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HAYATE

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
HAYATE
ジャンル F1少年しょうねん漫画まんが
漫画まんが
作者さくしゃ ふうわらわじゅん
出版しゅっぱんしゃ 講談社こうだんしゃ
掲載けいさい 月刊げっかん少年しょうねんマガジンマガジンGREAT
レーベル 講談社こうだんしゃコミックス少年しょうねんマガジン
発表はっぴょう期間きかん 1992ねん7がつごう - マガジンGREAT1997ねん3がつごう
巻数かんすう 12かん
はなしすう 43
テンプレート - ノート

HAYATE』(はやて)は、ふうわらわじゅんによる日本にっぽん漫画まんが作品さくひんフォーミュラ1題材だいざいとしたモータースポーツ漫画まんが

月刊げっかん少年しょうねんマガジン』(講談社こうだんしゃ誌上しじょうにおいて、1992ねん3がつごうから連載れんさい開始かいし。その連載れんさいを『マガジンGREAT』(どう)へうつして、1997ねん7がつごうまで連載れんさいされた。ぜん43単行本たんこうぼんぜん12かん

概要がいよう

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ふうわらわ連載れんさいデビュー作品さくひん。これまでいちもレースを完走かんそうしたこと弱小じゃくしょうチーム「レラ」と、そのまえあらわれた天才てんさいドライバー「日向ひゅうが俊郎としお」がともにF1世界せかい選手権せんしゅけん頂点ちょうてんへとのぼめていくまでをえがいた作品さくひん1990年代ねんだい前半ぜんはんのF1をリアルにえがいており、この時代じだい活躍かつやくしたチーム・ドライバーがすべて実名じつめい登場とうじょうするほか、マシンの描写びょうしゃすぐれていたことから、一部いちぶのF1ファンなどから人気にんきはくした。

あらすじ

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1992ねんシーズンのF1世界せかい選手権せんしゅけんじゅん和製わせいF1チーム「レラ」はシーズンのこり2せんでこれまで完走かんそうという弱小じゃくしょうチーム。スポンサーからは、つぎのレースで結果けっかのこせなければ契約けいやくるとわれ、ピンチにおちいっていた。そんなおり一人ひとりなぞおとこがチームをたずねてくる。そのおとこ日向ひゅうが俊郎としおい、「自分じぶんをドライバーとしてやとってみないか」とす。チーム監督かんとくである真田さなだはチームの弱点じゃくてんをいいあてたかれなにかをかんじ、入団にゅうだんテストをすることめる。

むかえたテスト当日とうじつ俊郎としおはあろうことかテストの場所ばしょ間違まちがえ、そこで中堅ちゅうけんチーム「マーキュリー」のエース、アレックス・バトラーと対面たいめんする。テストに遅刻ちこくした俊郎としお真田さなだむすめであるはてやチームスタッフが不信ふしんかんつのらせるなか入団にゅうだんテスト開始かいし。ちょうどそのとき舞台ぶたいとなるシルバーストン・サーキットでは強豪きょうごうチーム「ウィリアムズ」がテストをおこなっている最中さいちゅう、そのとしのチャンピオンであるナイジェル・マンセルがタイムアタックをおこなっていた。しかし、俊郎としお驚異きょういてきなコーナリングスピードによりウィリアムズよりも非力ひりきなマシンで、マンセルが記録きろくしたタイムをあっさり上回うわまわってしまう。じつはこのおとこF3F3000弱小じゃくしょうチームをなんとなく優勝ゆうしょうさせた「優勝ゆうしょう請負人うけおいにん」とばれる天才てんさいドライバーだったのだ。レラはこの結果けっかに、俊郎としお日本にっぽんGPでセカンドドライバーとして起用きようすることめる。

登場とうじょう人物じんぶつ

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チーム・レラ

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(TEAM RERA FORMULA ONE)

日向ひゅうが俊郎としお(ひゅうが としろう)
この作品さくひん主人公しゅじんこう、23さい(1992ねん連載れんさい開始かいし)。F3やF3000で弱小じゃくしょうチームをわたあるいてはそのチームを優勝ゆうしょうみちびいた天才てんさいドライバー。物入ものいりでレラに加入かにゅうして以来いらい、そのテクニックと情熱じょうねつでチームをトップチームへとのしげる原動力げんどうりょくとなる。「ソニックターン」という驚異きょういてきなコーナリングと「セナあし」とかたならべるほどのアクセルワークが武器ぶき普段ふだんのう天気てんきかつ軽薄けいはくともれる性格せいかくだが、レース、そしてライバルにたいしてはかなりあつ性格せいかくせる。しかしその一方いっぽう精神せいしんてきよわめんもあるのか、物語ものがたり後半こうはんでは最大さいだいのライバル・バトラーの引退いんたいによってレースへの情熱じょうねつうしない、みずからも引退いんたいかんがえるほどになってしまったり、チャンピオンのかった1994ねんシーズンの鈴鹿すずかでは、緊張きんちょうからかレースまえにモーターホームにもるなどといった場面ばめんもあった。両親りょうしん事故じこうしなっており、1994ねんのサンマリノGPでアイルトン・セナ事故死じこししたときにはレース(運転うんてん)にたいする一定いってい恐怖きょうふしんはてけている。
所属しょぞくチーム
1992ねん レラ・コスワース(だい15せん日本にっぽんだい16せん最終さいしゅうせんオーストラリア)
1993ねん レラ・スプレンダー(ぜんせん
1994ねん レラ・フォード(開幕かいまくせんブラジル~だい5せんスペイン)
レラ・カムイ(だい6せんカナダ~だい16せん最終さいしゅうせんオーストラリア)
ジョー・S・カジワラ(Joe S Kajiwara)
レラのエースドライバー、30さい(1992ねん)。デトロイトまれの日系にっけい2せいアメリカじん本名ほんみょうは「Joseph Shingoro Kajiwara」。レラの結成けっせい当時とうじからドライバーをつとめている。しかしデビューシーズンはぜんせん予備よび予選よせんち、2ねんとなる1992ねんシーズンも予選よせん通過つうかしてもリタイアをかさね、いちもレースを完走かんそう出来できないという屈辱くつじょくてきなシーズンをおくっていた。しかし、俊郎としお加入かにゅうによるチームの進化しんか同調どうちょうするようにレースでの完走かんそう入賞にゅうしょうやすようになっていく。俊郎としおたいしては、仲間なかま意識いしきけをらないほどのライバルしんっており、1993ねんシーズンの鈴鹿すずかでそれを一気いっき表面ひょうめんさせ、1994ねんシーズンのマーキュリーへの移籍いせきめることになる。とてもあつ性格せいかくで、かれ叱咤しった激励げきれいもレラをトップチームへそだげるちからとなった。普段ふだん土佐とさべんはなす。尊敬そんけいするドライバーはエマーソン・フィッティパルディジル・ヴィルヌーヴ
所属しょぞくチーム
1991ねん レラ・エンジン不明ふめいぜんせん
1992ねん レラ・コスワース(ぜんせん
1993ねん レラ・スプレンダー(ぜんせん
1994ねん マーキュリー・スプレンダー(ぜんせん
真田さなだはて(さなだ かほ)
この作品さくひんヒロインてき存在そんざい現役げんえき高校生こうこうせいの16さい(1992ねん)。レラのチーム監督かんとくである真田さなだみゆき冶のむすめ実質じっしつはチームスタッフではいが、ほとんどのレースに同行どうこうしている(最終さいしゅうばなしでは、卒業そつぎょうにチームに就職しゅうしょくすること示唆しさしている)。俊郎としおたいしては、最初さいしょうちはその脳天のうてん性格せいかく軽蔑けいべつしていたようだが、とも選手権せんしゅけんたたかっていくうちに信頼しんらい好意こういせるようになっていく。つよ性格せいかくで、さわてるマスコミをだまらせたり、サポーターにおそいかかったりとかなりのおてんばむすめだが、食事しょくじ当番とうばんでシチューをつくる(ただし、ニールのイタズラによってこぼしてしまったためあじ不明ふめい)など家庭かていてきいちめんせる。
真田さなだみゆき冶(さなだ こうじ)
チーム・レラ監督かんとく1988ねんにチーム・レラを旗揚はたあげし、ヨーロッパのF3000に参戦さんせん。チーム通算つうさん6しょうをあげたのち、1991ねんからF1へとステップアップをたす。1994ねんシーズン途中とちゅうのカムイによる買収ばいしゅうにより、かみ麗香れいかがチームオーナーとなるが、真田さなだはそのままレラの監督かんとくとしてレースにかかわりつづける。つまむすめはてり、つま日本にっぽんのこっている。俊郎としおには絶対ぜったい信頼しんらいいており、また俊郎としお真田さなだを「おやっさん」とんでしたっている。
ケビン
レラの技術ぎじゅつスタッフ。おおくのチームスタッフのなかでも数多かずおお作中さくちゅう登場とうじょうするめい脇役わきやく。キーボードのみ・計算けいさん得意とくいとしているようで、そのスピードはうらら上回うわまわる。

マーキュリー

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(MERCURY GRAND PRIX ORGANIZATION)

アレックス・バトラー(Alex Butler)
マーキュリーのエースドライバー、27さい(1992ねん)。アイルランドの伯爵はくしゃくであるバトラー財団ざいだん御曹司おんぞうしであり、ちちジョン・ヘンリー・バトラーももとF1ドライバーである。本名ほんみょう、サー・アレクサンダー・ヘンリー・バトラー、ニックネームは「アル」。F3000時代じだいあめのレースでは無敵むてきほこったことから「あめ魔術まじゅつ」の異名いみょう天才てんさいドライバー。1991ねんにレラからF1デビューをたすも、その当時とうじのレラの戦闘せんとうりょくさからまともにレースも出来できないままシーズンをえる。レラを見限みかぎったのち、マーキュリーチームへ移籍いせきしたのち一躍いちやくトップドライバーへのみちあゆんでゆくこととなる。俊郎としお最大さいだいのライバルであり、またバトラー自身じしん俊郎としおしんのライバルとみとめている。1994ねんシーズン、スプレンダーエンジンをれたマーキュリーチームでチャンピオンあらそいにくわわるほどの活躍かつやくせるが、シーズン中盤ちゅうばん異状いじょうをきたし、フランスGPでの俊郎としおとの激闘げきとうのち引退いんたい発表はっぴょうする(しかしそのびょう克服こくふくし、カムバックすること示唆しさしている)。「幻惑げんわく」とばれるオーバーテイク技術ぎじゅつ武器ぶきにしており、その技術ぎじゅつなぞっているのはカジワラだけである。
所属しょぞくチーム
1991ねん レラ・エンジン不明ふめいぜんせん?)
1992ねん マーキュリー・ランボルギーニ(ぜんせん
1993ねん マーキュリー・フォード(ぜんせん
1994ねん マーキュリー・スプレンダー(開幕かいまくせんブラジル~だい7せんフランス→引退いんたい
ローザ・バトラー
アレックス・バトラーのいもうと、21さい(1992ねん)。はて同様どうよう実質じっしつのチームスタッフではかったようだが、アレックスについてほとんどのレースに同行どうこうしている。あに引退いんたいともなって、1994ねんシーズン中盤ちゅうばんからマーキュリーのチーム・マネージャーとなる。ランディ・ブロッツァーのしん実力じつりょく見抜みぬき、起用きようをチームにはたらきかけるなど手腕しゅわんるう。
ブライアン・マーキュリー
マーキュリーの監督かんとく

チーム・カムイ

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(KAMUI ENGINEERING PROJECT)

かみ麗香れいか(じん れいか)
チーム・カムイの監督かんとくで19さいだい13。1992ねんまつ~1993ねん初頭しょとう?)の現役げんえき女子大じょしだいせいかみコーポレーションの令嬢れいじょうであり、おやからあたえられた学資がくしきんをもとに1993ねんにチーム・カムイを旗揚はたあげし、F1参戦さんせん開始かいしする。ためには手段しゅだんえらばない冷徹れいてつ性格せいかく参戦さんせん当初とうしょからレラ(俊郎としお)をライバルしており、妨害ぼうがいとはいかないまでも様々さまざまでレラをくるしめる。1994ねんシーズン中盤ちゅうばんみずからが開発かいはつしたエンジンを一番いちばんはやはしらせられるのは俊郎としおであるとり、レラごと俊郎としおるという暴挙ぼうきょるが、学資がくしきんでレースをしていることった父親ちちおやかみコーポレーション会長かいちょう)に資金しきんをストップされてしまう。それによりチーム撤退てったい余儀よぎなくされるが、麗香れいかのF1にたいする情熱じょうねつったレラ陣営じんえい和解わかいしたことにより、レラとの共闘きょうとうというかたち合併がっぺい、レラ・カムイとして参戦さんせん開始かいしする。典型てんけいてきなお嬢様じょうさま気質きしつ高飛車たかびしゃめん目立めだつが、ネーナとラルフにマイネの参戦さんせんするドイツGPのチケットをおくったり、パドックに招待しょうたいするなどといったしんやさしいめんせる。スタッフからのは「ボス」。
ルドルフ・マイネ(Rudolf Meine)
チーム・カムイのエースドライバー、ドイツ出身しゅっしん。ニックネームは「ルディー」。かつて、メルセデスに契約けいやく一方いっぽうてき破棄はきされたことからうらみをっており、メルセデスエンジンを搭載とうさいしたザウバーチームのマシンやメルセデスジュニアチーム出身しゅっしんミハエル・シューマッハると暴走ぼうそうしてしまうという「メルセデス・パラノイア」をかかえており、それによってドイツ出身しゅっしんであるにもかかわらず、ドイツのファンからはきらわれしゃとなっていた。しかし1993ねんのドイツGPでの俊郎としおとの真剣しんけん勝負しょうぶさかいにそれを克服こくふく、シューマッハにぐ(あるいは同等どうとうの)人気にんきる。カムイがレラと合併がっぺいしレラ・カムイとなってからは、セカンドドライバーとして活躍かつやくする。ネーナとラルフという2人ふたり子供こどもるが、つまない様子ようす理由りゆう不明ふめい)。あこがれのドライバーは、アラン・プロスト
所属しょぞくチーム
1993ねん カムイ(開幕かいまくせんみなみアフリカ、だい10せんドイツ~だい16せん最終さいしゅうせんオーストラリア)
だい2せんだい9せんはテストドライバーとしてどうチームに在籍ざいせき
1994ねん カムイ(開幕かいまくせんブラジル~だい5せんスペイン)
レラ・カムイ(だい6せんカナダ~だい16せん最終さいしゅうせんオーストラリア)
ランディ・ブロッツァー(Randy Blotzer)
1993ねん日本にっぽんGPにスポット参戦さんせんしてなぞおとこ国籍こくせき不明ふめいだが、みなみアフリカの孤児こじいん施設しせつにいたのではないかということをにおわせる記述きじゅつ作中さくちゅうにある。レースの世界せかいでは「賞金しょうきんかせぎ」として有名ゆうめいであり、それと同様どうようにダーティーなはしりでおそれられていた。俊郎としおたおすためにかせ放題ほうだいのF3000から転向てんこうし、ちょうど打倒だとうレラをねらっていたカムイとの利害りがい一致いっちしたために、高額こうがく契約けいやくきん要所ようしょ要所ようしょでの賞金しょうきん条件じょうけん契約けいやくする。日本にっぽんGPでは、ルール無視むしともえるダーティーなはしりで同僚どうりょうであるマイネすらもリタイアにむなどやりたい放題ほうだいかえした挙句あげく最後さいごは1コーナーで俊郎としおさくはまって自滅じめつする。そのひょう舞台ぶたいから姿すがたしていたが、純粋じゅんすい俊郎としおにレースでつべく1994ねんイタリアGPにてマーキュリーから復帰ふっき、そのたか実力じつりょくでカジワラとともに俊郎としおせまっていく。長年ながねん俊郎としおつづけてきたことによってソニックターンの弱点じゃくてん唯一ゆいいつっており、1994ねん日本にっぽんGPではピットでの火災かさい火傷かしょういながらも、それをカジワラにつたえた。
所属しょぞくチーム
1993ねん カムイ(だい15せん日本にっぽん
1994ねん マーキュリー・スプレンダー(だい12せんイタリア~だい16せん最終さいしゅうせんオーストラリア)

スプレンダー

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ゲディー・ライフソン
エンジンビルダー「スプレンダー」をひきいるめい伯楽ばくろう、オーストラリア出身しゅっしん。「マエストロ」の異名いみょうをとるほどのエンジンチューンの名手めいしゅである。俊郎としおとは旧知きゅうちなかであり、俊郎としお下位かいカテゴリーでレースをしていたときにサポートをしていた。しばらくレースからはなれていたが、1992ねんオーストラリアGPのさい俊郎としおさそわれてレラのパドックからレースを観戦かんせん、そのさいたりにしたレラのスタッフたち情熱じょうねつしんうごかされ、レラへのエンジン供給きょうきゅうというかたちでレースへ復帰ふっきする。そのことが1993ねんシーズンのレラの躍進やくしんつながることとなるが、1993ねんシーズンの終盤しゅうばん「このまま、俊郎としおがチャンピオンになってもつまらない」という理由りゆうでレラとの契約けいやく解除かいじょ(そのことにレラのスタッフは激怒げきどするが、俊郎としお真田さなだはゲディーの真意しんいり、それを容認ようにんしている)し、1994ねんシーズンのマーキュリーとの契約けいやく発表はっぴょうする。マーキュリーとの契約けいやくは、エンジンサプライヤーとしてのわくえてチームの中心ちゅうしんてき人物じんぶつとなってチームをった。
ニール・ライフソン
ゲディーのまごで、活発かっぱつ性格せいかく少年しょうねん。いつもゲディーと行動こうどうともにしており、度々たびたびレースにも姿すがたせる。親友しんゆうである俊郎としお影響えいきょうけてか、物語ものがたり後半こうはんではみずからレースをはじめるべく両親りょうしんとあるけをし、見事みごとレースをはじめることまった。イタズラきないちめんがあり、ジョーなどがその犠牲ぎせいになってしまった。

おも実在じつざいF1レーサー

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ナイジェル・マンセル
だいいち日向ひなたがテスト走行そうこうちゅうのマンセルのタイムにいどんだ。1994ねんフランスGP決勝けっしょうでは日向ひなたとの直接ちょくせつ対決たいけつもしている。
アイルトン・セナ
あめ見舞みまわれた1992ねんオーストラリアGP。あめつよいレーサー同士どうしあらそいとして、バトラーたいセナのレインバトルがえがかれている(なお、実際じっさいの1992ねんオーストラリアGPはドライコンディションでおこなわれた)。
アラン・プロスト
1993ねん開幕かいまくせんみなみアフリカGP。予選よせん決勝けっしょう日向ひなたとの直接ちょくせつあらそいをえんじた。
ミハエル・シューマッハ
1994ねん終盤しゅうばんせんFIA日向ひなたたいするあるペナルティに抗議こうぎして、レースボイコットを宣言せんげんした。その日向ひなたたいするペナルティ凍結とうけつによりボイコット撤回てっかい決勝けっしょうでの日向ひなたとのバトルもえがかれている。

その

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たかむら(たかむら)
F1をせんもん取材しゅざいしているカメラマンで、各地かくちおこなわれるレースにかならあらわれる。レラをおお取材しゅざいしているようで、そのためかレラのスタッフとは親交しんこうがあり、とくはてとは「タカりん」「はてぞー」とアダめいほど仲良なかよし。バトラーがやまいおかされていることをメディアクルーのなか最初さいしょったおとこである。
ネーナ・マイネ
ルドルフ・マイネのむすめ。しっかりしゃおんなで、おとうとのラルフの世話せわ家事かじなどをこなしてマイネが留守るすいえまもっている。父親ちちおやこと必死ひっし応援おうえんしてくれたニールに好意こういっているようである。
ラルフ・マイネ
ルドルフ・マイネの息子むすこおさないながらも、父親ちちおや活躍かつやくしんじてひたすらに応援おうえんしている。
エイミー・アンダーソン
バトラーつかえている、デンマークじんのメイド。アレックスに恋心こいごころいている。アレックス・バトラー引退いんたいかれの「」となり、まわりの世話せわをしている。

作品さくひんかんするエピソード

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ぜん12かんのコミックスでは、毎回まいかい表紙ひょうしいてあるF1マシンの名前なまえをクイズとして出題しゅつだいし、正解せいかいした読者どくしゃには抽選ちゅうせんふうわらわがその読者どくしゃのリクエストに沿ったえがろしイラストをプレゼントするという企画きかくがあった。おもにリクエストの大半たいはんは、はて・ローザ・麗香れいからヒロイン(ちなみにこの3にんはこの企画きかくでHAYATEシスターズとばれていた)を題材だいざいにしたもの(サービスカットてきものから、日向ひなた男性だんせいじんとのカットなど)がおおかったようである。またそのリクエストもかいごと過激かげきものてきたようで、「ここ(コミックス)ではえないようなスゴイごといてひともいた」とのことである。

この作品さくひん連載れんさいちゅうに、サンマリノGPでのアイルトン・セナ死亡しぼう事故じこ発生はっせいしている。このとき作品さくひんなかでは1993ねんシーズン(勿論もちろん、セナは存命ぞんめい作品さくひん登場とうじょうしていた)が展開てんかいしていたこともあってか、「HAYATEのなかではセナをなせないでほしい」というむねのファンからの手紙てがみふうわらわもと多数たすうせられたらしく、ふうわらわなやんだという(結局けっきょく作品さくひんなかでもセナの事故じこえがかれている)。