デジタル大辞泉だいじせん 「伊藤いとう圭介けいすけ」の意味いみ・読よみ・例文れいぶん・類語るいご いとう‐けいすけ【伊藤いとう圭介けいすけ】 [1803~1901]幕末ばくまつ・明治めいじの植物しょくぶつ学がく者もの。愛知あいちの生うまれ。東大とうだい教授きょうじゅ。日本にっぽん初はつの理学りがく博士はかせ。シーボルトに師事しじ。リンネの植物しょくぶつ分類ぶんるい法ほうを紹介しょうかいする「泰西たいせい本草ほんぞう名めい疏」を著あらわし日本にっぽんの近代きんだい植物しょくぶつ学がくの先駆せんくをなす。著ちょ「救荒きゅうこう食物しょくもつ便覧びんらん」など。 出典しゅってん 小学館しょうがくかんデジタル大辞泉だいじせんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい
精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてん 「伊藤いとう圭介けいすけ」の意味いみ・読よみ・例文れいぶん・類語るいご いとう‐けいすけ【伊藤いとう圭介けいすけ】 幕末ばくまつ、明治めいじの本草学ほんぞうがく者もの、博物学はくぶつがく者しゃ。尾張おわりの町医者まちいしゃの家いえに生うまれる。長崎ながさきに遊学ゆうがくし、シーボルトに師事しじし、「泰西たいせい本草ほんぞう名めい疏」を著しるわしてリンネの植物しょくぶつ分類ぶんるい法ほうを紹介しょうかい。明治めいじ二に一いち年ねん(一いち八はち八はち八はち)日本にっぽんで最初さいしょの理学りがく博士はかせとなる。著作ちょさくに「救荒きゅうこう植物しょくぶつ便覧びんらん」「小石川こいしかわ植物しょくぶつ園えん草木くさき目録もくろく」など。享とおる和わ三さん~明治めいじ三さん四よん年ねん(一いち八はち〇三さん‐一いち九きゅう〇一いち) 出典しゅってん 精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてん精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい
日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) 「伊藤いとう圭介けいすけ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 伊藤いとう圭介けいすけいとうけいすけ(1803―1901) 日本にっぽんの近代きんだい植物しょくぶつ学がくの先駆せんく。名古屋なごやの医家いかに生うまれ、幼時ようじ、本草ほんぞう(ほんぞう)学者がくしゃの水谷みずたに豊文とよふみ(ほうぶん)に博物学はくぶつがくを学まなんだ。初はじめ家業かぎょうを継ついでいたが、1826年ねん(文政ぶんせい9)長崎ながさきから江戸えどに上のぼるシーボルトを水谷みずたに豊文とよふみらとともに熱田あつたに迎むかえて会見かいけんし影響えいきょうを受うけた。翌年よくねん江戸えどに出でて宇田川うだがわ榕よう菴(うだがわようあん)に接せっし採集さいしゅうをともにしたのち、長崎ながさきにシーボルトを訪おとずれ、ツンベルク著ちょの『日本にっぽん植物しょくぶつ誌し』Flora Japonicaを与あたえられ、以後いご、医業いぎょうのかたわらこの書しょの研究けんきゅうに没頭ぼっとうし、これを基礎きそとし、リンネの植物しょくぶつ分類ぶんるい式しきを訳出やくしゅつして付録ふろくとした『泰西たいせい本草ほんぞう名めい疏(たいせいほんぞうめいそ)』2巻かんを著あらわした。これは日本にっぽんへの近代きんだい植物しょくぶつ分類ぶんるい学がくの初はつの紹介しょうかいである。医家いかとしては種痘しゅとうを広ひろめた功績こうせきがある。またしばしば博物はくぶつ会かいを開催かいさいし、『救荒きゅうこう食物しょくもつ便覧びんらん』(1837)を著あらわし、知識ちしきの普及ふきゅうに努つとめた。1877年ねん(明治めいじ10)東京大学とうきょうだいがく理学部りがくぶ員外いんがい教授きょうじゅに選えらばれ、1881年ねん教授きょうじゅとなる。その前年ぜんねんスウェーデン王立おうりつ学士がくし院いんから銀牌ぎんぱい(ぎんぱい)を贈おくられ、1888年ねん学位がくい制せい制定せいていとともに初はつの理学りがく博士はかせとなった。[佐藤さとう七郎しちろう][参照さんしょう項目こうもく] | 宇田川うだがわ榕よう菴 | シーボルト | 日本にっぽん植物しょくぶつ誌し | 水谷みずたに豊文とよふみ 伊藤いとう圭介けいすけ 『泰西たいせい本草ほんぞう名めい疏』(稿本こうほん) 出典しゅってん 小学館しょうがくかん 日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)について 情報じょうほう | 凡例はんれい
改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん 「伊藤いとう圭介けいすけ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 伊藤いとう圭介けいすけ (いとうけいすけ)生なま没年ぼつねん:1803-1901(享とおる和わ3-明治めいじ34) 幕末ばくまつ・明治めいじ期きの蘭方らんぽう医い,植物しょくぶつ学者がくしゃ。名なは舜しゅん民みん,清しん民みん,幼名ようみょうは左ひだり仲なか,字じは圭介けいすけ,戴尭(たいぎよう)。通称つうしょう圭介けいすけ,号ごうは錦にしき窠(きんか),花はな繞にょう書屋しょおく,十じゅう二に花はな楼ろうという。名古屋なごや呉服ごふく町まちの医者いしゃ西山にしやま玄道げんどうの次男じなん。のち,父ちちの旧姓きゅうせい伊藤いとうに復ふくする。本草ほんぞうを水谷みずたに豊文とよふみ,蘭学らんがくを藤林ふじばやし泰やすし助すけ,吉雄よしお常三つねぞう,野村のむら立たて栄さかえに学まなぶ。1827年ねん(文政ぶんせい10)長崎ながさきでシーボルトに学まなぶ。名古屋なごやの本草ほんぞう家かの同好どうこう会かい嘗百ひゃく社しゃ(しようひやくしや)の研究けんきゅう活動かつどうの中心ちゅうしんとなる。著書ちょしょ《泰西たいせい本草ほんぞう名めい疏》4巻かん3冊さつ(1829)は,シーボルトからもらったC.P.ツンベリーの《日本にっぽん植物しょくぶつ誌しFlora Japonica》(1784)の学名がくめいに和名わみょうを付ふしたものである。付録ふろく下かで,リンネの分類ぶんるい法ほうを,日本にっぽんで最初さいしょに紹介しょうかいしたことに意義いぎがある。幕末ばくまつ,西欧せいおう植物しょくぶつ学がくの紹介しょうかいのほか,種痘しゅとうの普及ふきゅう,コレラ対策たいさく,大砲たいほうの鋳造ちゅうぞう,硝石しょうせきの研究けんきゅうなどで活躍かつやくした。維新いしん後ご,東京大学とうきょうだいがく理学部りがくぶ員外いんがい教授きょうじゅ,正せい教授きょうじゅとなり,88年ねん日本にっぽん最初さいしょの理学りがく博士はかせとなる。明治めいじ期きの植物しょくぶつ学がく,物産ぶっさん学がくの研究けんきゅう,発展はってんに貢献こうけんした。執筆しっぴつ者しゃ:矢部やべ 一郎いちろう 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ「改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん」改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてんについて 情報じょうほう
ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてん 「伊藤いとう圭介けいすけ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 伊藤いとう圭介けいすけいとうけいすけ [生せい]享とおる和わ3(1803).1.27. 名古屋なごや[没ぼつ]1901.1.20. 東京とうきょう博物はくぶつ学者がくしゃ,医師いし。名なは舜しゅん民みんまたは清しん民みん,字じは戴堯のちに圭介けいすけ。初はじめ西山にしやま左ひだり仲なかといったが,父ちちの生家せいかを継ついで伊藤いとうと改あらためた。本草ほんぞうを水谷みずたに豊文とよふみに学まなび,文政ぶんせい3 (1820) 年ねんに医業いぎょうを開ひらく。のち藤林ふじばやし普ひろし山さん,吉雄よしお常つね三さんに蘭学らんがくを学まなび,同どう 10年ねん長崎ながさきで P.シーボルトに師事しじ。その際さいにもらった C.P.トゥーンベリの"Flora Japonica"を訳やくして同どう 12年ねん『泰西たいせい本草ほんぞう名めい疏』と題だいして出版しゅっぱん。付録ふろくで C.リンネの植物しょくぶつ分類ぶんるい体系たいけいを日本にっぽんに初はじめて紹介しょうかいした。また,種痘しゅとうの紹介しょうかいや普及ふきゅうに尽力じんりょくし,兵書へいしょの訳述やくじゅつにもたずさわり,薬園やくえんも開設かいせつした。藩はん医いとして昇進しょうしんして慶応けいおう1 (65) 年ねんに奥おく医師いし見習みならいとなったが,政府せいふの要請ようせいで明治めいじ3 (70) 年ねん上京じょうきょう,文部省もんぶしょう助じょ教きょうとして大学だいがくに出仕しゅっしした。 1877年ねん東京大学とうきょうだいがく理学部りがくぶ員外いんがい教授きょうじゅ,80年ねん小石川こいしかわ植物しょくぶつ園えん担当たんとう,81~86年ねん東京大学とうきょうだいがく教授きょうじゅを歴任れきにん。 79年ねん東京とうきょう学士がくし会かい院いん会員かいいんに選えらばれ,86年ねん日本にっぽん最初さいしょの理学りがく博士はかせとなる。著書ちょしょは『小石川こいしかわ植物しょくぶつ園えん草木くさき図説ずせつ』『錦にしきか翁おう耋筵誌し』など。 出典しゅってん ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんについて 情報じょうほう
百科ひゃっか事典じてんマイペディア 「伊藤いとう圭介けいすけ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 伊藤いとう圭介けいすけ【いとうけいすけ】 幕末ばくまつ・明治めいじの植物しょくぶつ学者がくしゃ。名古屋なごやに生うまれ,医学いがく,本草学ほんぞうがくなどを学まなび医いを業ごうとしたが,長崎ながさきに遊学ゆうがく,シーボルトの教おしえを受うけ,植物しょくぶつ学がくを研究けんきゅう。《泰西たいせい本草ほんぞう名めい疏》(1829年ねん)を著あらわし,リンネの植物しょくぶつ分類ぶんるい法ほうなどを紹介しょうかい。のち東大とうだい教授きょうじゅ。1888年ねん日本にっぽん最初さいしょの理学りがく博士はかせとなり,学術がくじゅつ上じょうの功こうで男爵だんしゃく。→関連かんれん項目こうもく田中たなか芳男よしお 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ百科ひゃっか事典じてんマイペディアについて 情報じょうほう
デジタル版ばん 日本人にっぽんじん名めい大だい辞典じてん+Plus 「伊藤いとう圭介けいすけ」の解説かいせつ 伊藤いとう圭介けいすけ いとう-けいすけ 1803-1901 江戸えど後期こうき-明治めいじ時代じだいの植物しょくぶつ学者がくしゃ,蘭方らんぽう医い。享とおる和わ3年ねん1月がつ27日にち生うまれ。大河内おおこうち存そん真しん(おおこうち-そんしん)の弟おとうと。水谷みずたに豊文とよふみ(とよぶみ)に本草学ほんぞうがくを,藤林ふじばやし普ひろし山さんに蘭学らんがくをまなぶ。長崎ながさきのシーボルトにも師事しじ。文政ぶんせい12年ねん「泰西たいせい本草ほんぞう名めい疏(そ)」を刊行かんこう,リンネの植物しょくぶつ分類ぶんるい法ほうをはじめて紹介しょうかい。弘ひろし化か(こうか)4年ねん名古屋なごや藩はん医いとなる。明治めいじ14年ねん東京大学とうきょうだいがく教授きょうじゅ。21年ねん日本にっぽん最初さいしょの理学りがく博士はかせ。明治めいじ34年ねん1月がつ20日はつか死去しきょ。99歳さい。尾張おわり(おわり)名古屋なごや出身しゅっしん。本姓ほんせいは西山にしやま。名なは舜しゅん民みん,清しん民みん。号ごうは錦にしき窠(きんか)。著作ちょさくに「小石川こいしかわ植物しょくぶつ園えん草木くさき図説ずせつ」など。 出典しゅってん 講談社こうだんしゃデジタル版ばん 日本人にっぽんじん名めい大だい辞典じてん+Plusについて 情報じょうほう | 凡例はんれい