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893愚連隊ぐれんたい

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893愚連隊ぐれんたい
監督かんとく 中島なかじま貞夫さだお
脚本きゃくほん 中島なかじま貞夫さだお
出演しゅつえんしゃ 松方まつかた弘樹ひろき
荒木あらき一郎いちろう
天知あまちしげる
広瀬ひろせ義宣よしのぶ
近藤こんどう正臣まさおみ
ケン・サンダース
高松たかまつ英郎ひでお
稲野いなの和子かずこ
宮園みやその純子じゅんこ
音楽おんがく 広瀬ひろせ健次郎けんじろう
撮影さつえい 赤塚あかつかしげる
配給はいきゅう 東映とうえい
公開こうかい 日本の旗 1966ねん5月15にち
上映じょうえい時間じかん 88ふん
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
つぎさく おとこ勝負しょうぶ
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893愚連隊ぐれんたい(やくざぐれんたい)は、1966ねん日本にっぽん映画えいが東映とうえい京都きょうと撮影さつえいしょ製作せいさく東映とうえい配給はいきゅう

概要がいよう[編集へんしゅう]

京都きょうと拠点きょてんとし、しろタクぬすみなどで生計せいけいてるわかいチンピラ3人組にんぐみが、本流ほんりゅうヤクザ圧力あつりょくされながらも奮闘ふんとうする様子ようすえがいている。京都きょうとまちちゅうをオールローケーションで、全編ぜんぺん許可きょかのゲリラ撮影さつえい敢行かんこうした[1]。クライマックスに松方まつかた弘樹ひろきつぶやく「ネチョネチョきとるこっちゃ」というめい台詞せりふかたぐさである[1][2]ほんさく荒木あらき一郎いちろうは、「映画えいが批評ひひょうしょう新人しんじんしょう」を受賞じゅしょう。また、中島なかじま貞夫さだお出世しゅっせさくであり[3]、この作品さくひんで「日本にっぽん映画えいが監督かんとく協会きょうかい新人しんじんしょう」などを受賞じゅしょうしている[4]

製作せいさく経緯けいい[編集へんしゅう]

企画きかく[編集へんしゅう]

中島なかじま貞夫さだお東映とうえい京都きょうと撮影さつえいしょ以下いか東映とうえい京都きょうと)で、ロケ整理せいりをする自称じしょう"愚連隊ぐれんたい"のおとこ興味きょうみ脚本きゃくほんいた[2][5]当時とうじ東映とうえい取締役とりしまりやくけん京都きょうと撮影さつえいしょ所長しょちょう岡田おかだしげる(のち、同社どうしゃ社長しゃちょう)としゅんふじひろししげるプロデューサーを中心ちゅうしん手掛てがけた任侠にんきょう路線ろせん本格ほんかくしていて、この素材そざいなら企画きかくとおやすいとかんがえ、岡田おかだ所長しょちょうほん企画きかく提出ていしゅつすると本読ほんよみのせきで、予想よそうどお愚連隊ぐれんたいはなし岡田おかだがピーンときて「けーッ!」と製作せいさくまった[1][4]。「オールロケでやらしてください」と提案ていあんすると「おお、そうせい。白黒しろくろやぞ。きむ製作せいさく)はあまりしゅっせん。1900まんえんきにやってい、これをオマエにまかせるから」と指示しじされた[1][2][5]岡田おかだ所長しょちょうは「時代じだいげきメッカ東映とうえい京都きょうとほんさくだいいちさく現代げんだいげき路線ろせんく」と発表はっぴょう[6]、「もちろん、時代じだいげきをやめるということではなく、これからは時代じだいげき現代げんだいげき区別くべつなくなんでもやらなければいけない」[6]時代じだいげきも、どんどん今日きょう感覚かんかくにマッチしたものをつくげていかなければのこされてしまう。わたしはかねがね、京都きょうと監督かんとく俳優はいゆうにそのことをつづけてきたが、やはり実際じっさいってみなければからないから」と[7]ほんさく『893愚連隊ぐれんたい』を皮切かわきりに、渡辺わたなべ祐介ゆうすけ監督かんとくで『悪童あくどう』、神戸こうべ舞台ぶたいにした『よごれたかお紳士しんし日本にっぽん暗黒あんこくがい』(『日本にっぽん暗黒あんこくがい』)、『みずうみきん』のよんほん東映とうえい京都きょうと現代げんだいげきとして製作せいさくめた[7]東映とうえい京都きょうとでの現代げんだいげきは『悪魔あくまきたりてふえ』(松田まつだ定次さだじ監督かんとく、1954ねん以来いらい12ねんぶりであった[1]東映とうえい京都きょうと改革かいかくすすめる岡田おかだは、中島なかじまをその『隊長たいちょう』として期待きたいしていた[8]

キャスティング[編集へんしゅう]

中島なかじまは「現代げんだいげきのノウハウは東映とうえい京都きょうと全然ぜんぜんないため、若手わかてだけでやらせてしい」と要望ようぼう松方まつかた弘樹ひろき岡田おかだからのみだが[4]主要しゅようキャストは中島なかじまめた[4]荒木あらき一郎いちろうひとから紹介しょうかいされ、近藤こんどう正臣まさおみは1966ねん今村いまむら昌平しょうへい監督かんとくエロごとたちより 人類じんるいがく入門にゅうもん』をり、広瀬ひろせ義宣よしのぶ大部屋おおべや俳優はいゆうだが簡単かんたんオーディションをしてめた[4][9]

撮影さつえい[編集へんしゅう]

当時とうじ富士写真ふじしゃしんフイルムから、ASA200というこう感度かんどフィルム発売はつばいされ、くらいところでもライターだけでかおうつるか、などテストを使用しよう[9]。またドイツせいのサイレントARRIというカメラを使つか京都きょうとえき構内こうないなど全部ぜんぶぬすり(ゲリラ撮影さつえい)した[1]。あとから製作せいさくあやまってまわった[1][9]使用しようしたカメラはシンクロがほとんどできず、かくりしてアフレコおこなった[9]撮影さつえいしょ所内しょない撮影さつえいにはじめて使用しようした。撮影さつえいしょ本館ほんかん部屋へや病室びょうしつにして、むかいのむね屋上おくじょうから撮影さつえいした。中島なかじまは「こういうのは全部ぜんぶおれたちがはじめたとはなしている[1]

タイトル[編集へんしゅう]

最初さいしょ岡田おかだ所長しょちょうまえでの本読ほんよみで、「タイトルは"はちきゅうさん愚連隊ぐれんたい"でいけ、いいな」と"はちきゅうさん愚連隊ぐれんたい"という文字もじをそのねんしされ、「はい」とこたえたが、いまさら"はちきゅうさん"じゃのうがないし、愚連隊ぐれんたいだんじてやくざじゃない、"ハチ・キュー・サン"のほう語呂ごろもいいと印刷いんさつに"893愚連隊ぐれんたい"といてとどけた[4][2]中島なかじま自身じしんは、"はちきゅうさんぐれんたい"とんでいるという[4]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

興行こうぎょうてきにはるわなかったが[4]半年はんとしいちねん大学だいがくうつとぎやプロ仲間なかまから評価ひょうかがり、中島なかじまが「日本にっぽん映画えいが監督かんとく協会きょうかい新人しんじんしょう」、「日本にっぽん映画えいが記者きしゃかい特別とくべつしょう」、荒木あらき一郎いちろうが「映画えいが批評ひひょうしょう新人しんじんしょう」を受賞じゅしょうした[4]
無意識むいしきの「ヌーヴェルヴァーグ」ともしょうされ、全編ぜんぺんながれる広瀬ひろせ健次郎けんじろうコンボジャズ赤塚あかつかしげるのシャープなモノクロ映像えいぞう洋服ようふく美術びじゅつ全体ぜんたいにオシャレで当時とうじ東映とうえい映画えいがとしては相当そうとうカッティング・エッジ部類ぶるいはいるともひょうされる[3]ゴダール影響えいきょうをいわれるが、中島なかじま自身じしんはゴダールなどヌーヴェルヴァーグはそれまでたことがなかったとはなしている[9]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

スタッフ[編集へんしゅう]

出演しゅつえん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h わたし東映とうえい』 x 中島なかじま貞夫さだお監督かんとくだい2かいぜん5かい
  2. ^ a b c d #スリット、102-108ぺーじ
  3. ^ a b #Hotwax、19ぺーじ
  4. ^ a b c d e f g h i j #ゆうげき、74-81ぺーじ
  5. ^ a b  岡田おかだしげる追悼ついとう上映じょうえい『あゝ同期どうきさくら中島なかじま貞夫さだおトークショー(だいかいぜんかい
  6. ^ a b 「スタジオ速報そくほう 東映とうえい京都きょうとはつ現代げんだいげき路線ろせん だいいちさくは(893愚連隊ぐれんたい)」『近代きんだい映画えいが』1966ねん6がつごう近代映画社きんだいえいがしゃ、213ぺーじ 
  7. ^ a b 時代じだいげき一方いっぽう ちかごろの京都きょうと撮影さつえいしょ 現代げんだいげき方向ほうこう転換てんかん?”. 読売新聞よみうりしんぶん夕刊ゆうかん (読売新聞社よみうりしんぶんしゃ): p. 12. (1966ねん7がつ6にち) 
  8. ^ 好奇心こうきしんまかせ40ねん 時代じだいげき、ヤクザ映画えいが中島なかじま貞夫さだお監督かんとく大阪おおさか】”. 朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ): p. 2. (2004ねん10がつ28にち) 
  9. ^ a b c d e #Hotwax、48-59ぺーじ
  10. ^ #Hotwax、14ぺーじ
  11. ^ a b #Hotwax、28-32ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]