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シーボルト(Siebold,Philipp Franz von)とは? 意味や使い方 - コトバンク

シーボルトみ)Siebold,Philipp Franz von

デジタル大辞泉だいじせん 「シーボルト」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)

[1796~1866]ドイツの医者いしゃ博物学はくぶつがくしゃ。1823ねんオランダ商館しょうかん医師いしとして来日らいにち長崎ながさき鳴滝なるたきじゅく開設かいせつ診療しんりょう教育きょういくとにたり、日本にっぽん西洋せいよう医学いがく発展はってん影響えいきょうあたえた。シーボルト事件じけんにより1829ねん追放ついほう。1859ねんふたた来日らいにち幕府ばくふ外事がいじ顧問こもんつとめた。ちょ日本にっぽん」「日本にっぽん植物しょくぶつ」「日本にっぽん動物どうぶつ」など。

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精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん 「シーボルト」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

シーボルト

  1. [ いち ] ( Karl Theodor Ernst von Siebold カール=テオドール=エルンスト=フォン━ ) ドイツの生理学せいりがくしゃ動物どうぶつ学者がくしゃ。クラゲの発生はっせい内臓ないぞう寄生虫きせいちゅう昆虫こんちゅうるいなどの研究けんきゅうによってたんせい生殖せいしょく実在じつざい確証かくしょう主著しゅちょ脊椎動物せきついどうぶつ比較ひかく解剖かいぼうがく」「ちょうるいおよびはちるいたんせい生殖せいしょく」。(いちはちよんはち
  2. [ ] ( Philipp Franz von Siebold フィリップ=フランツ=フォン━ ) ドイツの医学いがくしゃ博物学はくぶつがくしゃオランダ商館しょうかんかんとしていちはちさんねん文政ぶんせいろく来日らいにちきゅうねん安政あんせいろく)にはオランダ商事しょうじ会社かいしゃ顧問こもんとして再度さいど来日らいにち長崎ながさき郊外こうがい鳴滝なるたきじゅくひらいて診療しんりょうオランダ医学いがく教授きょうじゅにあたり、伊東いとう玄朴げんぼく高良斎こうのりょうさい高野たかの長英ちょうえいらをそだてた。また、日本にっぽん動植物どうしょくぶつ研究けんきゅう著書ちょしょ日本にっぽん」「日本にっぽん動物どうぶつこころざし」「日本にっぽん植物しょくぶつこころざし」。(いちななきゅうろくいちはちろくろく

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) 「シーボルト」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)
しーぼると
Philipp Franz Balthasar von Siebold
(1796―1866)

ドイツの医者いしゃ博物学はくぶつがくしゃ。ドイツのウュルツブルク医学いがく名門めいもんいえまれる。ちちはウュルツブルク大学だいがく生理学せいりがく教授きょうじゅ。1815ねんウュルツブルク大学だいがく入学にゅうがく医学いがくのほか生物せいぶつがく人類じんるいがく民族みんぞくがく地理ちりがくなどを勉強べんきょうした。1820ねん卒業そつぎょうし、医学いがく博士はかせとなった。ハイデングスフェルトで開業かいぎょうしたが、日本にっぽん関心かんしんをもち、渡航とこう機会きかいをつかんだ。1822ねん7がつハーグにき、オランダりょうひがしインドの陸軍りくぐん軍医ぐんい外科げか少佐しょうさにんぜられた。9月23にちロッテルダムを出航しゅっこうバタビアジャカルタ)をて、1823ねん文政ぶんせい6)8がつ11にち長崎ながさき出島でじま上陸じょうりくした。来日らいにちにあたり、日本にっぽん・オランダ貿易ぼうえき強化きょうかのための総合そうごうてき科学かがくてき研究けんきゅう使命しめいびていた。ひがしインド会社かいしゃから幕府ばくふへのはたらきかけにより、のオランダじんにはあたえられない調査ちょうさ研究けんきゅう便宜べんぎた。まず出島でじま(でじま)のオランダ商館しょうかんないで、日本人にっぽんじん治療ちりょうしたり医学いがくおしえたりできるようになった。ついで出島でじまて、吉雄よしお(よしお)じゅくならりん(ならばやし)じゅく治療ちりょう教育きょういくをすることがゆるされ、ついには長崎ながさき郊外こうがい鳴滝なるたき(なるたき)(長崎ながさき鳴滝なるたきまち)に鳴滝なるたきじゅくをつくり、治療ちりょう講義こうぎができるようになった。鳴滝なるたきじゅくには、美馬みまじゅんさん(みまじゅんぞう)、おか研介けんすけ(けんすけ)、二宮にのみや敬作けいさく高野たかの長英ちょうえい伊東いとう玄朴げんぼく石井いしいそうけん(1796―1861)、伊藤いとう圭介けいすけ(けいすけ)など多数たすう弟子でしたちがあつまった。弟子でしたちに研究けんきゅうテーマをあたえ、オランダ論文ろんぶん提出ていしゅつさせ、かれ自身じしん研究けんきゅう資料しりょうにした。また長崎ながさき近郊きんこう動植物どうしょくぶつ採集さいしゅうおこない、友人ゆうじん弟子でし、オランダ商館しょうかんやとにん協力きょうりょくたのんだ。川原かわはら慶賀けいが(けいが)にはえがかせた。1826ねん江戸えど参府さんぷ随行ずいこうし、その往復おうふく書記しょきビュルガーHeinrich Bürger(1804―1858)を助手じょしゅとして、動植物どうしょくぶつ採集さいしゅう測量そくりょう観測かんそくなどをおこなった。旅行りょこう往復おうふく江戸えど滞在たいざいちゅう日本人にっぽんじん学者がくしゃたちと知識ちしき資料しりょう交換こうかん頻繁ひんぱんった。

 1828ねん帰国きこくさいして、長崎ながさきこうのオランダせん台風たいふう難破なんぱ修理しゅうりのため陸揚りくあげしたとき、シーボルトのから、国外こくがい禁制きんせいしなて、シーボルト事件じけんこった。友人ゆうじん弟子でし通詞つうじ(つうじ)のなかに処罰しょばつされるものた。シーボルトは日本にっぽん追放ついほうをいいわたされ、1829ねん12月30にち日本人にっぽんじんつまたき(1807―1869)と愛児あいじ禰(いね)(1827―1903)にわかれをげて、日本にっぽんった。1830ねん7がつ7にちオランダに帰着きちゃくした。シーボルトは、多量たりょう資料しりょう標本ひょうほんなま植物しょくぶつおくったりかえったりし、これをオランダ政府せいふった。それらはライデン大学だいがく図書館としょかん国立こくりつ民族みんぞく博物館はくぶつかん国立こくりつ腊葉(せきよう)かんライデン大学だいがく植物しょくぶつえんだいえい博物館はくぶつかんだいえい図書館としょかんなどに現存げんそんする。帰国きこく、ライデンに居住きょじゅうし、結婚けっこんして3なん2じょをもった。長男ちょうなんアレキサンダーAlexander(1846―1911)、次男じなんハインリヒHeinrich(1852―1908)はのちに日本にっぽん外交がいこうかんとして活躍かつやくした。1859ねん安政あんせい6)アレキサンダーをともなってふたたび来日らいにちした。晩年ばんねんドイツにかえり、ミュンヘン死亡しぼうはか同地どうちにある。

 シーボルトの日本にっぽん研究けんきゅうは、『日本にっぽん』『日本にっぽん動物どうぶつ』『日本にっぽん植物しょくぶつ』にまとめられた。『日本にっぽんNippon20さつ(1832~1851)は日本にっぽんについての総合そうごうてき研究けんきゅうである。『日本にっぽん動物どうぶつFauna Japonica5かん(1833~1850)は、シーボルトとビュルガーがあつめた動物どうぶつ標本ひょうほんをテミンクConraad Jacob Temminck(1778―1858)、シュレーゲルHermann Schlegel(1804―1884)、デ・ハーンWilhelm de Haan(1801―1855)が研究けんきゅう執筆しっぴつし、シーボルトが編集へんしゅうした。『日本にっぽん植物しょくぶつFlora Japonica2かん(1835~1870)は、ツッカリーニJoseph Gerhard Zuccarini(1797―1848)の協力きょうりょくて、共著きょうちょとして出版しゅっぱんした。シーボルトは日本にっぽんにおいて日本にっぽん近代きんだい貢献こうけんし、ケンペルツンベルクよりも本格ほんかくてきに、日本にっぽん日本にっぽん植物しょくぶつ動物どうぶつについて、ヨーロッパ紹介しょうかいした。

矢部やべ一郎いちろう

『シーボルトちょ秀三しゅうぞうやく『シーボルト江戸えど参府さんぷ紀行きこう復刻ふっこくばん(1966・雄松おまつどう書店しょてん/オンデマンドばん・2005・雄松おまつどう出版しゅっぱん)』『シーボルトちょ秀三しゅうぞうやく『シーボルト日本にっぽん交通こうつう貿易ぼうえき復刻ふっこくばん(1966・雄松おまつどう書店しょてん/オンデマンドばん・2005・雄松おまつどう出版しゅっぱん)』いわ生成せいせいいち監修かんしゅう中井なかい晶夫あきおやく日本にっぽん』6かん図録ずろく3かん(1977~1979・雄松おまつどう書店しょてん)』『ジーボルトちょ斎藤さいとうしんやく江戸えど参府さんぷ紀行きこう』(平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ)』『ジーボルトちょ斎藤さいとうしんやく『ジーボルト最後さいご日本旅行にほんりょこう』(平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ)』板沢いたざわ武雄たけおちょ『シーボルト』(1960/新装しんそうばん・1988・吉川弘文館よしかわこうぶんかん)』『ハンス・ケルナーちょ竹内たけうち精一せいいちやく『シーボルト父子ふしでん』(1974・創造そうぞうしゃ)』講談社こうだんしゃ学術がくじゅつきょくへん『シーボルト「日本にっぽん」の研究けんきゅう解説かいせつ』(1977・講談社こうだんしゃ)』秀三しゅうぞうちょ『シーボルト先生せんせい その生涯しょうがい功業こうぎょうぜん3かん平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ)』



シーボルト(Karl Theodor Ernst von Siebold)
しーぼると
Karl Theodor Ernst von Siebold
(1804―1885)

ドイツの動物どうぶつ学者がくしゃ。ドイツみではジーボルトという。ベルリン大学だいがくゲッティンゲン大学だいがくまなんで医師いしとなり、エルランゲン大学だいがくミュンヘン大学だいがく解剖かいぼうがくおよび動物どうぶつがく教授きょうじゅ歴任れきにん。おもに脊椎せきつい(むせきつい)動物どうぶつ比較ひかく解剖かいぼうがく分類ぶんるいがく、および寄生虫きせいちゅうがく従事じゅうじした。キュビエの分類ぶんるいによる関節かんせつ動物どうぶつ節足動物せっそくどうぶつと蠕形(ぜんけい)動物どうぶつけ、前者ぜんしゃ昆虫こんちゅうるい、クモるい甲殻こうかくるいふくめた。また放射ほうしゃ動物どうぶつちゅうしずくむしるい区分くぶんはいしてうえむしるい原生動物げんせいどうぶつけた。原生動物げんせいどうぶつProtozoaのかたりもシーボルトによる。さらに、寄生虫きせいちゅう生活せいかつ研究けんきゅうから、寄生虫きせいちゅう宿主しゅくしゅからだ一部いちぶからしょうじるというかんがえをただした。幕末ばくまつ来日らいにちしたシーボルトP. F. B. von Sieboldの叔父おじ主著しゅちょに『脊椎動物せきついどうぶつ比較ひかく解剖かいぼうがく』(1848)がある。

八杉やすぎ貞雄さだお

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ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん 「シーボルト」の解説かいせつ

シーボルト

没年ぼつねん:1866.10.18(1866.10.18)
生年せいねん:1796.2.17
江戸えど後期こうき来日らいにちしたドイツじん医師いし,生物せいぶつ学者がくしゃバイエルンビュルツブルク医師いしいえまれる。ビュルツブルク大学だいがく医学いがく,植物しょくぶつがく,動物どうぶつがく,地理ちりがくなどをまなび,1820ねん学位がくいる。1822ねん,オランダりょうひがしインド会社かいしゃづけかんとなり,1823ねんにジャワに赴任ふにん,まもなく日本にっぽん任官にんかんすることになり,文政ぶんせい6(1823)ねん8がつ長崎ながさき出島でじまはいった。はじめ商館しょうかん内部ないぶで,やがては市内しないよし雄幸ゆうこう私塾しじゅくなどでも,診療しんりょう講義こうぎおこなっていたが,翌年よくねん長崎ながさき奉行ぶぎょうからゆるされて,郊外こうがい鳴滝なるたき学舎がくしゃつくった。学生がくせい宿舎しゅくしゃ診療しんりょうしつ,さらには薬草やくそうえんまでそなえたこの鳴滝なるたきじゅくに,しゅう1かい出張しゅっちょうしたシーボルトは,実地じっち診療しんりょう医学いがくじょう臨床りんしょう講義こうぎのみならず,様々さまざま分野ぶんや学問がくもん講義こうぎおこない,小関おぜきさんえい,高野たかの長英ちょうえい,伊東いとう玄朴げんぼく,美馬みまじゅんさん,二宮にのみや敬作けいさくらの蘭学らんがく逸材いつざいそだてた。 文政ぶんせい9ねんオランダ商館しょうかんちょう江戸えど参府さんぷ随行ずいこうして1カ月かげつあま江戸えど滞在たいざい。そのあいだ,高橋たかはしけい,大槻おおつき玄沢げんたく,宇田川うだがわ榕庵ようあんら,江戸えど蘭学らんがくしゃともしたしくなった。そこにいわゆる「シーボルト事件じけん」の種子しゅし芽生めばえる。長崎ながさきかえったシーボルトと高橋たかはし間宮まみや林蔵りんぞうらとの交際こうさいのなかで,間宮まみや疑惑ぎわくったのをきっかけに,どう11ねん任期にんきちて帰国きこくするシーボルトのったふねあらしによってもどされたさいに,荷物にもつ調しらべられて,国禁こっきん違反いはん発覚はっかく高橋たかはしがシーボルトの『フォン・クルーゼンシュテルン世界せかい周航しゅうこう』とオランダりょうのアジア地図ちずなどとえに,伊能いのう忠敬ちゅうけいの『日本にっぽん沿海えんかい測量そくりょう』のコピーなどをシーボルトにわたしていたこと,そのほかにもあおい紋服もんぷくなどをシーボルトがそうとしていたことがあきらかになって,高橋たかはし裁判さいばん途中とちゅう獄中ごくちゅう死亡しぼう,シーボルトも国外こくがい追放ついほうとなり,どう12ねん12月に日本にっぽんった。 ヨーロッパにもどったシーボルトは,日本にっぽん関係かんけい書物しょもつ次々つぎつぎ発表はっぴょうして,日本にっぽんがく権威けんいとしてヨーロッパで重要じゅうようされるようになった。またオランダ国王こくおううごかして幕府ばくふ開国かいこくすすめる親書しんしょ起草きそうし,この親書しんしょひろし1(1844)ねん幕府ばくふつたえられたが,幕府ばくふはこれを拒否きょひ,さらに,日本にっぽん開国かいこくしたさいにヨーロッパ諸国しょこくむすぶべき条約じょうやく私案しあん起草きそうしてオランダ政府せいふつたえ,この条約じょうやくあんよしみなが5(1852)ねんクルティウスたくされて幕府ばくふとどいている。開国かいこく,クルティウスはシーボルトにたいする追放ついほう解除かいじょ幕府ばくふ要請ようせい,安政あんせい5(1858)ねんらん修好しゅうこう条約じょうやく締結ていけつとともに実現じつげん,どう6ねんシーボルトは念願ねんがんさい来日らいにちたした。しかし文久ぶんきゅう2(1862)ねん維新いしん成立せいりつをみぬまま日本にっぽんり,ミュンヘンでくなった。さい来日らいにちさいして帯同たいどうしていた長男ちょうなんアレクサンダーは,そのまま日本にっぽんまり,イギリス公使館こうしかん通訳つうやく,明治めいじ3(1870)ねん以降いこう政府せいふのおやといとして,外交がいこう政策せいさくなどの相談役そうだんやくとなり,次男じなんのハインリヒもどう2ねん来日らいにち,外交がいこうかんとして長年ながねん日本にっぽん滞在たいざいした。さらに長崎ながさき時代じだい日本にっぽん女性じょせい楠本くすもと其扇(おたき)とのあいだまれた楠本くすもとイネは,のちに産科さんかとしてられるようになった。 シーボルトの学問がくもんてき業績ぎょうせきは,医師いしとして臨床りんしょうめん日本にっぽん人々ひとびとおおきな福音ふくいんのこし,さらにおおくの蘭医らんいそだてたことは,たか評価ひょうかされなければならないが,それにもまして重要じゅうようなのは,ヨーロッパにかれによって紹介しょうかいされた日本にっぽん風物ふうぶつである。もっと重要じゅうようなのは,通称つうしょう日本にっぽん』もしくは『日本にっぽん』すなわち『日本にっぽんとその周辺しゅうへんしょ地域ちいき(蝦夷えぞ,みなみせんとう,樺太からふと,朝鮮ちょうせん,琉球りゅうきゅう)についての記述きじゅつ集成しゅうせい』としてライデンで1832ねんから54ねんまでかかって刊行かんこうされたもので,日本にっぽんについてのひろし翰で巨大きょだい総合そうごうてき研究けんきゅうしょである。このほか『日本にっぽん動物どうぶつ』(1833~50),『日本にっぽん植物しょくぶつ』(1835~70)は学問がくもんてき貴重きちょう業績ぎょうせきである。<参考文献>秀三しゅうぞう『シーボルト先生せんせい其生涯及功業こうぎょう』(東洋文庫とうようぶんこ),板沢いたざわ武雄たけお『シーボルト』

(村上むらかみ陽一郎よういちろう)


シーボルト

没年ぼつねん:1911.1.23(1911.1.23)
生年せいねん:1846.8.16
明治めいじのおやと外国がいこくじん。ドイツじん。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男ちょうなんとしてオランダ・ライデンにまれる。安政あんせい6(1859)ねんちちれられて来日らいにち日本語にほんごならい,文久ぶんきゅう2(1862)ねんから明治めいじ3(1870)ねんまで在日ざいにちイギリス公使館こうしかん勤務きんむ。そのあいだ1866ねんパリ万国博覧会ばんこくはくらんかい参加さんか徳川とくがわ昭武あきたけいちぎょういて訪欧ほうおう,いちぎょう動静どうせいをイギリス外務省がいむしょう逐一ちくいちうちほうした。3ねんみんしょうやといとなり,外債がいさい交渉こうしょうのため特例とくれい弁務べんむ使上野うえのけいはんしたがってロンドンへ出張しゅっちょう。6ねん太政官だじょうかん正院しょういん翻訳ほんやくきょく配属はいぞくされ,ウィーン万国博覧会ばんこくはくらんかいふく総裁そうさい佐野さの常民じょうみん随行ずいこう。8ねん大蔵省おおくらしょうやとい。11ねん外務省がいむしょうやといてんじ,パリ万国博覧会ばんこくはくらんかいふく総裁そうさい松方まつかた正義まさよし随行ずいこう,万博ばんぱくざいどく公使館こうしかんづけとなる。15ねん条約じょうやく改正かいせい議会ぎかい,19,20ねん条約じょうやく改正かいせい会議かいぎ東京とうきょうばれ,通訳つうやくかんつとめる。会議かいぎ無期むき延期えんき直後ちょくご,了解りょうかい工作こうさくのため内命ないめいけてヨーロッパ各国かっこく歴訪れきほう,以後いご終生しゅうせいヨーロッパにあって新聞しんぶん論調ろんちょう本省ほんしょうへの報告ほうこくなどに従事じゅうじした。このあいだ1894ねんにちえい条約じょうやく改正かいせい交渉こうしょうのため特命とくめい全権ぜんけん公使こうし青木あおき周蔵しゅうぞういてロンドンへ出張しゅっちょう。またにちしん戦争せんそう,にち戦争せんそうさい世論せろん工作こうさくにも従事じゅうじした。1910ねんくん1とう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょう。<著作>《Ph.Fr.von Siebold’s Letzte Reise nach Japan,1859~1862》

(廣瀬ひろせ靖子やすこ)


シーボルト

没年ぼつねん:1908.8.11(1908.8.11)
生年せいねん:1852.7.21
幕末ばくまつ明治めいじのオーストリア=ハンガリー帝国ていこく外交がいこうかん。ライン河畔かはんボッパルトに医学いがくしゃフィリップの次男じなんとしてまれる。ちち影響えいきょう東洋とうよう文化ぶんか歴史れきし関心かんしんいだく。ちゅうにちイギリス公使館こうしかん通訳つうやくかんあにアレキサンダーが一時いちじ帰国きこくしたさい,その秘書ひしょ日本語にほんごまなび,1869ねんけい一緒いっしょ日本にっぽんつ。明治めいじ5(1872)ねん1がつ日本にっぽん代表だいひょう臨時りんじ通訳つうやく練習れんしゅうせい,10月ウィーン万国博覧会ばんこくはくらんかい日本にっぽん万博ばんぱく委員いいんかい連絡れんらくがかりとなった。よく6ねん1がつ,博覧はくらんかいへの陳列ちんれつひんともにウィーンにき,同年どうねん3がつ名誉めいよ通訳つうやくかん昇任しょうにん,翌年よくねん6がつさい来日らいにちした。明治めいじ16ねん2がつ領事館りょうじかん官房かんぼう書記官しょきかん,その代理だいり公使こうし,横浜よこはま代理だいり領事りょうじ,1とう官房かんぼう書記官しょきかん,上海しゃんはい総領事そうりょうじ代理だいりなどを歴任れきにんし,どう29ねん7がつ10日とおか離日りにちした。『日本にっぽん考古学こうこがく覚書おぼえがき』(1879),『アイヌ民族みんぞく研究けんきゅう』(1881)をく。

(内海うつみたかし)

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シーボルト

ジーボルトとも。江戸えど後期こうきのオランダ商館しょうかん。ドイツじん。ビュルツブルクのうまれ。医学いがく博物学はくぶつがくまなび,1823ねん長崎ながさき出島でじま着任ちゃくにん日本にっぽん研究けんきゅうのかたわら日本人にっぽんじん患者かんじゃ診療しんりょうし,1824ねん長崎ながさき郊外こうがい鳴滝なるたき(なるたき)じゅくもうけて高野たかの長英ちょうえい高良斎こうのりょうさい(こうりょうさい),伊東いとう玄朴げんぼく戸塚とつか静海しずみ美馬みまじゅんさん二宮にのみや敬作けいさくおおくの門人もんじん指導しどう,1826ねんには商館しょうかんちょう江戸えど参府さんぷ同行どうこうした。1828ねんシーボルト事件じけんこし翌年よくねん追放ついほうされたが,にちらん通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつの1859ねん長子ちょうしアレクサンダー〔1846-1911〕をともなってふたた来日らいにちした。著書ちょしょに《日本にっぽん》《日本にっぽん動物どうぶつ》《日本にっぽん植物しょくぶつ》《江戸えど参府さんぷ紀行きこう》などがある。シーボルトの長崎ながさき滞在たいざいちゅう愛人あいじん其扇(そのぎ)(たき)とのあいだまれたむすめ〈いね〉(楠本くすもといね)はのち女医じょいとなっている。アレクサンダーは英国えいこく公使館こうしかんなどの通訳つうやくて,1870ねん―1910ねん日本にっぽん外務省がいむしょうつとめた。→蘭学らんがく
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シーボルト
Philipp Franz Balthasar von Siebold
なま没年ぼつねん:1796-1866

江戸えど後期こうきにオランダひがしインド会社かいしゃ日本にっぽん商館しょうかんづけ医員いいんとして来日らいにちしたドイツじん医師いし。ドイツみはジーボルト。みなみドイツのビュルツブルクにまれる。大学だいがく卒業そつぎょう,1823ねんジャワにわたり,同年どうねん文政ぶんせい6)長崎ながさき来航らいこう出島でじま商館しょうかん勤務きんむのかたわら,許可きょか長崎ながさき郊外こうがい鳴滝なるたきまなべじゅくけん診療しんりょうしょ鳴滝なるたきじゅく)を開設かいせつした。吉雄よしおけんすけらオランダ通詞つうじをはじめ,美馬みまじゅんさん高野たかの長英ちょうえい伊東いとう玄朴げんぼく高良斎こうのりょうさい多数たすう日本人にっぽんじん蘭学らんがくしゃとして育成いくせい門人もんじんたちに課題かだいあたえてオランダによる論文ろんぶん提出ていしゅつさせた。これら提出ていしゅつ論文ろんぶんとおびただしい収集しゅうしゅう資料しりょうにもとづいて日本にっぽん研究けんきゅうすすめ,26ねんはる商館しょうかんちょうド・ステュルレルの江戸えど参府さんぷしたがい,江戸えど天文てんもんかた高橋たかはしけいたもてまく土生はぶげんせき(はぶげんせき)はじめ蘭学らんがくしゃ交際こうさいふかめた。28ねん,いわゆるシーボルト事件じけんこって,翌年よくねん国外こくがい追放ついほうけた。オランダにもどり,研究けんきゅう成果せいか整理せいりして大著たいちょ日本にっぽん》を刊行かんこう(1832-52),《日本にっぽん動物どうぶつ》《日本にっぽん植物しょくぶつ》をまとめた。58ねん安政あんせい5)にちらん通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつされると,翌年よくねんふたた来日らいにち,62ねんまで滞在たいざい同行どうこう来日らいにちした長男ちょうなんアレクサンダーはイギリスちゅう公使館こうしかんいんとなり,いで明治めいじ政府せいふ外務省がいむしょう雇用こようされた。シーボルトの長崎ながさき滞在たいざいちゅう愛人あいじん其扇(そのぎ)とのあいだにできたむすめいねは,楠本くすもといねといい,のち女医じょいとなった。かれの《江戸えど参府さんぷ紀行きこう》は《異国いこく叢書そうしょ》と《東洋文庫とうようぶんこ》に収録しゅうろくされ,《シーボルト日本にっぽん交通こうつう貿易ぼうえき》も《異国いこく叢書そうしょ》に収録しゅうろくされている。
執筆しっぴつしゃ

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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん 「シーボルト」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

シーボルト
Siebold, Philipp Franz von

[せい]1796.2.17. ウュルツブルク
[ぼつ]1866.10.18. ミュンヘン
ドイツの医者いしゃ江戸えど時代じだい後期こうき文政ぶんせい6 (1823) ねん長崎ながさきオランダ商館しょうかん医師いしとして来日らいにち翌年よくねん長崎ながさき郊外こうがい鳴滝なるたき診療しんりょうしょねたがくじゅくひらき,伊東いとう玄朴げんぼく高野たかの長英ちょうえい黒川くろかわりょうやすすうじゅうめい門人もんじん西洋せいよう医学いがくおよび一般いっぱん科学かがく教授きょうじゅした。商館しょうかんちょう江戸えど参府さんぷ随行ずいこう (26) ,日本にっぽんかんする研究けんきゅう資料しりょうをもあつめた。帰国きこくさいし,いわゆるシーボルト事件じけんおこ処罰しょばつされ,文政ぶんせい 12 (29) ねん日本にっぽんから追放ついほうされた。安政あんせい6 (59) ねんオランダ商事しょうじ会社かいしゃいんとしてさい来日らいにち幕府ばくふ外交がいこうにも参与さんよし,文久ぶんきゅう2 (62) ねん帰国きこく。『ニッポン』 Nippon (32~54) ,『日本にっぽん植物しょくぶつ』 Flora Japonica (35~70) ,『日本にっぽん動物どうぶつ』 Fauna Japonica (33~50) など日本にっぽん関係かんけいろんちょおおい。

シーボルト
Siebold, Carl Theodor Ernst von

[せい]1804.2.16. ウュルツブルク
[ぼつ]1885.4.7. ミュンヘン
ドイツの動物どうぶつ学者がくしゃ。 P.F.vonシーボルトの伯父おじにあたる。生物せいぶつ学者がくしゃ家庭かていうまれ,ベルリン,ゲッティンゲンりょう大学だいがくまなんで,一時いちじ開業医かいぎょういいとなんだのち,エルランゲン,フライブルク,ブレスラウ,ミュンヘンかく大学だいがく教授きょうじゅをつとめた。かれ脊椎動物せきついどうぶつを,F.スタニウスが脊椎動物せきついどうぶつ担当たんとうした共著きょうちょ比較ひかく解剖かいぼうがく教科書きょうかしょ』 Lehrbuch der vergleichenden Anatomie (1846) は,それまでの類書るいしょにつきまとっていた哲学てつがくしゅう一掃いっそうし,観察かんさつ事実じじつ基礎きそをおいてかれた比較ひかく解剖かいぼうがくしょとして最初さいしょのものであった。 1852ねんには『動物どうぶつがく雑誌ざっし』 Zeitschrift für wissenschaftliche Zoologieを発刊はっかん。これは生物せいぶつがく専門せんもんとしてもっと重要じゅうようなもののひとつとなった。かれ寄生虫きせいちゅう学者がくしゃとしても著名ちょめいであり,寄生虫きせいちゅうがその生活せいかつかく段階だんかいおうじてことなる種類しゅるい動物どうぶつ寄生きせいする場合ばあいのあることを,実例じつれいをあげてしめした。

シーボルト
Siebold, Alexander Georg Gustav von

[せい]1846.8.16. ライデン
[ぼつ]1911.1.23. テグリー
ドイツの外交がいこうかん。 P.シーボルト長子ちょうし安政あんせい6 (1859) ねんちちさい訪日ほうにち同伴どうはんして来日らいにち三瀬みせ周三しゅうぞうらについて日本語にほんご修得しゅうとくし,のちちゅうにちイギリス公使館こうしかんいん (通訳つうやくかん) となり,明治めいじ3 (70) ねん以後いご日本にっぽん政府せいふ外務省がいむしょう,ローマ,ベルリンの日本にっぽん公使館こうしかん奉職ほうしょく明治めいじ初期しょきから中期ちゅうきにかけて日本にっぽん外交がいこう交渉こうしょう貢献こうけんし,1910ねん在職ざいしょく 40ねんにあたりくんとう瑞宝章ずいほうしょうけた。

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん 「シーボルト」の解説かいせつ

シーボルト
Philipp Franz Jonkheer Balthasar von Siebold

1796.2.17~1866.10.18

ドイツじん医師いし博物学はくぶつがくしゃ。ビュルツブルク出身しゅっしん。1823ねん(文政ぶんせい6)オランダ商館しょうかんづけ医師いしとして長崎ながさき着任ちゃくにん日本にっぽん歴史れきし地理ちり言語げんご動植物どうしょくぶつなどを研究けんきゅう翌年よくねん鳴滝なるたき(なるたき)じゅくひらき,診療しんりょうのかたわらおか研介けんすけ高良斎こうのりょうさい(こうりょうさい)・二宮にのみや敬作けいさく高野たかの長英ちょうえいすうじゅうにん門人もんじん医学いがく博物学はくぶつがく教授きょうじゅし,蘭学らんがく発展はってんおおいに貢献こうけんした。26ねん商館しょうかんちょうしたが江戸えど参府さんぷ桂川かつらがわはじめけん(ほけん)・大槻おおつき玄沢げんたく高橋たかはしけい(かげやす)らと交流こうりゅう。28ねん帰国きこくさい,「だい日本にっぽん沿海えんかい輿地よちぜん」などの禁制きんせいひんかえろうとしたことが発覚はっかくし,翌年よくねん国外こくがい追放ついほう(シーボルト事件じけん)。59ねん(安政あんせい6)オランダ商事しょうじ会社かいしゃ顧問こもんとしてさい来日らいにち江戸えど幕府ばくふ外交がいこうにも参与さんよし,62ねん(文久ぶんきゅう2)帰国きこく。ミュンヘンでぼっした。著書ちょしょ日本にっぽん」「日本にっぽん植物しょくぶつ」「日本にっぽん動物どうぶつ」。

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デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus 「シーボルト」の解説かいせつ

シーボルト Siebold, Philipp Franz von

1796-1866 ドイツの医師いし,博物学はくぶつがくしゃ
1796ねん2がつ17にちまれ。楠本くすもと(くすもと)いねのちち文政ぶんせい6ねん(1823)長崎ながさき出島でじまのオランダ商館しょうかんとして来日らいにち鳴滝なるたき(なるたき)じゅくなどで医学いがく,博物学はくぶつがくをおしえ,日本にっぽん洋学ようがく発展はってんにつくす。11ねん国禁こっきん地図ちず海外かいがいしが発覚はっかくし,国外こくがい追放ついほうとなる(シーボルト事件じけん)。帰国きこく日本にっぽん」「日本にっぽん植物しょくぶつ」などをあらわす。安政あんせい6ねん再来さいらい長男ちょうなん,次男じなんものち日本にっぽん外交がいこうかんとして活躍かつやく。1866ねん10がつ18にち死去しきょ。70さい。ビュルツブルク出身しゅっしん

シーボルト Siebold, Heinrich Philipp von

1852-1908 ドイツじん外交がいこうかん
1852ねん7がつ21にちドイツのボッパルトまれ。P.F.シーボルトの次男じなん明治めいじ2ねん(1869)あにA.G.シーボルトにしたがい来日らいにち。オーストリア-ハンガリー帝国ていこく公使館こうしかん代理だいり公使こうし,横浜よこはま領事りょうじ代理だいり,上海しゃんはい総領事そうりょうじなどをつとめた。勤務きんむのかたわら,考古学こうこがく研究けんきゅうにあたり,「考古こうこせつりゃく」をあらわした。1908ねん8がつ11にち死去しきょ。56さい

シーボルト Siebold, Alexander Georg Gustav von

1846-1911 ドイツじん外交がいこうかん
1846ねん8がつ16にちオランダのライデンまれ。P.F.シーボルトの長男ちょうなん安政あんせい6ねん(1859)さい来日らいにちちちとともに長崎ながさきにくる。文久ぶんきゅう2ねんちゅうにちイギリス公使館こうしかん通訳つうやくかんとなり,慶応けいおう3ねん幕府ばくふおう使節しせついちぎょう随行ずいこうした。明治めいじ3ねんから日本にっぽん政府せいふにやとわれ,ベルリン駐在ちゅうざい日本にっぽん公使館こうしかん書記官しょきかんなどをつとめた。1911ねん1がつ23にち死去しきょ。64さい

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旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん 「シーボルト」の解説かいせつ

シーボルト
Philipp Franz von Siebold

1796〜1866
江戸えど後期こうき来日らいにちした,ドイツの医師いし博物はくぶつ学者がくしゃ
1823ねんオランダ商館しょうかんとして長崎ながさき来日らいにち鳴滝なるたきじゅくひらいて高野たかの長英ちょうえい小関おぜきさんえいらに医学いがくなど西欧せいおうしょ科学かがく教授きょうじゅ洋学ようがく発展はってん貢献こうけんした。'28ねんシーボルト事件じけんをおこし追放ついほうされたが,'58ねんらん通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつ追放ついほう解除かいじょされ,'59ねん再来さいらい幕府ばくふ外交がいこう顧問こもんとなった。'62ねん帰国きこく主著しゅちょに『日本にっぽん』『日本にっぽん植物しょくぶつ』『日本にっぽん動物どうぶつ』など。

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367にち誕生たんじょう日大にちだい事典じてん 「シーボルト」の解説かいせつ

シーボルト

生年月日せいねんがっぴ:1846ねん8がつ16にち
ドイツの外交がいこうかん
1911ねんぼつ

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうちシーボルト言及げんきゅう

【アジサイ】より

日本にっぽんで〈〉の漢字かんじてるのはこのためだとするせつもある。シーボルトはアジサイをHydrangea otaksaづけたが,この〈オタクサ〉はかれ愛人あいじんだった長崎ながさき丸山まるやま遊女ゆうじょ〈おたきさん〉(本名ほんみょう楠本くすもとたき)に由来ゆらいする。なおアジサイの語源ごげんには諸説しょせつあるが,《大言たいげんうみ》にある〈しゅう(あづ)しん(さ)あい(あい)の〉というせつ有力ゆうりょくされている。…

伊藤いとう圭介けいすけ】より

本草ほんぞう水谷みずたに豊文とよふみ蘭学らんがく藤林ふじばやしやすしすけ吉雄よしお常三つねぞう野村のむらたてさかえまなぶ。1827ねん(文政ぶんせい10)長崎ながさきシーボルトまなぶ。名古屋なごや本草ほんぞう同好どうこうかいひゃくしゃ(しようひやくしや)の研究けんきゅう活動かつどう中心ちゅうしんとなる。…

伊能いのう】より

…これは測量そくりょう九州きゅうしゅう以外いがいについて忠敬ちゅうけい測量そくりょう結果けっかもちい,在来ざいらい種々しゅじゅくに絵図えず参考さんこうにして高橋たかはしけいが1809ねん(文化ぶんか6)編修へんしゅうしたものであり,〈日本にっぽん輿地よちわら(かりせい日本にっぽん輿地よちぜん)〉とばれる。 1829ねん(文政ぶんせい12),シーボルト帰国きこくするさい,その所持しょじひんなか伊能いのうとくしょううつしがあることが発覚はっかくして,この地図ちずあたえた高橋たかはしけいらえられて翌年よくねん獄死ごくしした。しかしシーボルトはこの押収おうしゅうされることを予知よちし,徹夜てつやうつしてバタビアへおくった。…

かく】より

…1758ねん(たかられき8)並木なみき正三しょうさんまわ舞台ぶたい創案そうあんして大当おおあたりした。1826ねん(文政ぶんせい9)江戸えど参府さんぷ途次とじシーボルトが《妹背山しはいやま婦女ふじょ庭訓ていきん》を見物けんぶつした劇場げきじょう大西おおにし芝居しばい衰退すいたいも,幕末ばくまつまで一貫いっかんしてなか芝居しばい(中座ちゅうざ)とともだい芝居しばい劇場げきじょうとして隆盛りゅうせいたもつ。…

川原かわはら慶賀けいが】より

通称つうしょうのぼり与助よすけ種美かねとみ,聴月ろう主人しゅじんともいい,のち田口たぐちしょうした。石崎いしざきとおるおもえまなんだが,1823ねん(文政ぶんせい6)に来朝らいちょうしたシーボルト画才がさいいだされ,オランダ商館しょうかんへの出入でいりもゆるされた。25ねんにはシーボルトがジャワからびよせたオランダじん画家がかフィレネーフェK.H.Villeneuveに洋風ようふうほうまなぶ。…

くじらこころざし】より

画工がこうが,クジラを実見じっけんし,写生しゃせいしたものがもとになっている。来日らいにちしたP.F.vonシーボルト日本にっぽんのクジラに関心かんしんをもち,門人もんじん高野たかの長英ちょうえい石井いしいそうけんおか研介けんすけたちにクジラにかんする論文ろんぶんかせた。シーボルトは,論文ろんぶんから知識ちしき自著じちょ日本にっぽんNippon》(1832‐52),《日本にっぽん動物どうぶつFauna Japonica》(1833‐50)で利用りようしている。…

紅茶こうちゃ】より

…しかしそのこころみはかならずしも成功せいこうしなかった。1826ねんシーボルトが日本にっぽん入手にゅうしゅしたちゃしゅをジャワにおくったところ,よく27ねん1500ほんちゃじゅそだった。またヤコブソンによる中国ちゅうごくからの移植いしょく成功せいこうし,それがそののインドネシアのちゃ産業さんぎょう基礎きそとなった。…

石器せっき時代じだい】より

…のち,イギリスのJ.ラボックは,石器せっき時代じだい旧石器時代きゅうせっきじだいしん石器せっき時代じだいとにけ(1865),またイギリスのH.M.ウェストロップが両者りょうしゃあいだちゅう石器せっき時代じだい存在そんざい提唱ていしょうした(1872)。日本にっぽん石器せっき時代じだい存在そんざいしたことは,P.F.vonシーボルトの《日本にっぽん》(1832‐51)ではじめて指摘してきされた。明治めいじ時代じだいには,いしせきぞくなどの呼称こしょうもあったが,三宅みやけ米吉よねきち石器せっき時代じだいとよんで(1894)以来いらいこの普及ふきゅうした。…

【ドイツ】より

かれは1690ねん(元禄げんろく3)オランダ商館しょうかん医師いしとして来日らいにち,2年間ねんかん滞在たいざいあいだに《日本にっぽん》をあらわした。いで1822ねんおなじく医師いしとしてシーボルトは,鳴滝なるたきじゅくひらき,おおくの門人もんじん医学いがくをはじめ西洋せいよう科学かがく技術ぎじゅつ伝授でんじゅして,日本にっぽん文化ぶんかおおきな影響えいきょうあたえた。またかれは,長崎ながさきから江戸えどへの参府さんぷ紀行きこうしるすとともに,弟子でしたちに日本にっぽん歴史れきし地理ちり神話しんわ動植物どうしょくぶつとうについての報告ほうこくしょ提出ていしゅつさせ,それにもとづいて名著めいちょ日本にっぽん》《日本にっぽん植物しょくぶつ》《日本にっぽん動物どうぶつ》をうた。…

鳴滝なるたきじゅく】より

シーボルト長崎ながさきもうけた学舎がくしゃ。シーボルトは1823ねん(文政ぶんせい6)に出島でじま商館しょうかんづけ医師いしとして日本にっぽん着任ちゃくにんし,長崎ながさき奉行ぶぎょう特別とくべつ好意こういにより,はじめ商館しょうかん外科げかしつで,ついで市内しない外科医げかいよし雄幸ゆうこうおよびなら林宗りんそうけん私塾しじゅくりて,患者かんじゃ診療しんりょう医学いがくせい教育きょういくにあたった。…

日本にっぽん】より

シーボルト著書ちょしょ原題げんだいは《Nippon》。…

【ピアノ】より

特殊とくしゅなものとしては,19世紀せいきまつからレコードが普及ふきゅうするまで一時いちじ流行りゅうこうしたロール使つかった自動じどうピアノ(ピアノラ)や,つる振動しんどう電気でんきてき増幅ぞうふくする電気でんきピアノ,電子でんしおん合成ごうせいにより人工じんこうてきおとつく電子でんしピアノなどがあり,とくに電子でんしピアノは音楽おんがく教育きょういくやポピュラー音楽おんがくでもよく使用しようされている。
日本にっぽんにおけるピアノ】
 日本にっぽんにピアノが伝来でんらいしたのは幕末ばくまつで,シーボルトが1823ねん(文政ぶんせい6)に持参じさんしたものがおそらく現存げんそん最古さいこのものとおもわれる(はぎ熊谷くまがや美術館びじゅつかん)。80ねんには音楽おんがく取調とりしらべかけ教師きょうしとして来日らいにちしたメーソンLuther Whiting Mason(1818‐96)がアップライト・ピアノを持参じさんしており,そのどうかけでもアメリカからスクエア・ピアノを10だい購入こうにゅうしている。…

【ホフマン】より

…ドイツのビュルツブルクうまれのオランダじんで,初期しょき日本にっぽん学者がくしゃ。1830ねんアムステルダムでP.F.vonシーボルトってその助手じょしゅとなり,のちライデン大学だいがく教授きょうじゅとして日本にっぽんがく講座こうざ担当たんとうした。かれはシーボルトの大作たいさく日本にっぽん》(1832‐51)の編集へんしゅう刊行かんこう協力きょうりょくしたほか,日本にっぽんしょのオランダやく刊行かんこうにも尽力じんりょくしたが,とくにそのちょ日本にっぽん文法ぶんぽうJapansche Spraakleer》(1867)は,この方面ほうめんにおける画期的かっきてき労作ろうさくとして記憶きおくさるべきものである。…

最上もがみ徳内とくない】より

…98ねん近藤こんどう重蔵しげぞうとともに択捉島えとろふとうわたり,1805(文化ぶんか2),06ねん目付めつけ遠山とおやま景晋かげくに(かげみち)の西にし蝦夷えぞ調査ちょうさ案内あんないし,07ねんにははこかん奉行ぶぎょう支配しはい調ちょうやくなみとなり,ロシアせん来航らいこうさい斜里しゃり樺太からふと派遣はけんされてしょはんへい監察かんさつにあたった。26ねん(文政ぶんせい9)シーボルト江戸えどたとき,そのもとめにおうじて自分じぶん蝦夷えぞ測量そくりょうし,アイヌ辞典じてん編纂へんさん援助えんじょした。シーボルトはそのちょ日本にっぽん》にこれらのことをせ,徳内とくない業績ぎょうせきをたたえた。…

※「シーボルト」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

出典しゅってん株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばん)」

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