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蘭学(ランガク)とは? 意味や使い方 - コトバンク

蘭学らんがくみ)ランガク

デジタル大辞泉だいじせん蘭学らんがく」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

らん‐がく【×蘭学らんがく

江戸えど中期ちゅうき以降いこうオランダによって西洋せいよう学術がくじゅつ文化ぶんか研究けんきゅうした学問がくもんとおる年間ねんかん(1716~1736)、青木あおき昆陽こんよう野呂のろ元丈げんじょうのろげんじょう蘭書らんしょ訳読やくどくはじまり、前野まえの良沢りょうたくまえのりょうたく杉田すぎた玄白げんぱく大槻おおつき玄沢げんたくおおつきげんたく多数たすう蘭学らんがくしゃ輩出はいしゅつ医学いがく天文学てんもんがく暦学れきがく兵学へいがく物理ぶつりがく化学かがくなど自然しぜん科学かがく全般ぜんぱんにわたった。

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らん‐がく【蘭学らんがく

  1. 名詞めいし 江戸えど中期ちゅうき以降いこうこり、オランダかたりによって西洋せいよう学術がくじゅつ文化ぶんか研究けんきゅうした学問がくもんとおる年間ねんかんいちなないちろくさんろく)、幕府ばくふ書物しょもつ奉行ぶぎょう青木あおき昆陽こんよう蘭書らんしょ訳読やくどくをしたのにはじまり、前野まえの良沢りょうたく杉田すぎた玄白げんぱく大槻おおつき玄沢げんたく医学いがくしゃ中心ちゅうしんとする多数たすう蘭学らんがくしゃあらわれた。やがて研究けんきゅう天文てんもん暦学れきがく地理ちり博物はくぶつ物理ぶつり化学かがく兵学へいがくなどの分野ぶんやにもおよび、西欧せいおう事情じじょう紹介しょうかいして、わがくに近代きんだいおおいに貢献こうけんした。オランダがく
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「蘭学らんがくとは、すなわかずらん学問がくもんうんことにて、阿蘭陀おらんだ学問がくもんをすることなり」(出典しゅってん蘭学らんがく階梯かいてい(1783)例言れいげん)

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)蘭学らんがく」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

蘭学らんがく
らんがく

江戸えど時代じだいにオランダをつうじ、またはオランダかいして日本にっぽんつたわった西洋せいよう学問がくもん技術ぎじゅつ総称そうしょう鎖国さこく政策せいさくした江戸えど時代じだいに、日本にっぽん渡航とこう許可きょかされていた唯一ゆいいつ西洋せいよう国家こっかであるオランダは、日本にっぽんとの貿易ぼうえきいとなむための商館しょうかんを、17世紀せいきはじめに長崎ながさき出島でじま(でじま)にて(はじめは平戸ひらど(ひらど))、きびしい制限せいげんけてはいたがさかんに西洋せいよう文物ぶんぶつ日本にっぽんつたえた。

 蘭学らんがく内容ないようてきにみれば、医学いがく天文学てんもんがく兵学へいがくなどの自然しぜん科学かがく系統けいとうぞくするものがおもであったが、これは鎖国さこく以前いぜん南蛮なんばんポルトガル、スペイン)を経由けいゆして日本にっぽんつたえられた西洋せいよう学術がくじゅつ名残なごり(なごり)ともかんがえられる。西洋せいよう学術がくじゅつ伝承でんしょうにあたった人々ひとびとはオランダがわではオランダ商館しょうかん医師いし主役しゅやくで、そのほかに商館しょうかんちょう書記しょきなども関係かんけいし、日本にっぽんがわではオランダ通詞つうじ(つうじ)が役職やくしょくじょうからも当然とうぜん中心ちゅうしんであり、そのほかは特別とくべつ許可きょか有志ゆうしものであった。長崎ながさき中心ちゅうしんおこなわれた蘭学らんがくは、オランダ商館しょうかんちょういちぎょうが、最初さいしょとしに1かい、1790ねん寛政かんせい2)からは4ねんに1かいおこな江戸えど参府さんぷ刺激しげきとなって、江戸えどそのでしだいにひろおこなわれるようになった。

大鳥おおとりらん三郎さぶろう

揺籃ようらん蘭学らんがく

初期しょきのころの蘭学らんがくはいわゆるようまねの程度ていどのものにすぎなかったが、あきらかに西洋せいよう学術がくじゅつしょ影響えいきょうがみられる。たとえば、医学いがくにおけるならりん鎮山(ならばやしちんざん)の『べにえびす(こうい)外科げかそうつたえ』、天文てんもんにおける北島きたじましんじ(きたじまけんしん)の『紅毛こうもう天地てんちぜいせつ(ぜいせつ)』などはいずれもその成果せいかであるといえる。8だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむね(よしむね)の西欧せいおう科学かがく奨励しょうれい殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさくは、1740ねんもとぶん5)ついに青木あおき昆陽こんよう(こんよう)、野呂のろ元丈げんじょう(のろげんじょう)の2人ふたりめいじてオランダまなばせるにいたった。これがおおきな契機けいきとなって、杉田すぎた玄白げんぱく(げんぱく)がいう本格ほんかくてき蘭学らんがくがおこり、杉田すぎた玄白げんぱく前野まえの良沢りょうたく(りょうたく)、中川なかがわ淳庵じゅんあん(じゅんあん)、桂川かつらがわはじめしゅう(かつらがわほしゅう)らによるクルムス人体じんたい解剖かいぼうしょ翻訳ほんやく事業じぎょうが1771ねん明和めいわ8)にはじまり、1774ねん安永やすなが3)に日本にっぽん最初さいしょ西洋せいよう医学いがくしょ翻訳ほんやくである『解体かいたい新書しんしょ』(4かん)が出版しゅっぱんされた。このしょ出現しゅつげん日本にっぽん医学いがくにとってまさに画期的かっきてきなことであった。そしてこれが蘭学らんがくそのものにたいしてもおおきな推進すいしんりょくとなった。

 杉田すぎた玄白げんぱく桂川かつらがわはじめしゅう蘭学らんがくまなんだ宇田川うだがわ玄随げんずい(げんずい)、前野まえの良沢りょうたく杉田すぎた玄白げんぱく蘭学らんがくおしえをけた大槻おおつき玄沢げんたく(おおつきげんたく)はともにおおいに蘭学らんがくはげみ、ついに杉田すいた桂川かつらがわならんで江戸えど蘭学らんがくよん大家たいかしょうせられるにいたった。宇田川うだがわ玄随げんずい日本にっぽん最初さいしょ西洋せいよう内科ないかしょ西にしせつ内科ないかせんよう』を訳述やくじゅつし、大槻おおつき玄沢げんたくは『蘭学らんがく階梯かいてい(かいてい)』をあらわし、蘭学らんがくしゃとしての地位ちいかためた。これとほぼどう時期じきに、長崎ながさき通詞つうじたちによるオランダ研究けんきゅう本格ほんかくてきおこなわれるようになり、西善にしぜん三郎さぶろう本木もとぎひとし太夫たゆう(もときにだゆう)(りょうえい(よしなが))、志筑しづき(しづき)忠雄ただお馬場ばば佐十郎さじゅうろうらのすぐれた蘭学らんがくしゃ輩出はいしゅつした。

大鳥おおとりらん三郎さぶろう

民間みんかん学者がくしゃ活躍かつやく

江戸えど主流しゅりゅうはっした蘭学らんがくは、その宇田川うだがわ大槻おおつき門下もんかから人々ひとびとによってしだいに京都きょうと大坂おおさかをはじめとするしょ地方ちほうへとひろがっていった。ここでにつくのは、これら蘭学らんがく率先そっせんして研究けんきゅうした人々ひとびとは、桂川かつらがわはじめしゅうのぞいて、はいずれもいわば民間みんかん学者がくしゃあるいは陪臣ばいしん医者いしゃであったことである。これは蘭学らんがくのもつひとつのおおきな特徴とくちょうであるが、幕府ばくふ当局とうきょくもようやく蘭学らんがくたいする認識にんしきあらため、1811ねん文化ぶんか8)天文てんもんかたあらたにしげるしょ和解わかい御用ごよう(ばんしょわげごよう)のいちきょくもうけ、外国がいこく文書ぶんしょ翻訳ほんやくそなえた。馬場ばば佐十郎さじゅうろう大槻おおつき玄沢げんたく2人ふたりわけいんにんぜられ、オランダ書籍しょせき翻訳ほんやくにあたった。2人ふたりはとりあえずショメルの百科全書ひゃっかぜんしょらん訳本やくほん重訳じゅうやく着手ちゃくしゅした(翻訳ほんやく事業じぎょう翻訳ほんやくしゃがかわりながら1846ねんひろし3)までつづき、『厚生こうせい新編しんぺん』とだいされた)。またこのころに、当時とうじのオランダ商館しょうかんちょうドゥーフ長崎ながさきのオランダ通詞つうじすうにんとともにハルマのあららぎふつ対訳たいやく辞書じしょ和訳わやくこころみ、そのだいいち稿こうり、らん辞書じしょ(『みちやくほうなんじ(ドゥーフ・ハルマ)』、別名べつめい長崎ながさきハルマ』)ができあがった。これによって蘭学らんがくあたらしい段階だんかいむかえたが、オランダ以外いがいしょ外国がいこくとの折衝せっしょう複雑ふくざつするにつれて、英語えいご、ロシア、その外国がいこく研究けんきゅうおこなわれるようになり、蘭学らんがくのもつ意味いみがそれまでのものとはすこしずつわってきた。そして洋学ようがくということばがまれ、使つかわれるようになった。この時期じき西洋せいよう医学いがくしょ翻訳ほんやく出版しゅっぱんならんで、志筑しづき忠雄ただおの『暦象れきしょう新書しんしょ』、帆足ほあし万里ばんり(ほあしばんり)の『窮理きゅうりどおり(きゅうりつう)』、青地あおち林宗りんそう(あおちりんそう)の『うみかん瀾(きかいかんらん)』、川本かわもとみゆきみんの『うみかん広義こうぎ』、宇田川うだがわよう(ようあん)の『しゃみつひらけむね(せいみかいそう)』『うえがくけいばら』など、天文学てんもんがく地理ちりがく物理ぶつりがく化学かがく植物しょくぶつがくなどの西洋せいよう学術がくじゅつしん知識ちしき蘭学らんがくしゃによってつたえられた。

大鳥おおとりらん三郎さぶろう

シーボルトの影響えいきょうりょく

日本にっぽん渡来とらいしたおおくのオランダ商館しょうかん医師いしのなかには、西洋せいよう学問がくもん技術ぎじゅつ日本にっぽんつたえるというめん積極せっきょくてき活動かつどうしたひとすくなくない。ケンペル(1690ねん来日らいにち)、ツンベルク(1775ねん来日らいにち)らはそのれいであるが、1823ねん文政ぶんせい6)に来日らいにちしたシーボルトほどおおきな足跡あしあと日本にっぽんのこしたひとはなかった。シーボルトは在日ざいにちちゅうおおくの日本人にっぽんじん門下生もんかせい養成ようせいしたばかりでなく、『日本にっぽん』『日本にっぽん植物しょくぶつ』『日本にっぽん動物どうぶつ』などをあらわし、積極せっきょくてき日本にっぽんをヨーロッパに紹介しょうかいしたことでも、とくに記憶きおくされるべきひとである。なお、1828ねんシーボルトの帰国きこくさいしてこった事件じけんシーボルト事件じけん)は、その思想しそうてき蘭学らんがくしゃ束縛そくばくするきっかけとなった。また平賀ひらが源内げんない高野たかの長英ちょうえい進歩しんぽてき蘭学らんがくしゃによる幕府ばくふ批判ひはん弾圧だんあつされた「蛮社のごく」(1839)も、その洋学ようがくしゃおおきな影響えいきょうおよぼした。蘭学らんがく時代じだい後期こうきに、大坂おおさかひらかれた緒方おがた洪庵こうあん(こうあん)のてきときじゅくてきじゅく)はすぐれた蘭学らんがくしゃおお輩出はいしゅつし、明治めいじ時代じだい各界かくかい多数たすう人材じんざいおくんだことは特筆とくひつされるべき業績ぎょうせきといえる。

大鳥おおとりらん三郎さぶろう

蘭学らんがくから英学えいがく

蘭学らんがくかいしておこなわれてきたしょ外国がいこくとの折衝せっしょうは、やがて直接的ちょくせつてきそれぞれくに交渉こうしょうせざるをえなくなり、蘭学らんがく一転いってんして国防こくぼうのための研究けんきゅうとしておこなわれるようになり、多分たぶん軍事ぐんじ科学かがくした。一方いっぽう鎖国さこく開国かいこく攘夷じょうい(じょうい)―通商つうしょう相反あいはんする主張しゅちょうはげしくたたかわされるようになると、蘭学らんがく本質ほんしつてきには開国かいこくがわにたったが、実際じっさいには幕府ばくふ当局とうきょくおよびしょはん軍備ぐんび充実じゅうじつのためにおおいに利用りようされた。開国かいこく国是こくぜさだまると、おおくの外国がいこくじん渡来とらいするとともに、オランダ以外いがい外国がいこくつたえられ、ことに英語えいご非常ひじょういきおいでひろまっていった。しかしそれでもオランダとオランダおおきな影響えいきょうりょく維持いじつづけていたといえる。

 1855ねん安政あんせい2)オランダから蒸気じょうきせんおくられたのをとして長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょもうけられ、オランダからまねかれた海軍かいぐん将兵しょうへいがそこの教官きょうかんとなって、海軍かいぐんかんするしょがく教授きょうじゅした。また同所どうしょに1857ねんまねかれたオランダ海軍かいぐん軍医ぐんいのポンペがおおやけ西洋せいよう医学いがく教授きょうじゅした。さらにそのとし江戸えどしげるしょ調ちょうしょ(ばんしょしらべしょ)がひらかれ、箕作みつくり阮甫げんぽ(みつくりげんぽ)・川本かわもとみゆきみんらの蘭学らんがくしゃ教授きょうじゅかた任命にんめいされ、蘭学らんがく教授きょうじゅ研究けんきゅうにあたった。その翌年よくねんには江戸えど種痘しゅとうしょ(しゅとうしょ)(西洋せいよう医学いがくしょ)が開設かいせつされ、教授きょうじゅ解剖かいぼう種痘しゅとうの3けて、西洋せいよう医学いがく研究けんきゅうおこなわれた。中央ちゅうおうにおけるこのような蘭学らんがくをめぐるしょ施設しせつかれるにともない、薩摩さつま(さつま)(鹿児島かごしま)、肥前ひぜん(ひぜん)(佐賀さが長崎ながさき)、長門ながと(ながと)(山口やまぐち)、越前えちぜん(えちぜん)(福井ふくい)のかくはんにも同様どうようのものがひらかれ、さかんに西洋せいよう文化ぶんか移入いにゅうこころみられた。

 このように蘭学らんがくは、開国かいこくもなおしばらくのあいだは、来日らいにちしたしょ外国がいこくあいだ中心ちゅうしんてき地位ちいたもっていたが、しだいにその地位ちいゆずり、しゅとして英学えいがくさかんになるのと反比例はんぴれいして影響えいきょうりょくよわめていった。しかし江戸えど時代じだいから明治めいじ初期しょき欧米おうべい諸国しょこく文化ぶんか日本にっぽん移入いにゅうし、吸収きゅうしゅうするうえで蘭学らんがくたした役割やくわりおおきく、日本にっぽん文化ぶんかあたえた影響えいきょういちじるしかった。

大鳥おおとりらん三郎さぶろう

板沢いたざわ武男たけおちょにちらん文化ぶんか交渉こうしょう研究けんきゅう』(1959・吉川弘文館よしかわこうぶんかん)』沼田ぬまた次郎じろうちょ洋学ようがく伝来でんらい歴史れきし』(1960・至文しぶんどう)』佐藤さとうあきらかいちょ洋学ようがく研究けんきゅう』(1980・中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ)』


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百科ひゃっか事典じてんマイペディア蘭学らんがく」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

蘭学らんがく【らんがく】

江戸えど時代じだい,オランダつうじて,西洋せいよう文化ぶんか学術がくじゅつ研究けんきゅうした学問がくもん鎖国さこく日本にっぽんでは,オランダをつうじてのみヨーロッパの近代きんだいしょ科学かがくせっすることができた。8だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむね蘭書らんしょ輸入ゆにゅうきんをゆるめ,青木あおき昆陽こんよう野呂のろ元丈げんじょうらにオランダまなばせ実学じつがく摂取せっしゅさせようとしてから発展はってん前野まえの良沢りょうたく杉田すぎた玄白げんぱくによる《解体かいたい新書しんしょ》の翻訳ほんやく医学いがく発展はってんうながし,志筑しづき忠雄ただおは《暦象れきしょう新書しんしょ》でニュートン力学りきがく紹介しょうかいした。また生物せいぶつがく化学かがく天文学てんもんがく地理ちりがくなど自然しぜん科学かがく全般ぜんぱん研究けんきゅうおこなわれ,大槻おおつき玄沢げんたくは《蘭学らんがく階梯かいてい》をあらわした。やがて幕府ばくふ思想しそうてき統制とうせいつよめ,シーボルト事件じけん高橋たかはしけいや蛮社のごく渡辺わたなべ崋山かざん高野たかの長英ちょうえいのように弾圧だんあつけるものもた。幕末ばくまつ直接ちょくせつ英語えいごフランス語ふらんすごによる学問がくもん研究けんきゅうはじまると,洋学ようがくという名称めいしょうもちいられるようになった。
関連かんれん項目こうもく青地あおち林宗りんそう稲村いなむら三伯さんぱく宇田川うだがわ玄随げんずい緒方おがた洪庵こうあんオランダ川上かわかみ冬崖とうがい川本かわもとみゆきみん咸宜えん朽木くちきあきらつな小石こいしもとしゅん小関おぜきさんえい実学じつがく志筑しづき忠雄ただおシーボルト鷹見たかみ泉石せんせき通事つうじ通詞つうじドゥーフ中川なかがわ淳庵じゅんあん中村なかむら正直まさなお鳴滝なるたきじゅく馬場ばば佐十郎さじゅうろうハルマ和解わかい伏屋ふしや帆足ほあし万里ばんり柳河やなかわ春三しゅんさん山村さんそんざいすけ洋風ようふう蘭学らんがく事始ことはじめ

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蘭学らんがく
らんがく

江戸えど中期ちゅうき幕末ばくまつ西洋せいよう学術がくじゅつ西洋せいよう事情じじょうかんする学問がくもん
鎖国さこく時代じだいにオランダじんかいしてまなんだために蘭学らんがくしょうするが,ひろ西欧せいおう学術がくじゅつ対象たいしょうとする。はじ長崎ながさきのオランダ通詞つうじ知識ちしきによっていたが,1720ねんだい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむねまくはん体制たいせい補強ほきょうのため実学じつがく奨励しょうれいし,かんやく洋書ようしょ輸入ゆにゅうきんをゆるめ,これが蘭学らんがく研究けんきゅう端緒たんしょとなった。青木あおき昆陽こんよう野呂のろ元丈げんじょうらの登用とうよう実学じつがくひらいた吉宗よしむね殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさく一環いっかんである。蘭学らんがく医学いがく研究けんきゅうあたえた影響えいきょうおおきく,前野まえの良沢りょうたく杉田すぎた玄白げんぱくらは『解体かいたい新書しんしょ』を翻訳ほんやくし,医学いがくかい画期的かっきてき業績ぎょうせきのこした。天文学てんもんがくでは志筑しづき忠雄ただおの『暦象れきしょう新書しんしょ』,辞典じてんでは稲村いなむら三伯さんぱくの『ハルマ和解わかい』が刊行かんこうされた。地理ちり物理ぶつり化学かがく分野ぶんやでも,蘭学らんがく導入どうにゅうにより近代きんだいてき研究けんきゅうほう確立かくりつ成果せいかいちじるしかった。そして蘭学らんがくのもつ合理ごうりてき批判ひはん精神せいしん司馬しば江漢こうかん山片やまがたわだかまもも (やまがたばんとう) のような封建ほうけんてき身分みぶん制度せいど鎖国さこく政策せいさくへのするど批判ひはんし,そのため幕府ばくふ弾圧だんあつつよまり,シーボルト事件じけん・蛮社のごくなどがおこった。開国かいこく思想しそうとして開明かいめいろんしゃ影響えいきょうあたえ,明治維新めいじいしん若干じゃっかん曲折きょくせつはあったが,文明開化ぶんめいかいか実学じつがく思想しそう原動力げんどうりょくとなり,近代きんだい文化ぶんか学問がくもん発達はったつをもたらした。なお,幕末ばくまつ開国かいこく以後いごしょ外国がいこくとの交流こうりゅう進展しんてんするなかで,英語えいごフランス語ふらんすご・ロシアなどが必要ひつようとなるにつれ,蘭学らんがく洋学ようがくとしてとらえられていく。

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん蘭学らんがく」の解説かいせつ

蘭学らんがく
らんがく

江戸えど時代じだい,オランダつうじてまなばれた西洋せいよう学術がくじゅつ文化ぶんか技術ぎじゅつ西洋せいよう知識ちしき,ならびにその習得しゅうとく総称そうしょうにちらん交渉こうしょう初期しょきにはオランダ通詞つうじ医術いじゅつ兼修けんしゅう。8だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむね実学じつがく奨励しょうれいさくで,学者がくしゃによる学習がくしゅうはじまり,田沼たぬま時代じだいには殖産しょくさん興業こうぎょう外国がいこく貿易ぼうえき拡大かくだいをはかる積極せっきょくてき世情せじょうのなかで,「解体かいたい新書しんしょ」の訳述やくじゅつ刊行かんこうという画期的かっきてき成果せいかがあった。実証じっしょう精神せいしん普及ふきゅうし,薬学やくがく本草学ほんぞうがくなど関連かんれん分野ぶんや拡大かくだい外科げかから内科ないか眼科がんか産科さんかなどに分化ぶんかした。一方いっぽう幕府ばくふ天文てんもんかたでの改暦かいれき必要ひつようから天文学てんもんがく暦学れきがくまなばれ,ニュートン力学りきがく研究けんきゅう発展はってんした。18世紀せいき後半こうはんはじまるロシアの南下なんか国際こくさい情勢じょうせい変化へんかたいして,世界せかい地理ちり西洋せいよう地理ちりがく研究けんきゅうすすみ,天文てんもんかたに蛮書和解わかい御用ごようしんきょくもうけられ,蘭学らんがくおおやけがくした。アヘン戦争せんそう以降いこう対外たいがい危機きき意識いしきたかまり,オランダしき砲術ほうじゅつ兵学へいがく幕府ばくふしょはん導入どうにゅうされ,開国かいこくは,長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅう医学いがく伝習でんしゅうをはじめ,しげるしょ調ちょうしょ建設けんせつされた。蘭学らんがくじゅく医師いしくわえて武士ぶし入塾にゅうじゅくしゃ増加ぞうか外科げかじゅつ種痘しゅとう・コレラ予防よぼうなどで西洋せいよう医学いがく優秀ゆうしゅうさが評価ひょうかされた。しょ外国がいこくとの条約じょうやく締結ていけつ貿易ぼうえき進展しんてんは,英語えいごフランス語ふらんすご・ドイツなどを必要ひつようとし,それぞれの文化ぶんか摂取せっしゅされるようになると,蘭学らんがくから洋学ようがく名称めいしょう定着ていちゃくした。

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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん蘭学らんがく」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

蘭学らんがく
らんがく

江戸えど時代じだい中期ちゅうきから幕末ばくまつにかけて,オランダ,およびオランダとおしておこなわれた西欧せいおうしょ科学かがく技術ぎじゅつおよび西欧せいおう事情じじょう学習がくしゅう研究けんきゅうとその知識ちしきをいう。鎖国さこくの 17世紀せいき初期しょき,オランダとの交渉こうしょうはじめって以来いらい興隆こうりゅうし,8だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむね蘭書らんしょ輸入ゆにゅうきんき,青木あおき昆陽こんよう野呂のろ元丈げんじょうらにオランダまなばせるにいたって本格ほんかくした。その成果せいかはまず前野まえの良沢りょうたく杉田すぎた玄白げんぱく中川なかがわ淳庵じゅんあん桂川かつらがわはじめしゅうらによる『解体かいたい新書しんしょ』の翻訳ほんやく刊行かんこうとしてあらわれた。それ以来いらい西にしせつ内科ないかせんよう』を翻訳ほんやくした宇田川うだがわ玄随げんずい,『暦象れきしょう新書しんしょ』でニュートン力学りきがく紹介しょうかいした志筑しづき忠雄ただお,『蘭学らんがく階梯かいてい』をしるわした大槻おおつき玄沢げんたく,『波留はるあさ和解わかい』を完成かんせいさせた稲村いなむら三伯さんぱく西善にしぜん三郎さぶろうおおくの蘭学らんがくしゃ輩出はいしゅつし,蘭学らんがくじゅく江戸えど長崎ながさきのみならず大坂おおさか京都きょうとをはじめ全国ぜんこく各地かくちひろがった。シーボルト事件じけんや蛮社のごくなど一時いちじ弾圧だんあつけたこともあるが,開国かいこく移入いにゅうされた欧米おうべいしょ科学かがくにそのみちゆずるまで洋学ようがく中心ちゅうしんてき役割やくわりをになった。

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改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん蘭学らんがく」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

蘭学らんがく (らんがく)

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち蘭学らんがく言及げんきゅう

【オランダ】より

…このため〈オランダ〉は外国がいこく代名詞だいめいしとなり,〈オランダイチゴ〉〈オランダうみいも(かいう)〉〈オランダきょう〉など,舶来はくらいひんにそのかんしたれいおおい。西欧せいおうしょ科学かがくもオランダつうじて紹介しょうかいされたため,〈蘭学らんがく〉とばれた。〈オランダ〉のは〈ホラント〉またはポルトガルの〈オランダOlanda〉に由来ゆらいし,ふるくは〈阿蘭陀おらんだ〉〈かずらん陀〉〈かずらん〉としるされた。…

【オランダ】より

…このため〈オランダ〉は外国がいこく代名詞だいめいしとなり,〈オランダイチゴ〉〈オランダうみいも(かいう)〉〈オランダきょう〉など,舶来はくらいひんにそのかんしたれいおおい。西欧せいおうしょ科学かがくもオランダつうじて紹介しょうかいされたため,〈蘭学らんがく〉とばれた。〈オランダ〉のは〈ホラント〉またはポルトガルの〈オランダOlanda〉に由来ゆらいし,ふるくは〈阿蘭陀おらんだ〉〈かずらん陀〉〈かずらん〉としるされた。…

洋学ようがく】より

鎖国さこくわってオランダけい学術がくじゅつが,長崎ながさきのオランダ通詞つうじ中心ちゅうしんまなばれるが,それもやはり,〈蛮学〉とよばれた。オランダけい西洋せいよう学術がくじゅつが〈蘭学らんがく〉というでよばれるようになるのは,江戸えどでオランダ解剖かいぼうしょ翻訳ほんやくされ,蘭書らんしょもとづく本格ほんかくてき西洋せいよう学術がくじゅつ研究けんきゅう開始かいしされて以来いらいのことである。これにたいして〈洋学ようがく〉は,はじめ〈蘭学らんがく〉とおな意味いみもちいられた。…

※「蘭学らんがく」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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