうはんピエール・トルドーたいするトルドーマニアをもじった「キャンベルマニア」という言葉ことばまれるほどであった[11]

この時期じき伝統でんとうてき政党せいとう上手うまくいってはいなかった。 自由党じゆうとう内部ないぶ無秩序むちつじょ破産はさんしかけており支持しじりつも50%から32%まで低下ていかさせていた。そのためクレティエンはジーン・ペルティエを参謀さんぼうちょう起用きようし、とう再編さいへんするためにかれ指導しどうりょくもちいた[12]

選挙せんきょ運動うんどう[編集へんしゅう]

選挙せんきょ期間きかんちゅう実施じっしした世論せろん調査ちょうさ結果けっか推移すいい

選挙せんきょ運動うんどう開始かいしまえ[編集へんしゅう]

選挙せんきょ国会こっかい任期にんきが9月にれるため、1993ねんあき必要ひつようられ招集しょうしゅうされた。そのとし晩夏ばんか時点じてんで、キャンベルはクレティエンにたいして人気にんき上回うわまわっていた[13]

カナダ自由党じゆうとう[編集へんしゅう]

選挙せんきょ期間きかんちゅうもちいられたカナダ自由党じゆうとうのロゴ

カナダ自由党じゆうとうは9月19にちに、ながあいだ構想こうそうしてきたキャンペーンを発表はっぴょうし、メディアはそれにRed Bookと名付なづけた。これはカナダ自由党じゆうとう与党よとうとなったさいなにをするのかについてがしるされた文書ぶんしょであった。これはカナダの政党せいとうには前例ぜんれいのないこころみで、すうねん歳月さいげつついやされたものだった[14]。カナダ自由党じゆうとう方針ほうしん一貫いっかんしており、組織そしきせいをもっておこなわれており、これは進歩しんぽ保守党ほしゅとうの、『グローブ・アンド・メール』が現代げんだい政治せいじなかもっと無能むのうなキャンペーンとんだものとは対照たいしょうてきなものであった[15]

ブロック・ケベコワ[編集へんしゅう]

カナダ改革かいかくとう[編集へんしゅう]

カナダ改革かいかくとうは、西部せいぶオンタリオしゅうおおくにだい規模きぼくさネットワークを構築こうちくした。改革かいかくとう資金しきん資源しげんとぼしかったので、エコノミークラス客席きゃくせきったり、やすホテルにまったり、弁当べんとうつくったりして、その姿勢しせいがおかねきびしい財政ざいせい緊縮きんしゅく人々ひとびとから支持しじされるようになった[16]選挙せんきょ活動かつどうは リック・アンダーソンという熟練じゅくれん専門せんもんによってマネジメントされた。改革かいかく党内とうないではもとカナダ自由党じゆうとうでオタワ出身しゅっしんかれ起用きようすることについて反対はんたいする意見いけんもあったが、かれたか能力のうりょく証明しょうめいすることで早期そうきにそれを解決かいけつした[17]

改革かいかくは、トロント地域ちいきのジョン・ベックがヨーク大学だいがく学生がくせい『エクスカリバー』のインタビューではん移民いみんてき発言はつげん連発れんぱつしたことで、論争ろんそうまれた。ヨーク大学だいがく学生がくせいたちはこの発言はつげんをマニングにきつけ、マニングはすぐにそれを糾弾きゅうだんした。1時間じかん以内いないにベックは立候補りっこうほげることを余儀よぎなくされた[18]

しん民主党みんしゅとう[編集へんしゅう]

選挙せんきょ期間きかんちゅうもちいられた連邦れんぽうしん民主党みんしゅとうのロゴ

進歩しんぽ保守党ほしゅとう[編集へんしゅう]

進歩しんぽ保守党ほしゅとう選挙せんきょキャンペーンは会長かいちょうのジョン・トーリーとチーフストラテジストのアーラン・グレッグ、マルルーニの側近そっきん2めいによってひきいられた。これは資金しきんめんではもっと豊富ほうふだったが、すぐに組織そしきてき問題もんだい直面ちょくめんした。地方ちほうけキャンペーンようのパンフレットをとう作成さくせいできず、かく候補者こうほしゃ自費じひ印刷いんさつ強要きょうようした結果けっかとうとしてのメッセージの一貫いっかんせいたもてなくなったことである[19]

クレティエン広告こうこく[編集へんしゅう]

10がつまで、進歩しんぽ保守党ほしゅとう支持しじりつ世論せろん調査ちょうさ自由党じゆうとうにかなりおとっていた。かれらはこの方法ほうほう以外いがいでは自由党じゆうとう優位ゆうい確保かくほできないとしんじ、グレッグとカナダ保守党ほしゅとうはクレティエンはたきシリーズとばれる広告こうこくげた。この広告こうこく制作せいさくしゃたちは「もしかれがカナダの首相しゅしょうになったら、とてもずかしい」というニュアンスの広告こうこくかれ政策せいさく倫理りんりについて意味いみするものであったと説明せつめいしたが、かれかおベル麻痺まひ強調きょうちょうしていたことから、おおくの人々ひとびとはこれはクレティエンの外観がいかんへの侮蔑ぶべつだと認識にんしきした。この広告こうこくはロメオ・ルブランひきいるリベラルの選挙せんきょ対策たいさく本部ほんぶがすぐにメディアに連絡れんらくするなど、即座そくざひろ認知にんちされた。これは進歩しんぽ保守党ほしゅとう候補こうほふくかく方面ほうめんからのはげしい反発はんぱつこし、キャンベルは放送ほうそう中止ちゅうしめいじた[20]

クレティエンはこの広告こうこくたいし、「子供こどもころ人々ひとびとによくわらわれましたが、わたしかみからひととはべつ資産しさんあたえられたのです。わたしはとても幸福こうふくです[21]」と、対戦たいせん相手あいていとして少年しょうねん時代じだいかれをからかった子供こどもたちして状況じょうきょう有利ゆうりにし、支持しじりつ急上昇きゅうじょうしょうさせ進歩しんぽ保守党ほしゅとうかれたいする唯一ゆいいつ優位ゆうい無効むこうにした。[20]。クレティエン自身じしんかれ半身不随はんしんふずいかお選挙せんきょ運動うんどう利用りようしていたのではないのかという指摘してき存在そんざいする。 ケベックしゅうでの自由党じゆうとう選挙せんきょポスターには、"Strange-looking face, but reflect on what's inside."(へんかおですが、中身なかみかえりみてください)との文言もんごんがあり、ほとんどの新聞しんぶん雑誌ざっし広告こうこくではたような写真しゃしんかれ特徴とくちょうてきかお積極せっきょくてきしだしていた[20]

焦点しょうてん[編集へんしゅう]

1993ねん選挙せんきょ最大さいだい論点ろんてん経済けいざい対策たいさくであった[22]。 1988ねん選挙せんきょでの論点ろんてんはアメリカとのべい自由じゆう貿易ぼうえき協定きょうていであったが、1993ねん選挙せんきょ以前いぜんから北米ほくべい自由じゆう貿易ぼうえき協定きょうてい合意ごういがあった。[23]

改革かいかくとう移民いみん削減さくげん多言たげん主義しゅぎ後退こうたい提唱ていしょうしていた[10]

選挙せんきょ結果けっか[編集へんしゅう]

この選挙せんきょ進歩しんぽ保守党ほしゅとうにとって大敗たいはいわった。かれらはリベラルにとっての過去かこ最悪さいあくであった1984ねんの95議席ぎせき喪失そうしつ上回うわまわる、156議席ぎせきのうちの2つをのぞいたすべてをうしなうという大敗たいはいきっした。この損害そんがいうしなわれた議席ぎせき絶対ぜったいすうにおいてもパーセンテージにおいても、カナダの与党よとう政権せいけんのみならずウェストミンスターシステム政権せいけん政党せいとうにとって過去かこ最悪さいあく記録きろくとなった。 また、圧倒的あっとうてき安定あんてい政権せいけん一気いっき一掃いっそうされた、世界せかいでのめずらしいれいひとつとなった。マルルーニーの以前いぜん選挙せんきょであったケベック東部とうぶのシャルルヴォワは地滑じすべりでブロック・ケベコワ候補こうほのジェラール・アセリンにやぶれた。カナダ保守党ほしゅとう候補こうほはたった6,800ひょうしかられなかったうえに、これによって供託きょうたくきんうしな危機ききおちいった[24]

キャンベルは選挙せんきょであったバンクーバー自由党じゆうとう新人しんじんヘディ・フライに奪取だっしゅされた[3]首相しゅしょう落選らくせん選挙せんきょでの敗北はいぼく同時どうじこったことは、これをふくめカナダの歴史れきしじょう3しかこっていないことである。 前例ぜんれいとしてはアーサー・ミーエンに、1921ねんカナダ連邦れんぽう選挙せんきょ、1926ねんカナダ連邦れんぽう選挙せんきょきていた。

自由党じゆうとうはこの選挙せんきょで177議席ぎせき獲得かくとくした。これは190議席ぎせき記録きろくした1949ねん以降いこうとう史上しじょう3番目ばんめ戦績せんせきであった。これにより、下院かいん圧倒的あっとうてき多数たすう獲得かくとくした。

ブロック・ケベコワは54議席ぎせき獲得かくとくした、ケベックしゅうでの半数はんすう以下いかひょう獲得かくとくし、フランス語ふらんすごけん選挙せんきょ席捲せっけんした。

改革かいかくとうだい躍進やくしんげ、西部せいぶではそれまでの進歩しんぽ保守党ほしゅとう支持しじのかなりの部分ぶぶん獲得かくとくした。ブロック・ケベコワは公式こうしき野党やとうであったが、ケベックしゅう以外いがい問題もんだいについては、進歩しんぽ保守党ほしゅとう改革かいかく主要しゅよう野党やとうなしていた。 また、1995ねんには、ブロック・ケベコワのリーダーであったルシアン・ブシャールはアメリカ大統領だいとうりょうビル・クリントンへの面会めんかい許可きょかされた。改革かいかくとう党首とうしゅのプレストン・マニングもまたブシャールの分離ぶんり主義しゅぎてき影響えいきょうりょくやわらげるためにビル・クリントンとの面会めんかい許可きょかされていた[25]

しん民主党みんしゅとう主要しゅよう政党せいとうなかもっとすくない得票とくひょうとなり、獲得かくとく議席ぎせきすう正式せいしき政党せいとう要件ようけんに3議席ぎせきりない9議席ぎせきとなった。これは記録きろくされた成績せいせきなかでは1988ねんからのおおきな後退こうたいであった。当選とうせんした候補こうほおおくは政党せいとう伝統でんとうてき支持しじ地域ちいきであった西部せいぶハートランドで、おおきく分断ぶんだんされた選挙せんきょであった。平均へいきんして、当選とうせんしたしん民主党みんしゅとう議員ぎいん得票とくひょうりつは35.1%にぎなかった[26]

政党せいとうべつ獲得かくとく議席ぎせき[編集へんしゅう]

e • d  カナダの旗 1993ねんカナダ庶民しょみんいん議員ぎいんそう選挙せんきょ 1993ねん10月25にち施行しこう
党派とうは 獲得かくとく
議席ぎせき
増減ぞうげん 得票とくひょうすう 得票とくひょうりつ 解散かいさん
与党よとう 2 減少152 2,186,422 16.04% 154
カナダ進歩しんぽ保守党ほしゅとう 2 減少152 2,186,422 16.04% 154
野党やとう 293 増加156 11,481,249 83.96% 137
カナダ自由党じゆうとう 177 増加098 5,647,952 41.24% 79
ブロック・ケベコワ 54 増加044 1,846,024 13.52% 10
カナダ改革かいかくとう 52 増加051 2,559,245 18.69% 1
しん民主党みんしゅとう 9 減少035 939,575 6.88% 44
無所属むしょぞく 1 増加001 60,434 0.73% 3
カナダ国民党こくみんとう 0 増減なし 187,251 1.38% 0
カナダ自然しぜんほうとう 0 増減なし 84,743 0.63% 0
提携ていけいなし 0 増減なし 48,959 0.39% 0
カナダみどりとう 0 増減なし 32,979 0.24% 0
カナダキリスト教きりすときょう遺産いさんとう 0 増減なし 30,358 0.22% 0
カナダリバタリアンとう 0 増減なし 14,630 0.11% 0
カナダ奴隷どれい制度せいど廃止はいしとう 0 増減なし 9,141 0.77% 0
カナダとう 0 増減なし 7,506 0.06% 0
カナダ連邦れんぽうとう 0 増減なし 7,316 0.06% 0
カナダ共産党きょうさんとう 0 増減なし 5,136 0.04% 0
総計そうけい 295 増減なし 13,667,671 100.0% 295
有効ゆうこう票数ひょうすう有効ゆうこうりつ 13,667,671 %
無効むこう票数ひょうすう無効むこうりつ %
投票とうひょうしゃすう投票とうひょうりつ %
棄権きけんしゃすう棄権きけんりつ %
有権者ゆうけんしゃすう 100.0%
出典しゅってんVoter Turnout at Federal Elections and Referendums

しゅうべつ獲得かくとく議席ぎせき[編集へんしゅう]

しゅうじゅんしゅう 定数ていすう すすむ 与党よとうけい 自由じゆう ブケ 改革かいかく しんみん しょ 野党やとうけい 与党よとうけい
- 野党やとうけい
ブリティッシュコロンビアしゅう 32 0 0 6 0 24 2 0 32 減少032
アルバータしゅう 26 0 0 4 0 22 0 0 26 減少026
サスカチュワンしゅう 14 0 0 5 0 4 5 0 14 減少014
マニトバしゅう 14 0 0 12 0 1 1 0 14 減少014
オンタリオしゅう 99 0 0 98 0 1 0 0 99 減少099
ケベックしゅう 75 1 1 19 54 0 0 1 74 減少073
ニューブランズウィックしゅう 10 1 1 9 0 0 0 0 9 減少008
ノバスコシアしゅう 11 0 0 11 0 0 0 0 2 減少002
プリンスエドワードアイランドしゅう 4 0 0 4 0 0 0 0 11 減少011
ニューファンドランド・ラブラドールしゅう 7 0 0 7 0 0 0 0 7 減少007
ノースウエストじゅんしゅう 2 0 0 2 0 0 0 0 2 減少002
ユーコンじゅんしゅう 1 0 0 0 0 0 1 0 1 減少001
総計そうけい 295 2 2 177 54 52 9 1 293 減少291

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Pomfret, R.. “Voter Turnout at Federal Elections and Referendums”. Elections Canada. Elections Canada. 2014ねん1がつ11にち閲覧えつらん
  2. ^ Colby, Jordan (1997). Cognitive assimilation-contrast effects among partisan identifiers: An analysis of the 1993 Canadian national election (M.A. thesis) Wilfrid Laurier University
  3. ^ a b Linda Briskin; Mona Eliasson (25 October 1999). Women's Organizing and Public Policy in Canada and Sweden. McGill-Queen's Press - MQUP. p. 189. ISBN 978-0-7735-6789-4. https://books.google.com/books?id=jbRBNPfd6twC&pg=PA189 
  4. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん「カナダそう選挙せんきょ 自由党じゆうとう政権せいけん復帰ふっきか」1993ねん10がつ25にち朝刊ちょうかん7ぺーじ
  5. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん「カナダそう選挙せんきょ 多党たとうしん時代じだい幕開まくあけ」1993ねん10がつ27にち朝刊ちょうかん7ぺーじ
  6. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん日系にっけいじんはつ当選とうせん」1993ねん10がつ27にち朝刊ちょうかん7ぺーじ
  7. ^ Bliss 312.
  8. ^ が、カナダじんの80%はこれに反対はんたいしていたWoolstencroft 32.
  9. ^ Bliss 308.
  10. ^ a b Brooks 194.
  11. ^ Peter C. Newman, The Secret Mulroney Tapes: Unguarded Confessions of a Prime Minister. Random House Canada, 2005, p. 363.
  12. ^ Canada. “Jean Pelletier, 73”. The Globe and Mail. オリジナルの2009ねん1がつ21にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090121120133/http://www.theglobeandmail.com/servlet/story/RTGAM.20090110.wpelltier0110/BNStory/National/home 2010ねん4がつ20日はつか閲覧えつらん 
  13. ^ Woolstencroft 15.
  14. ^ Clarkson 36.
  15. ^ "Fill in the Blanks." グローブ・アンド・メール. September 25, 1993 pg. D6.
  16. ^ Ellis and Archer 67.
  17. ^ Ellis and Archer 69.
  18. ^ "Reform Candidate Quits." The Globe and Mail. October 14, 1993 pg. A6.
  19. ^ Woolstencroft 17.
  20. ^ a b c Gordon Donaldson, The Prime Ministers of Canada, (Toronto: Doubleday Canada Limited, 1997), p. 367.
  21. ^ Jamie Bradburn (2019ねん10がつ21にち). “How Jean Chrétien led the Liberals to an Ontario blowout in 1993” (英語えいご). TVO.org. 2020ねん11月22にち閲覧えつらん
  22. ^ Frizzell, Pammett, & Westell 2.
  23. ^ "2015 election campaign is eerily similar to the 1993 race". CBC News, Haydn Watters · Oct 08, 2015
  24. ^ 1993 Canadian Federal Election Results (Detail)”. Esm.ubc.ca. 2009ねん9がつ9にち閲覧えつらん
  25. ^ Warren Caragata in Ottawa with Carl Mollins in Washington (1995ねん3がつ6にち). “Clinton visits Chrétien”. The Canadian Encyclopedia. Maclean's. 2009ねん4がつ28にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん8がつ25にち閲覧えつらん
  26. ^ Whitehorn 52.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Elections Canada Online
  • Parliament of Canada
  • ブリタニカジャパンへん『ブリタニカ国際こくさい年鑑ねんかん 1994年版ねんばん』(ブリタニカジャパン)
  • Bliss, Michael. Right Honourable Men: The Descent of Canadian Politics from Macdonald to Mulroney. New York: HarperCollins, 1996.
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