日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) 「東ひがし韃紀行きこう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 東ひがし韃紀行きこうとうだつきこう 間宮まみや林蔵りんぞう(まみやりんぞう)が樺太からふと(からふと)(サハリン)が島しまであることを発見はっけんしたときの地誌ちし・探検たんけん記き。3巻かん、付録ふろくよりなる。『東ひがし韃地方ちほう紀行きこう』が正式せいしき名めい。間宮まみや林蔵りんぞうが口述こうじゅつし、師しの養子ようし村上むらかみ貞助さだすけ(ていすけ)が編纂へんさん(へんさん)した。東ひがし韃は東ひがし韃靼だったん(ひがしだったん)の意い。林蔵りんぞうは幕府ばくふの命いのちを受うけ1808年ねん(文化ぶんか5)から翌年よくねんに樺太からふとから黒竜江こくりゅうこう岸きしデレンに至いたった。本書ほんしょにはその行程こうていと各地かくちの諸しょ民族みんぞくの風俗ふうぞく・生態せいたいが記しるされている。1810年ねん『北きた蝦夷えぞ(きたえぞ)地図ちず』、『北きた夷えびす分界ぶんかい余話よわ』(『北きた蝦夷えぞ図説ずせつ』の原本げんぽん)とともに著あらわされ、翌年よくねん幕府ばくふに献上けんじょうされた。本書ほんしょの内容ないようがシーボルトの『日本にっぽん』によってヨーロッパに紹介しょうかいされ、間宮まみや海峡かいきょうの存在そんざいが知しられることとなった。『日本にっぽん庶民しょみん生活せいかつ史料しりょう集成しゅうせい』第だい4巻かん(1969・三さん一いち書房しょぼう)所収しょしゅう。[船津ふなつ 功こう]『大谷おおや恒彦つねひこ訳やく『東ひがし韃紀行きこう』(教育きょういく社しゃ歴史れきし新書しんしょ)』[参照さんしょう項目こうもく] | 間宮まみや林蔵りんぞう 出典しゅってん 小学館しょうがくかん 日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)について 情報じょうほう | 凡例はんれい
百科ひゃっか事典じてんマイペディア 「東ひがし韃紀行きこう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 東ひがし韃紀行きこう【とうだつきこう】 間宮まみや林蔵りんぞうの旅行りょこう記き。3巻かん。1808年ねん―1809年ねんにわたる樺太からふと(からふと)(サハリン)・黒竜江こくりゅうこう(アムール川かわ)下流かりゅうデレンに至いたる踏査とうさを村上むらかみ貞助さだすけ(秦はた貞さだ廉れん)に口述こうじゅつしてまとめたもの。1810年ねんに成なる。シーボルトはその著ちょ《日本にっぽん》にこれを訳述やくじゅつしてヨーロッパに紹介しょうかいした。 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ百科ひゃっか事典じてんマイペディアについて 情報じょうほう
ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてん 「東ひがし韃紀行きこう」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 東ひがし韃紀行きこうとうたつきこう 間宮まみや林蔵りんぞう口述こうじゅつ,村上むらかみ貞助さだすけ編へんの北方ほっぽう地理ちり誌し。文化ぶんか6 (1809) 年刊ねんかん,3巻かん。文化ぶんか5 (08) 年ねん林蔵りんぞうが幕命ばくめいにより樺太からふとから満州まんしゅうに渡わたり帰国きこくするまでが記しるされている。 出典しゅってん ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんについて 情報じょうほう