百科ひゃっか事典じてんマイペディア 「兵庫ひょうご津つ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 兵庫ひょうご津つ【ひょうごのつ】 現在げんざいの兵庫ひょうご県けん神戸こうべ港こうの母胎ぼたいとなった中世ちゅうせい〜近世きんせいの港みなと津つ。古代こだいの大輪田おおわだ泊はく(おおわだのとまり)の後身こうしんで,中世ちゅうせいには兵庫ひょうご関せき,兵庫ひょうご島とうなどともよばれ,東大寺とうだいじ領りょうの兵庫ひょうご北関きたのせき,興福寺こうふくじ領りょうの兵庫ひょうご南関なんかんがあった。兵庫ひょうご北関きたのせきでは瀬戸内せとうち沿岸えんがん各地かくちからの上船じょうせんから関せき銭ぜにを徴収ちょうしゅう,東大寺とうだいじではこれを諸しょ堂宇どううの修造しゅうぞう費用ひように充あてた。東大寺とうだいじの室町むろまち時代じだいの関所せきしょ経営けいえいはおおむね請負うけおい(うけおい)制せいであったが,1445年ねん(文ぶん安やす2年ねん)直営ちょくえいとなり,その年としの《兵庫ひょうご北関きたのせき入船いりふね納おさめ帳ちょう》が伝つて存そんする。この納おさめ帳ちょうからは,15世紀せいきの瀬戸内せとうち経済けいざい圏けんの状況じょうきょうが詳細しょうさいに読よみとれ,室町むろまち時代じだい流通りゅうつう史し研究けんきゅうの基本きほん史料しりょうとされる。→関連かんれん項目こうもく牛窓うしまど津つ|下津井しもつい湊みなと|鳥飼とりかい荘そう 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ百科ひゃっか事典じてんマイペディアについて 情報じょうほう
世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん(旧版きゅうばん)内うちの兵庫ひょうご津つの言及げんきゅう 【大輪田おおわだ泊はく】より …天平てんぴょう年中ねんじゅう(729‐749)に行基ぎょうき(ぎようき)が開ひらいたと伝つたえる五ご泊はく(ごはく)(河かわ尻しり,大輪田おおわだ,魚住うおずみ,韓かん(から),檉生(むろう))の一ひとつ。のちの兵庫ひょうご津つ,今いまの神戸こうべ港こうの前身ぜんしん。785年ねん(延のべ暦れき4)に淀川よどがわが神崎川かんざきがわに直結ちょっけつされ,神崎川かんざきがわ河口かこうの河かわ尻しりが従来じゅうらいの難波なんば津つにかわって繁栄はんえいしはじめると,それまでの武庫むこ(むこ)津つにかわって河かわ尻しりから1日航にっこう程ほどの大輪田おおわだ泊はくが栄さかえはじめる。… 【神戸こうべ[市し]】より …奈良なら時代じだいには大輪田おおわだ泊はく(おおわだのとまり)と呼よばれ,12世紀せいき中ちゅうごろには平清盛たいらのきよもりによる大だい規模きぼな修築しゅうちくが行おこなわれた。鎌倉かまくら時代じだいに入はいると兵庫ひょうご津つと名ながかわり,清盛きよもりの築造ちくぞうした経けいヶ島とうを中心ちゅうしんに町まちが形成けいせいされた。応仁おうにんの乱らんで町まちは一時いちじ衰退すいたいするが,江戸えど時代じだいに西にし廻航かいこう路ろが発達はったつすると再ふたたび隆盛りゅうせいに向むかい,幕末ばくまつの開港かいこうまで海上かいじょう交通こうつうの要衝ようしょうとして繁栄はんえいした。… 【兵庫ひょうご】より …その範囲はんいは兵庫ひょうご区く,北きた区くを中心ちゅうしんに長田ながた区くの一部いちぶを含ふくむ地域ちいきらしい。【石田いしだ 善人よしと】 織田おだ信長のぶながのもとで摂津せっつの大名だいみょうとなった荒木あらき村重むらしげが信長のぶながに反はんして没落ぼつらくしたあと,1580年ねん(天正てんしょう8)村重むらしげ討伐とうばつに功こうがあった池田いけだ恒ひさし興きょうに摂津せっつの〈諸しょ所ところ多おおく〉とともに,兵庫ひょうご津つが与あたえられた。恒つね興きょうは兵庫ひょうごの地ちに一いち城しろを構かまえ,城しろの周まわりに溝渠こうきょ(こうきよ)を,町まちの外郭がいかくに惣そう構の都賀つが堤つつみ(とがのつつみ)を築きずいた。… ※「兵庫ひょうご津つ」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつの一部いちぶを掲載けいさいしています。 出典しゅってん|株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ「世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん(旧版きゅうばん)」