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関所(セキショ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

関所せきしょみ)セキショ

デジタル大辞泉だいじせん関所せきしょ」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

せき‐しょ【関所せきしょ

街道かいどう要所ようしょ国境こっきょうもうけ、戦時せんじにおける防衛ぼうえいあるいは通行人つうこうにん物品ぶっぴん検査けんさたったところ古代こだいにおいては軍事ぐんじてき目的もくてき設置せっちされ、中世ちゅうせいにはせきぜに幕府ばくふ豪族ごうぞく寺社じしゃ重要じゅうよう財源ざいげんとなり、その徴収ちょうしゅう目的もくてきとして各所かくしょもうけられ、交通こうつう商業しょうぎょう障害しょうがいになった。近世きんせいには幕府ばくふしょはん治安ちあん維持いじのために設置せっちしたが、明治めいじ2ねん(1869)廃止はいし

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精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん関所せきしょ」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

せき‐しょ【関所せきしょ

  1. 名詞めいし
  2. 交通こうつう要所ようしょ国境こっきょうもうけて、通行人つうこうにん通過つうかぶつ検査けんさし、また、脱出だっしゅつからの侵入しんにゅうそなえたところふるくは大化たいかねんろくよんろく)に軍事ぐんじ目的もくてき制度せいどされたが、れいせい崩壊ほうかいとともに有名ゆうめい無実むじつした。中世ちゅうせいには性質せいしつ一変いっぺんして、せきぜに徴収ちょうしゅう目的もくてきとするものとなり、とく室町むろまち幕府ばくふ朝廷ちょうていだい寺社じしゃ荘園しょうえん領主りょうしゅなどが関所せきしょを濫設したが、戦国せんごく時代じだいにはふたた監視かんし目的もくてきのものにふくし、大名だいみょう領国りょうごくない関所せきしょ撤廃てっぱいされる方向ほうこうにすすんだ。江戸えど時代じだいには幕府ばくふしょはん治安ちあん維持いじのため交通こうつう要地ようち設置せっちした。幕府ばくふのものは、東海道とうかいどう箱根はこねこんきり新居しんきょ)をはじめ全国ぜんこくじゅうしょにおよび、「はい鉄砲てっぽうおんな」をとくまったが、関所せきしょ手形てがたがなく脇道わきみちしのびゆくものは、関所破せきしょやぶとしてはりつけ(はりつけ)けいしょせられた。また、しょはんのものは、はんとなりきょうつうずる往還おうかんこうかれてくちとめ番所ばんしょなどとび、物資ぶっし搬出はんしゅつ監視かんしするのをおも任務にんむとした。明治めいじねんいちはちろくきゅう廃止はいし
    1. 関所<b>①</b>〈<ruby><rb>広重</rb><rt>ひろしげ</rt></ruby><ruby><rb>画</rb><rt>が</rt></ruby> <ruby><rb>木曾</rb><rt>きそ</rt></ruby><ruby><rb>街道</rb><rt>かいどう</rt></ruby> <ruby><rb>福島</rb><rt>ふくしま</rt></ruby>〉
      関所せきしょ広重ひろしげ 木曾きそ街道かいどう 福島ふくしま
    2. [初出しょしゅつ実例じつれい]「よどみ関所せきしょ南都なんとしょうろんとき安堵あんど院宣いんぜんよんつう」(出典しゅってん高野山こうのやま文書ぶんしょげんとおるねん(1322)なながついちさんにち大塔だいとうりょうしょ文書ぶんしょ御影堂ごえどう奉納ほうのう目録もくろく)
    3. いまでも大名だいみょうしゅの、わらわども、関所せきしょ(セキショ)のあらためにるに、其時よりは、風俗ふうぞくがよいとさるて」(出典しゅってん浮世草子うきよぞうし西鶴さいかく諸国しょこくはなし(1685)いち)
  3. ひと監視かんししていたり、条件じょうけんいかめしかったりしてとおりにくい場所ばしょ

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改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん関所せきしょ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

関所せきしょ (せきしょ)

道路どうろじょう要衝ようしょうもうけ,通行つうこうしゃ貨物かもつ検査けんさし,あるいは通行つうこうぜいせきぜに)を徴収ちょうしゅうし,ことあるときは交通こうつう遮断しゃだん防備ぼうびにあたった施設しせつふるくはせきといった。

646ねん大化たいか2)正月しょうがつのいわゆる〈大化たいか改新かいしんみことのり〉にせきふさがくとあり,672ねん天武てんむ1)みずのえさるらんさい鈴鹿すずかせきえるが,制度せいどとして確立かくりつしたのは律令制りつりょうせいしたであろう。まもるきんりつ不法ふほう通行つうこうたいする処罰しょばつ規定きていにより,せきには(1)三関みつせき,(2)摂津せっつせき長門ながとせき,(3)そのせき,の3ランクあったことがわかる。(1)は伊勢いせこく鈴鹿すずか(すずか)せき美濃みのこく不破ふわ(ふわ)せき越前えちぜんこくあいはつ(あらち)せきのち近江おうみこく逢坂おうさかせきにかわる)で,さい重視じゅうしされ,じゅう大事だいじ発生はっせいときかたせき(こげん)された。(2)はふねいかだかんおこなせきである。(3)ではたとえばえつ中国ちゅうごく礪(砺)なみせき伊勢いせこく川口かわぐちせきなどのられており,《出雲いずもこく風土記ふどき》によると出雲いずも国境こっきょうに12の剗(せき)のかれていたことがわかる。これらのせきのランクは律令りつりょう国家こっか政治せいじてき地域ちいき区分くぶん対応たいおうしたものである。すなわち律令りつりょう国家こっか中心ちゅうしんきょう畿内きない,その周囲しゅうい一般いっぱん諸国しょこく,さらにその遠方えんぽうがいがひろがるという同心円どうしんえんてき地域ちいき区分くぶんゆうしていた。三関みつせきは畿外のくに位置いちするが基本きほんてき畿内きないと畿外を区切くぎ性格せいかくゆうし,摂津せっつせきもこれにじゅんじ,あたりようひがし蝦夷えぞとのさかいには陸奥みちのくこく白河しらかわせききくかん(これらは835ねんうけたまわ2)長門ながとせきどうランクになった)が,西にし大宰府だざいふいきとの境界きょうかいには長門ながとせきかれ,これらは地域ちいき区分くぶん象徴しょうちょうてき役割やくわりをはたし,(1)(2)ランクとして重視じゅうしされたのである。

 せき基本きほんてき国境こっきょうにおかれ,他国たこくへの不法ふほう移動いどうである浮浪ふろう逃亡とうぼう防止ぼうしという警察けいさつてき機能きのうゆうした。そのためせき通行つうこうには通行つうこうしょうであるところ(かしよ)を必要ひつようとした。それとともにいくつかのせきには軍事ぐんじてき機能きのうともな兵士へいし駐留ちゅうりゅうした。それは三関さんのせきと,白河しらかわせききくせきのようなあたりよう諸国しょこくせきおもである。三関みつせきは789ねんのべれき8)7がつとまはいされ,それにともなほかせきかん機能きのう消滅しょうめつしていったが,それ以後いごおも大事だいじ発生はっせいさい三関みつせきかたせきおこなわれ,またとく辺境へんきょう軍事ぐんじてきせき存続そんぞくしたようである。それとともに強盗ごうとうをなす僦馬(しゆうば)のとう取締とりしまりのために,899ねんあきらたい2)相模さがみこく足柄あしがら(あしがら)せき上野うえのこく碓氷うすい(うすい)せきいたように,特定とくてい事件じけん状況じょうきょうたいする治安ちあん維持いじさくとして軍事ぐんじてき機能きのうをもつせき新設しんせつがなされたが,一般いっぱんてき交通こうつう制限せいげんおこなわれておらず,全体ぜんたいとして古代こだいせき制度せいど形骸けいがいしていった。
執筆しっぴつしゃ

れいせい古代こだいせき江戸えど幕府ばくふによる近世きんせい関所せきしょはいずれも軍事ぐんじ警察けいさつじょう必要ひつようから設置せっちされた。中世ちゅうせいでも戦国せんごく大名だいみょう領国りょうごく国境こっきょうもうけた関所せきしょのように軍事ぐんじじょう必要ひつようによる関所せきしょもあるが,中世ちゅうせい関所せきしょ際立きわだった特徴とくちょう経済けいざいてき目的もくてき,すなわち関所せきしょ通行つうこうする人々ひとびと貨物かもつから,せきぜに徴収ちょうしゅうすることを目的もくてきとして設置せっちされたものがおおくあったことである。せきぜに収入しゅうにゅう目的もくてきとした関所せきしょ鎌倉かまくら後期こうき以降いこう,ことに増加ぞうかする傾向けいこうにあった。社寺しゃじ造営ぞうえい捻出ねんしゅつのためにもうけられた造営ぞうえいせきや,内蔵ないぞうりょうなどの中央ちゅうおう官庁かんちょう通常つうじょう経費けいひ不足ふそくぶんおぎな目的もくてき設置せっちしたりつぶんしょ(りつぶんしよ)(せき)などが京都きょうと中心ちゅうしんとする河川かせん港湾こうわん京都きょうと出入口でいりぐちといった交通こうつうじょう要衝ようしょうかれた。造営ぞうえいせき寺社じしゃ修造しゅうぞう捻出ねんしゅつのために知行ちぎょうこく付与ふよする造営ぞうえいりょうこく鎌倉かまくらちゅう末期まっきにその実質じっしつてき意味いみうしなってきたことにより,それまで港湾こうわんなどの修築しゅうちくにあてるため徴収ちょうしゅうされてきた通行つうこうぜい寺社じしゃ修造しゅうぞうとして寄進きしんされたものである。従来じゅうらい港湾こうわんなどの修築しゅうちくには,律令りつりょう政府せいふから修理しゅうりりょう支弁しべんすることを原則げんそくとしていたが,財源ざいげん不足ふそくからしだいに国衙こくがなどにその管理かんりがゆだねられ,おけせきりょうなどの名目めいもく通行つうこうする船舶せんぱくから通行つうこうぜい徴収ちょうしゅうして,これを修理しゅうりりょうとしていたのである。著名ちょめい造営ぞうえいせき春日しゅんじつしゃ高野山大こうやさんだいとう山城やましろよどみせき祇園ぎおんしゃ西大寺さいだいじ醍醐寺だいごじ越前えちぜん敦賀つるがせき讃岐さぬき善通寺ぜんつうじ南都なんと東大寺とうだいじ播磨はりま兵庫ひょうごせきなどがある。これらのせき造営ぞうえいりょうこく付与ふよ同様どうよう年期ねんきかぎられており,3ねんないし5,6ねんながくとも10ねんまでであった。しかし時代じだいるにしたがって恒常こうじょうし,最終さいしゅうてきには社寺しゃじ永久えいきゅうてき領有りょうゆうしていった。りつぶんせき京都きょうと出入口でいりぐちの,いわゆるななくちなどにかれたりくせきおおく,造営ぞうえいせきみなともうけられることがおおかったのとこう対照たいしょうをなしている。

 地方ちほうではみなと領有りょうゆうする地頭じとうなどがせきもうけてりょうかわしゅ(かわて)としょうして通行つうこうぜい徴収ちょうしゅうした。鎌倉かまくら幕府ばくふは1212ねんけんれき2)以来いらいたびたび法令ほうれいはっしてこれをまったが,得分とくぶんとしてりょうかわしゅ徴収ちょうしゅうけん主張しゅちょうする地頭じとう御家人ごけにん抵抗ていこうつよく,全面ぜんめんてき禁止きんしすることができなかった。ことにうけたまわひさし以後いご新関にいぜきらんしつらえがはなはだしく,ぶんながやく以後いごはこのような新関にいぜき停止ていしれい西国さいこくにまでおよぼされた。1284ねん弘安ひろやす7)には81ねんにいったんはみとめた旧来きゅうらい徴収ちょうしゅうけんをもわせて関所せきしょでの徴収ちょうしゅうけん全面ぜんめんてき禁止きんししている。また1330ねんもととく2)後醍醐天皇ごだいごてんのうはその親政しんせいにあたって河内かわうち楠葉くずはせき近江おうみ大津おおつせきのぞしょせき停止ていしめいじている。《太平たいへい》では,商売しょうばい往来おうらいへい年貢ねんぐ運送うんそうはんのぞくための処置しょちであるとしている。この関所せきしょ廃止はいし方針ほうしんたてたけし新政しんせいにおいてもまもられたらしく,東大寺とうだいじ兵庫ひょうごせきがえしょとして周防すおうこく富田とみたそう地頭じとうしょくあたえられている。しかしその政策せいさくはしだいに後退こうたいし,南北なんぼくあさ以降いこう減少げんしょうする荘園しょうえんからの収益しゅうえきわるあらたな財源ざいげんとして着目ちゃくもくした貴族きぞくだい社寺しゃじなどの荘園しょうえん領主りょうしゅによって,京都きょうと奈良なら周辺しゅうへんなど幹線かんせん道路どうろのいたるところに以前いぜんにもまして関所せきしょみだれしつらえされた。とく室町むろまち幕府ばくふの8だい将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさしつである日野ひの富子とみこによって,京都きょうとはいななくちせきてられたことはよくられている(京都きょうとななくちせき)。なかでもひどかったのが淀川よどがわすじかれたよどみ河上かわかみせき(よどのかわかみのせき)である。また伊勢いせ街道かいどうでも参宮さんぐうしゃ目当めあてのせき桑名くわなより日永ひながまでわずか4さとあいだに60ヵ所かしょ伊勢いせいちこくで120にのぼるせき設置せっちされていた。こうした関所せきしょ管理かんり領主りょうしゅ代官だいかんによっておこなわれたが,近江おうみなどでは山門さんもんやま六角ろっかく被官ひかんによる守護しゅご請がおこなわれており,京都きょうとななくちなどでは富有ふゆう商人しょうにんがこれをっている。

 室町むろまち幕府ばくふ鎌倉かまくら幕府ばくふ同様どうよう関所せきしょ乱立らんりつ放置ほうちしていたわけではなく,1346ねん正平しょうへい1・貞和さだかず2)諸国しょこく守護しゅごめいじて旅人たびびとはんとなっている新関にいぜき停止ていし命令めいれいしたのをはじめ新関にいぜき停止ていしれいはっしている。ことに義満よしみつ以降いこう朝廷ちょうていがわより関所せきしょ統制とうせいけん吸収きゅうしゅうするにつれて停止ていしれいもきびしくなり,関東かんとうにまでおよんでいる。しかし応仁おうにんらん幕府ばくふ財政ざいせい不足ふそくもあって幕府ばくふみずから新関にいぜき設置せっちしたため,しょかんとまはい政策せいさく不徹底ふてっていなものとなり,結果けっかとして寺社じしゃ権門けんもん支配しはいする関所せきしょ増設ぞうせつをさらに増長ぞうちょうさせることとなった。こうした状況じょうきょうのなかで,関所せきしょ撤廃てっぱい要求ようきゅうする馬借ばしゃく(ばしやく)らによって関所せきしょはしばしば一揆いっき襲撃しゅうげき対象たいしょうとなり,山城やましろこく一揆いっきもその要求ようきゅうひとつとして新関にいぜき撤廃てっぱいかかげている。戦国せんごく大名だいみょう領国りょうごく経済けいざい発展はってん阻害そがい要因よういんである関所せきしょを,国境こっきょうせきのこして撤廃てっぱいにふみきり,この政策せいさく織田おだ信長のぶながにもがれていくが,信長のぶなが関所せきしょ撤廃てっぱい政策せいさく信長のぶながぶんこくであった尾張おわり美濃みのかぎられており,皇室こうしつりょうりつぶんせきがその存続そんぞくみとめられたように,ふんこくでない畿内きないとくに京都きょうとにはおよばなかった。信長のぶながあといだ豊臣とよとみ秀吉ひでよしは1582ねん天正てんしょう10)10がつ皇室こうしつりょうりつぶんせき停止ていしし,85ねんごろには諸国しょこくたいしてせきぜにうらやくなどの徴収ちょうしゅう禁止きんしし,全国ぜんこくてき関所せきしょ撤廃てっぱいおこなわれることとなった。
執筆しっぴつしゃ

近世きんせい関所せきしょといえば一般いっぱんてきには幕府ばくふほうじょうにいう関所せきしょ限定げんていされ,天領てんりょうしょはんくちとめ番所ばんしょなどはふくめないのが通例つうれいであるが,特定とくていくちとめ番所ばんしょ幕府ばくふ関所せきしょ格上かくあげして,その取扱とりあつかいをする場合ばあいもある。江戸えど幕府ばくふは,江戸えど中心ちゅうしんとする本州ほんしゅう中央ちゅうおう主要しゅよう街道かいどうおよび分岐ぶんきどうには,てん嶮のをえらんで多数たすう関所せきしょぐん配置はいちし,それはあたかも江戸えど防衛ぼうえいのためにりめぐらされた一大いちだい障壁しょうへきかんがあった。その代表だいひょうてきれいとして東海道とうかいどう箱根はこね新居にい(あらい)(こんきり),中山道なかせんどう碓氷うすい横川よこがわ)・木曾福島きそふくしま日光にっこう奥州おうしゅう道中どうちゅう栗橋くりはし甲州こうしゅう道中どうちゅうしょうふつ以下いかしょせきがあげられる。こうした陸上りくじょう関所せきしょ対比たいひされるものに,江戸えどわん警備けいびなどを目的もくてきとする相模さがみ三崎みさき走水はしりみず伊豆いず下田しもだ(のち浦賀うらが)などのかくうみせきがある。また特殊とくしゅなものとして,異国いこくせん警備けいびのために福岡ふくおかはん佐賀さがはんなどが交代こうたいめる長崎ながさき西泊にしどまりまちりょう番所ばんしょのごときは,幕府ばくふ関所せきしょとして明確めいかく認識にんしきされていた。

 近世きんせい関所せきしょは,1590ねん天正てんしょう18)豊臣とよとみ秀吉ひでよし小田原おだわら征伐せいばつわり,徳川とくがわ家康いえやす関東かんとううつりふうして1,2ねんまでの関所せきしょ配置はいちに,その原型げんけいみとめることができる。この段階だんかいには関東かんとう領国りょうごくふうさかい近接きんせつする箱根はこね矢倉沢やぐらざわしょうふつ碓氷うすいしょせきと,利根川とねがわぞいのおおくのみずせきむすぶラインができあがり,江戸城えどじょう中心ちゅうしんとする領国りょうごく前線ぜんせん基地きちとしての役割やくわりたした。その1600ねん慶長けいちょう5)の関ヶ原せきがはらせんによる徳川とくがわ勝利しょうりは,関所せきしょ配置はいち範囲はんいをさらに外延がいえん拡大かくだいした。その翌々年よくよくねんごろまでに東海道とうかいどう新居しんきょ中山道なかせんどう木曾福島きそふくしまなどに重要じゅうよう関所せきしょもうけられ,近畿きんき一部いちぶ越後えちご方面ほうめんにまでおよんだが,それはだい坂城さかき豊臣とよとみ勢力せいりょく対峙たいじする分布ぶんぷ形態けいたいしめしていた。しかし15ねん元和がんわ1)の大坂おおさかなつじんによる豊臣とよとみ滅亡めつぼう徳川とくがわ天下てんか統一とういつは,従来じゅうらい関所せきしょ軍事ぐんじ機能きのう優先ゆうせんのありかた変化へんかさせ,その翌年よくねん利根川とねがわぞい16渡津わたづひとあらための関所せきしょとした〈舟渡ふなとじょう〉は,近世きんせい関所せきしょ最初さいしょ成文法せいぶんほうとなった。さらに,19ねん以降いこう東海道とうかいどう箱根はこね新居しんきょ以下いかしょ関所せきしょ制度せいどてき拡充かくじゅうおこなわれ,従来じゅうらい政治せいじ軍事ぐんじてき緊迫きんぱく対応たいおうして一時いちじてきもうけて警固けいごする性格せいかくのものから,恒常こうじょうてき設置せっちして政治せいじ治安ちあん警察けいさつてき機能きのう遂行すいこうするものへと変化へんかしていった。陸上りくじょう関所せきしょすうについては74ヵ所かしょから15ヵ所かしょまでじゅうすうせつにのぼる。これは史料しりょう性格せいかく関所せきしょたいする認識にんしきちがいによるもので,《諸国しょこく関所せきしょ書付かきつけ》によると〈じゅう関所せきしょ〉26ヵ所かしょ,〈けい関所せきしょ〉28ヵ所かしょけい54ヵ所かしょであるが,このうち前者ぜんしゃのみを幕府ばくふ関所せきしょとみなす論者ろんしゃもいる。

 近世きんせい関所せきしょ機能きのう端的たんてき表現ひょうげんするものとして,〈にゅう鉄砲てっぽうおんな〉の言葉ことばがある。それは関東かんとうないへのしょ大名だいみょうとう鉄砲てっぽう以下いか武器ぶき潜入せんにゅう江戸えど藩邸はんてい大名だいみょう妻子さいし国許くにもとへの逃亡とうぼう監視かんしすることがしゅ任務にんむであったが,幕府ばくふ全国ぜんこく支配しはい貫徹かんてつするころには箱根はこねせきのように前者ぜんしゃ検閲けんえつ若干じゃっかん緩和かんわされるれいもみられた。関所せきしょ通過つうかさい一般いっぱん通行つうこうしゃかさ頭巾ずきんをとり,乗物のりもの大名だいみょう引戸ひきどひらくことが必要ひつようであり,鉄砲てっぽうには老中ろうじゅう発行はっこう鉄砲てっぽう手形てがたおんなには留守居るすい(るすい)発行はっこう女手おんなでがた携帯けいたい義務ぎむづけられていた。箱根はこねせき場合ばあい関門かんもんないには高札こうさつじょうめん番所ばんしょ足軽あしがる番所ばんしょ獄屋ごくや遠見とおみ(とおみ)番所ばんしょ以下いか施設しせつがあり,ここには小田原おだわらはん派遣はけん番頭ばんがしら横目よこめばん足軽あしがる中間ちゅうかんのほか,箱根はこね定住ていじゅう定番ていばんじん人見ひとみおんななどがめ,それぞれの役務えきむ分掌ぶんしょうした。この施設しせつ関所せきしょ番人ばんにん規模きぼ構成こうせいなどは,かく関所せきしょによりことなる。これら幕府ばくふぜん関所せきしょは1869ねん明治めいじ2)1がつ22にち明治めいじしん政府せいふ行政ぎょうせいかん布達ふたつによって廃止はいしされたが,新居しんきょせきのように往時おうじ建造けんぞうぶつ現存げんそんするれいもみられる。
執筆しっぴつしゃ

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)関所せきしょ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

関所せきしょ
せきしょ

交通こうつう要衝ようしょう国境こっきょうもうけて、戦時せんじ防衛ぼうえい使用しようし、平常へいじょう通行つうこうしゃ貨物かもつ通過つうか検査けんさするもん古代こだいには「せき」または「剗(せん)」などとよんだが、正確せいかくには前者ぜんしゃ通行つうこうしゃ手形てがたなどを検閲けんえつして、あやしいものかどうかを判定はんていするところ後者こうしゃは塹濠(ざんごう)やしがらみ(さく)をもうけて、その通過つうかはばところをさしていった。

丸山まるやま雍成]

古代こだい

わがくにせきは、神功じんぐう(じんぐう)皇后こうごうのとき、にんぐま(おしくま)おうらん防御ぼうぎょするために和気わき(わけ)せき岡山おかやまけん和気わきまち)をもうけたのがはじまりといわれ、大化たいか改新かいしん(645)によってせきふさが(せきそこ)のほうさだめてすずちぎり(れいけい)をあたえ、大宝たいほうれい(たいほうりょう)(701)にいたってせき制度せいど確定かくていした。当時とうじせき剗(かんせん)としては、東海道とうかいどう伊勢いせ(いせ)鈴鹿すずか(すずか)(三重みえけん亀山かめやま(かめやま)せきまち)、東山ひがしやまみち(とうさんどう)の美濃みの(みの)不破ふわ(ふわ)(岐阜ぎふけん関ヶ原せきがはらまち)、北陸ほくりくどう越前えちぜん(えちぜん)あいはつ(あらち)(福井ふくいけん敦賀つるが(つるが)。のちあいはつにかわって近江おうみ(おうみ)逢坂おうさか(おうさか)〈大津おおつ〉がくわわる)を三関みつせきとよんで、もっとも重要じゅうようし、非常ひじょう事態じたいには三関みつせきじて防御ぼうぎょ体制たいせいかためた。その関門かんもんは、開門かいもんして日没にちぼつ閉門へいもんせき通過つうかにはしょ過書かしょ)の携帯けいたい必要ひつようとした。

 みずせきふねいかだ(ふねいかだ)で通過つうかするさいところ必要ひつようとしたのは、兵庫ひょうご神戸こうべ)、長門ながと(ながと)(山口やまぐちけん下関しものせき(しものせき))、唐津からつ(からつ)(佐賀さがけん唐津からつ)の三関みつせきである。陸上りくじょうせきは、おもに東国とうごく部族ぶぞくたいする防衛ぼうえいのもので、朝廷ちょうてい勢力せいりょく拡大かくだいとともに駿河するが(するが)横走よこはしり(よこばしり)(静岡しずおかけん御殿場ごてんば(ごてんば)?)、相模さがみ(さがみ)足柄あしがら(あしがら)(神奈川かながわけん南足柄みなみあしがら)、上野うえの(こうずけ)碓氷うすい(うすい)(群馬ぐんまけん安中あんなか)、陸奥むつ(むつ)白河しらかわ福島ふくしまけん白河しらかわ)・きく(きくた)(いわき。のち勿来なこそ(なこそ)と改称かいしょう)・衣川きぬがわ(ころもがわ)(岩手いわてけん奥州おうしゅう(おうしゅう))、出羽でわ念珠ねんじゅ(ねず)(山形やまがたけん鶴岡つるおか(つるおか))、あるいは「勧進かんじんちょう(かんじんちょう)」で名高なだか加賀かが安宅あたか(あたか)(石川いしかわけん小松こまつ)などにももうけられ、古代こだい中世ちゅうせい和歌わか文学ぶんがく作品さくひん登場とうじょうするものもすくなくない。

丸山まるやま雍成]

中世ちゅうせい

前代ぜんだい律令制りつりょうせいてき軍事ぐんじ機能きのう優先ゆうせんせき消滅しょうめつして、幕府ばくふ武家ぶけ荘園しょうえん(しょうえん)領主りょうしゅ地方ちほう豪族ごうぞくなどが交通こうつう要地ようち新関にいぜきもうけてせきぜに修築しゅうちく通行つうこうぜい警固けいごぜいからなる)を徴収ちょうしゅうする風潮ふうちょう一般いっぱんてきとなった。当時とうじ内裏だいり社寺しゃじ建立こんりゅう修復しゅうふくなど諸種しょしゅ名目めいもくおおくの関所せきしょもうけられたが、将軍しょうぐん足利あしかが義政よしまさ(あしかがよしまさ)の夫人ふじん日野ひの富子とみこ(ひのとみこ)が応仁おうにん(おうにん)の乱発らんぱつ生後せいごの1478ねん文明ぶんめい10)内裏だいり修復しゅうふく名目めいもく京都きょうとはいななくち(ななくち)に関所せきしょもうけ、そのせきぜに化粧けしょうりょうにあてて奢侈しゃし(しゃし)をきわめたなど、有名ゆうめいはなしである。1462ねんひろしせい3)よどみ(よど)かわべりだけで380かしょ関所せきしょかぞえ、また参宮さんぐう街道かいどうでは桑名くわな(くわな)(三重みえけん桑名くわな)―日永ひなが(ひなが)(四日市よっかいち(よっかいち)あいだのわずか18キロメートルのあいだじつに60の関所せきしょいていちぶんずつのせきぜに徴収ちょうしゅうしたという。こうした新関にいぜきの濫設は、商品しょうひん流通りゅうつう阻害そがいするため、馬借ばしゃく一揆いっき(ばしゃくいっき)などの攻撃こうげき対象たいしょうとなり、織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ(とよとみ)秀吉ひでよしにより関所せきしょ撤廃てっぱいさくされた。なお、戦国せんごく大名だいみょう関所せきしょでは、せきぜに徴収ちょうしゅうという経済けいざいてき機能きのう重視じゅうしのもののほか、国境こっきょうなどで敵対てきたい勢力せいりょく侵入しんにゅうふせ軍事ぐんじてき機能きのう優先ゆうせんするものが増加ぞうかした。

丸山まるやま雍成]

近世きんせい

近世きんせい関所せきしょは、「天下てんかけん」と人口じんこう膾炙かいしゃ(かいしゃ)される東海道とうかいどう箱根はこね(はこね)(神奈川かながわけん箱根はこねまち)や新居しんきょ(あらい)(こんきり(いまぎれ)〈静岡しずおかけん湖西こせい(こさい)〉)、中山道なかせんどう(なかせんどう)の碓氷うすい群馬ぐんまけん安中あんなか)・木曽きそ(きそ)福島ふくしま長野ながのけん木曽きそまち)、日光にっこう奥州おうしゅう道中どうちゅう栗橋くりはし(くりはし)(埼玉さいたまけん久喜くき(くき))、甲州こうしゅうどうちゅうしょうほとけ(こぼとけ)(東京とうきょう八王子はちおうじ)などが著名ちょめいであるが、これらをふくめて、江戸えど中心ちゅうしんとした本州ほんしゅう中央ちゅうおう主要しゅよう街道かいどうおよび分岐ぶんきどうには、天険てんけんえらんで50しょ(ただし、74かしょまでじゅうすうせつがある)にのぼ関所せきしょぐん配置はいちされ、それはあたかも江戸えど防衛ぼうえい目的もくてきとする一大いちだい障壁しょうへきかんがあった。これら陸上りくじょう関所せきしょたいして、江戸えどわん警備けいびのための相模さがみ(さがみ)の三崎みさき神奈川かながわけん三浦みうら)・走水はしりみず(はしりみず)(横須賀よこすか)、伊豆いず下田しもだ(しもだ)(静岡しずおかけん下田しもだ。のち浦賀うらが横須賀よこすか〉)のかくうみせきがあるが、また特殊とくしゅなものとして、異国いこくせん警備けいびのために福岡ふくおかはん佐賀さがはんなどが交代こうたいめる長崎ながさき西泊にしどまり(にしどまり)・まち(とまち)のりょう番所ばんしょのように、幕府ばくふ関所せきしょとして明確めいかく認識にんしきされたものもあった。

 近世きんせい関所せきしょ原型げんけいは、1590ねん天正てんしょう18)の徳川とくがわ家康いえやす関東かんとう入国にゅうこくにおける関所せきしょ配置はいちにあるが、1600ねん慶長けいちょう5)の関ヶ原せきがはらたたかい、1615ねん元和がんわ1)の大坂おおさかなつじんによる徳川とくがわ勢力せいりょくけん伸張しんちょうとともに、配置はいち範囲はんい拡大かくだいしていった。関所せきしょ機能きのう端的たんてき表現ひょうげんするものに、「いれ鉄炮てっぽう(いりでっぽう)におんな(でおんな)」のことばがある。「いれ鉄炮てっぽう」とは、関東かんとうないしょ大名だいみょう以下いか鉄炮てっぽうはいむことをさし、「おんな」とは、江戸えど藩邸はんてい人質ひとじち(ひとじち)同様どうよう居住きょじゅうする大名だいみょう妻子さいし国元くにもとかえることをいうが、関所せきしょはこの監視かんし主要しゅよう任務にんむであった。こうした近世きんせい関所せきしょ軍事ぐんじてき政治せいじてき機能きのうも、泰平たいへい時代じだいつづくと変質へんしつして、たとえば百姓ひゃくしょう一揆いっき鎮撫ちんぶ(ちんぶ)など、治安ちあん警察けいさつてき役割やくわりをもたすようになった。そして、「おんな」のあらためも、当初とうしょしゅ対象たいしょうである大名だいみょう妻子さいしから、しだいに一般いっぱん庶民しょみんのそれへと拡大かくだいしていった。もっとも、関所破せきしょやぶりははりつけ(はりつけ)以下いか重刑じゅうけいしょせられ、これを防止ぼうしするため関所せきしょ周辺しゅうへんむら々は要害ようがいむら指定していされ、監視かんし義務ぎむづけられた。なお、天領てんりょうしょはんにも、関所せきしょじゅんずるくちとめ(くちどめ)番所ばんしょもうけられているが、1869ねん明治めいじ2)の明治めいじ政府せいふ布達ふたつで、全国ぜんこく関所せきしょはすべて廃止はいしされた。

丸山まるやま雍成]

大島おおしま延次郎のぶじろうちょ関所せきしょ――その歴史れきし実態じったい』(1964・人物じんぶつ往来おうらいしゃ)』


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百科ひゃっか事典じてんマイペディア関所せきしょ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

関所せきしょ【せきしょ】

交通こうつう統制とうせい施設しせつ古代こだい中世ちゅうせいではふつうせき(せき)といい,以後いご関所せきしょという。古代こだいせきしゅとして軍事ぐんじてき意義いぎをもち,律令りつりょう時代じだい整備せいびされた。内乱ないらんさいして畿内きない東国とうごく分断ぶんだんする三関みつせき(さんかん)(鈴鹿すずか(すずか)・不破ふわ(ふわ)・あいはつ(あらち))や蝦夷えぞ(えみし)をふせ奥羽おうう(おうう)三関みつせき勿来なこそ(なこそ)・白河しらかわ(しらかわ)・念珠ねんじゅ(ねず))が著名ちょめい中世ちゅうせいにはしゅとして経済けいざいじょう目的もくてきで,社寺しゃじ貴族きぞく豪族ごうぞくらによって,それぞれの支配しはい圏内けんない多数たすう設置せっちされ,通行つうこうぜいとしてせきぜに(せきせん)を徴収ちょうしゅうした。これらはしょう工業こうぎょう発達はったつ妨害ぼうがいしたので,ゆたか政権せいけんによって廃止はいし鎌倉かまくら末期まっきから室町むろまち京都きょうとななくち(ななくち)などにかれたりつぶんしょ(そつぶんしょ)(〈りつぶんしょ〉ともいう)はりつぶんせきともいわれ,中央ちゅうおう官庁かんちょうおさめられるべき租税そぜい不足ふそくぶんせきぜになどの形式けいしきおぎなうために設置せっちされた関所せきしょであった。なお古代こだいりつぶんしょは,平安へいあん中期ちゅうきにおかれた中央ちゅうおう財政ざいせい機関きかんで,上納じょうのうされた租税そぜい不足ふそくぶん管掌かんしょう収納しゅうのうする機関きかんである。近世きんせいまくはん体制たいせいでは政治せいじてき軍事ぐんじてき目的もくてき復活ふっかつ幕府ばくふ関所せきしょだけでも50あまりとく箱根はこね碓氷うすい(うすい)などが幕府ばくふにとって重要じゅうようであった。なお天領てんりょうしょはんくちとめ(くちどめ)番所ばんしょなどは関所せきしょふくめないのが通例つうれい
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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん関所せきしょ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

関所せきしょ
せきしょ

古代こだい以来いらい街道かいどう要地ようち国境こっきょうもうけて通行つうこうひと貨物かもつ検査けんさし,また軍事ぐんじじょう防備ぼうびきょうしたところ。大化たいか2 (646) ねん以降いこう制度せいどされ,鈴鹿すずかせき不破ふわせきあいはつせき (あらちのせき) の三関みつせきをはじめとする関所せきしょ各地かくちに,いずれも軍事ぐんじじょう目的もくてきもうけられた。鎌倉かまくら時代じだい以降いこう関所せきしょは,軍事ぐんじじょう警備けいびじょう目的もくてきよりもむしろせきりょう徴収ちょうしゅう目的もくてきとして,幕府ばくふ朝廷ちょうてい寺社じしゃなどにより交通こうつう要所ようしょもうけられた。室町むろまち時代じだいには,せきもん都会とかいにももうけられ,また諸国しょこく守護しゅご地頭じとうらによってももうけられることがあった。戦国せんごく時代じだいには,大名だいみょうがその領国りょうごくない関所せきしょはいする方策ほうさくをとり,安土あづち桃山ももやま時代じだい織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよしらは全国ぜんこく統一とういつ一環いっかんとして全面ぜんめんてき撤廃てっぱいする政策せいさくをとった。しかし江戸えど幕府ばくふは,江戸えど防衛ぼうえい主眼しゅがんとして各地かくちもうけるにいたった。幕府ばくふ直轄ちょっかつ関所せきしょは 50ヵ所かしょにもおよび,ことに西国さいこくから関東かんとうへの入口いりくちである箱根はこねせき重要じゅうようされた。関所せきしょ通過つうかするには,関所せきしょ手形てがたようし,とくにゅう鉄砲てっぽうおんな厳重げんじゅうまりの対象たいしょうとなった。明治めいじ2 (1869) ねん廃止はいし

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旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばん関所せきしょ」の解説かいせつ

関所せきしょ
せきしょ

交通こうつう要地ようちもうけられ通行人つうこうにん物品ぶっぴんけんだん徴税ちょうぜいにあたったところ
古代こだいには国家こっか軍事ぐんじ目的もくてき設置せっち。なかでも鈴鹿すずか不破ふわあいはつ (あらち) の三関みつせき重視じゅうしされた。平安へいあん末期まっきになると交通こうつう施設しせつ維持いじ困難こんなんとなり,せきぜに徴収ちょうしゅうする中世ちゅうせいてき関所せきしょ成立せいりつした。せきぜに荘園しょうえん領主りょうしゅなどの有力ゆうりょく財源ざいげんとなり,室町むろまち時代じだい荘園しょうえん崩壊ほうかいにはらんしつらえされ交通こうつういちじるしく阻害そがいした。そのため,戦国せんごく時代じだい商品しょうひん流通りゅうつう円滑えんかつざした織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよしらによりはいされた。江戸えど幕府ばくふ軍事ぐんじ警察けいさつじょうから箱根はこねこんきり碓氷うすい (うすい) などに関所せきしょもうけ,通過つうかには手形てがたふるくはところ)を必要ひつようとし,とくに「にゅう鉄砲てっぽうおんな」を厳重げんじゅうまった。1869ねん廃止はいし

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱん関所せきしょ」の解説かいせつ

関所せきしょ
せきしょ

せき(せき)

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防府ほうふ歴史れきし用語ようごしゅう関所せきしょ」の解説かいせつ

関所せきしょ

 重要じゅうよう場所ばしょさかいをつくり、通行人つうこうにんやその荷物にもつ調しらべるための場所ばしょです。

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうち関所せきしょ言及げんきゅう

番所ばんしょ】より

海上かいじょう交通こうつうでは,幕府ばくふにより下田しもだ番所ばんしょ浦賀うらが番所ばんしょ長崎ながさき遠見とおみ番所ばんしょをはじめ大坂おおさか兵庫ひょうご長崎ながさきなどのしゅ要港ようこうもうけられ,利根川とねがわ淀川よどがわなど主要しゅよう河川かせんにも中川なかがわ番所ばんしょをはじめ要所ようしょふねあらため(ふなあらため)番所ばんしょかれた。陸上りくじょう交通こうつうでは街道かいどうもうけられた関所せきしょ番所ばんしょであり,実際じっさい関所せきしょ建物たてもの番所ばんしょんでいた。かくはんでも隣接りんせつするはん天領てんりょうつうじる要所ようしょくちとめ番所ばんしょもうけ,しゅとして領内りょうない産物さんぶつりょう流出りゅうしゅつするのを監視かんしし,出入でいりする物資ぶっし一定いってい割合わりあい徴税ちょうぜいすることもあった。…

やつ】より

罪人ざいにん奴婢ぬひとしてかん私人しじん隷属れいぞくせしめ,その人身じんしん支配しはいした労役ろうえきふくさせる刑罰けいばつであった。幕府ばくふの《公事こうじかたじょうしょ(くじかたおさだめがき)》は,おとこさそわれて関所せきしょ山越やまごえしたおんな,および関所せきしょしのとおったおんなにこの刑罰けいばつしたが,ふるくははりつけ(はりつけ),獄門ごくもんざい(あぶ(ひあぶり)),死罪しざいもの妻子さいしなどにもおこなわれた。武士ぶし町方まちかたものがあればそのものわたし,希望きぼうしゃがなければ牢屋ろうやない使役しえきする。…

※「関所せきしょ」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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