道路上の要衝に設け,通行者,貨物を検査し,あるいは通行税(関銭)を徴収し,事あるときは交通を遮断し防備にあたった施設。古くは関といった。
古代
646年(大化2)正月のいわゆる〈大化改新詔〉に関塞を置くとあり,672年(天武1)壬申の乱に際し鈴鹿関の名が見えるが,制度として確立したのは律令制下であろう。衛禁律の不法通行に対する処罰規定により,関には(1)三関,(2)摂津関,長門関,(3)その他の関,の3ランクあったことがわかる。(1)は伊勢国鈴鹿(すずか)関,美濃国不破(ふわ)関,越前国愛発(あらち)関(後に近江国逢坂関にかわる)で,最重視され,重大事発生の時に固関(こげん)された。(2)は船筏の勘過を行う関である。(3)では例えば越中国礪(砺)波関,伊勢国川口関などの名が知られており,《出雲国風土記》によると出雲国境に12の剗(関)の置かれていたことがわかる。これらの関のランクは律令国家の政治的地域区分に対応したものである。すなわち律令国家は中心に京・畿内,その周囲に一般諸国,さらにその遠方に化外の地がひろがるという同心円的地域区分を有していた。三関は畿外の国に位置するが基本的に畿内と畿外を区切る性格を有し,摂津関もこれに准じ,辺要の東の蝦夷地との境には陸奥国白河関,菊多関(これらは835年(承和2)長門関と同ランクになった)が,西の大宰府域との境界には長門関が置かれ,これらは地域区分の象徴的役割をはたし,(1)(2)ランクとして重視されたのである。
関は基本的に国境におかれ,他国への不法移動である浮浪・逃亡の防止という警察的機能を有した。そのため関の通行には通行証である過所(かしよ)を必要とした。それとともにいくつかの関には軍事的機能が伴い兵士が駐留した。それは三関と,白河関,菊多関のような辺要諸国の関が主である。三関は789年(延暦8)7月停廃され,それに伴い他の関の勘過機能も消滅していったが,それ以後も重大事発生の際は三関の固関は行われ,また特に辺境の軍事的関は存続したようである。それとともに強盗をなす僦馬(しゆうば)の党の取締りのために,899年(昌泰2)相模国足柄(あしがら)関,上野国碓氷(うすい)関を置いたように,特定の事件,状況に対する治安維持策として軍事的機能をもつ関の新設がなされたが,一般的な交通制限は行われておらず,全体として古代の関の制度は形骸化していった。
執筆者:館野 和己
中世
令制下の古代の関や江戸幕府による近世の関所はいずれも軍事警察上の必要から設置された。中世でも戦国大名が領国の国境に設けた関所のように軍事上の必要による関所もあるが,中世の関所の際立った特徴は経済的な目的,すなわち関所を通行する人々や貨物から,関銭を徴収することを目的として設置されたものが多くあったことである。関銭収入を目的とした関所は鎌倉後期以降,ことに増加する傾向にあった。社寺造営費捻出のために設けられた造営関や,内蔵寮などの中央官庁が通常経費の不足分を補う目的で設置した率分所(りつぶんしよ)(関)などが京都を中心とする河川の津,港湾,京都の出入口といった交通上の要衝に置かれた。造営関は寺社修造費捻出のために知行国を付与する造営料国が鎌倉中,末期にその実質的意味を失ってきたことにより,それまで港湾などの修築にあてるため徴収されてきた通行税が寺社修造費として寄進されたものである。従来港湾などの修築には,律令政府から修理料を支弁することを原則としていたが,財源不足からしだいに国衙などにその管理がゆだねられ,置石料などの名目で通行する船舶から通行税を徴収して,これを修理料としていたのである。著名な造営関に春日社・高野山大塔の山城淀津の関,祇園社・西大寺・醍醐寺の越前敦賀津の関,讃岐善通寺や南都東大寺の播磨兵庫関などがある。これらの関は造営料国の付与と同様,年期が限られており,3年ないし5,6年,長くとも10年までであった。しかし時代を経るに従って恒常化し,最終的には社寺の永久的な領有と化していった。率分関は京都の出入口の,いわゆる七口などに置かれた陸関が多く,造営関が港津に設けられることが多かったのと好対照をなしている。
地方では津,湊を領有する地頭などが関を設けて津料,河手(かわて)と称して通行税を徴収した。鎌倉幕府は1212年(建暦2)以来たびたび法令を発してこれを取り締まったが,得分として津料や河手の徴収権を主張する地頭御家人の抵抗が強く,全面的に禁止することができなかった。ことに承久以後は新関の乱設がはなはだしく,文永の役以後はこのような新関の停止令が西国にまで及ぼされた。1284年(弘安7)には81年にいったんは認めた旧来の徴収権をも合わせて関所での徴収権を全面的に禁止している。また1330年(元徳2)後醍醐天皇はその親政にあたって河内の楠葉関と近江の大津関を除く諸関の停止を命じている。《太平記》では,商売往来の弊,年貢運送の煩を除くための処置であるとしている。この関所廃止の方針は建武新政においても守られたらしく,東大寺は兵庫関の替所として周防国富田荘の地頭職を与えられている。しかしその政策はしだいに後退し,南北朝期以降は減少する荘園からの収益に代わる新たな財源として着目した貴族や大社寺などの荘園領主によって,京都や奈良周辺など幹線道路のいたるところに以前にもまして関所が乱設された。特に室町幕府の8代将軍足利義政の室である日野富子によって,京都に入る七口に関が立てられたことはよく知られている(京都七口関)。なかでもひどかったのが淀川筋に置かれた淀河上関(よどのかわかみのせき)である。また伊勢街道でも参宮者目当ての関が桑名より日永までわずか4里の間に60余ヵ所,伊勢一国で120にのぼる関が設置されていた。こうした関所の管理は領主の代官によって行われたが,近江などでは山門の山徒や六角氏の被官による守護請が行われており,京都の七口などでは富有な商人がこれを請け負っている。
室町幕府も鎌倉幕府と同様,関所の乱立を放置していたわけではなく,1346年(正平1・貞和2)諸国の守護に命じて旅人の煩となっている新関の停止を命令したのをはじめ新関停止令を発している。ことに義満以降朝廷側より関所の統制権を吸収するにつれて停止令もきびしくなり,関東にまで及んでいる。しかし応仁の乱後は幕府財政の不足もあって幕府みずから新関を設置したため,諸関停廃の政策は不徹底なものとなり,結果として寺社・権門の支配する関所の増設をさらに増長させることとなった。こうした状況のなかで,関所撤廃を要求する馬借(ばしやく)らによって関所はしばしば土一揆の襲撃対象となり,山城国一揆もその要求の一つとして新関の撤廃を掲げている。戦国大名は領国経済発展の阻害要因である関所を,国境の関を残して撤廃にふみきり,この政策は織田信長にも受け継がれていくが,信長の関所撤廃政策は信長の分国であった尾張,美濃に限られており,皇室領率分関がその存続を認められたように,分国でない畿内とくに京都には及ばなかった。信長の跡を継いだ豊臣秀吉は1582年(天正10)10月皇室領率分関を停止し,85年ごろには諸国に対して関銭,浦役などの徴収を禁止し,全国的な関所の撤廃が行われることとなった。
執筆者:小林 保夫
近世
近世の関所といえば一般的には幕府法上にいう関所に限定され,天領や諸藩の口留番所などは含めないのが通例であるが,特定の口留番所を幕府の関所に格上げして,その取扱いをする場合もある。江戸幕府は,江戸を中心とする本州中央部の主要街道および分岐道には,天嶮の地をえらんで多数の関所群を配置し,それはあたかも江戸防衛のために張りめぐらされた一大障壁の観があった。その代表的な例として東海道の箱根・新居(あらい)(今切),中山道の碓氷(横川)・木曾福島,日光(奥州)道中の栗橋,甲州道中の小仏以下の諸関があげられる。こうした陸上の関所に対比されるものに,江戸湾警備などを目的とする相模の三崎・走水,伊豆の下田(のち浦賀)などの各海関がある。また特殊なものとして,異国船警備のために福岡藩,佐賀藩などが交代で詰める長崎の西泊・戸町両番所のごときは,幕府の関所として明確に認識されていた。
近世の関所は,1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原征伐が終わり,徳川家康が関東に移封して1,2年後までの関所配置に,その原型を認めることができる。この段階には関東領国の封境に近接する箱根,矢倉沢,小仏,碓氷の諸関と,利根川ぞいの多くの水関を結ぶラインができあがり,江戸城を中心とする領国の前線基地としての役割を果たした。その後1600年(慶長5)の関ヶ原の戦による徳川氏の勝利は,関所配置の範囲をさらに外延部に拡大した。その翌々年ごろまでに東海道の新居,中山道の木曾福島などに重要関所が設けられ,近畿の一部や越後方面にまで及んだが,それは大坂城の豊臣勢力に対峙する分布形態を示していた。しかし15年(元和1)の大坂夏の陣による豊臣氏の滅亡,徳川氏の天下統一は,従来の関所の軍事機能優先のあり方を変化させ,その翌年に利根川ぞい16渡津を人改めの関所とした〈舟渡定〉は,近世関所の最初の成文法となった。さらに,19年以降,東海道の箱根,新居以下諸関所の制度的拡充が行われ,従来の政治・軍事的な緊迫化に対応して一時的に設けて警固する性格のものから,恒常的に設置して政治・治安警察的機能を遂行するものへと変化していった。陸上の関所数については74ヵ所から15ヵ所まで十数説にのぼる。これは史料の性格や関所に対する認識の違いによるもので,《諸国御関所書付》によると〈重キ御関所〉26ヵ所,〈軽キ御関所〉28ヵ所の計54ヵ所であるが,このうち前者のみを幕府の関所とみなす論者もいる。
近世の関所の機能を端的に表現するものとして,〈入鉄砲に出女〉の言葉がある。それは関東内への諸大名等の鉄砲以下の武器潜入,江戸藩邸の大名妻子の国許への逃亡を監視することが主任務であったが,幕府の全国支配が貫徹するころには箱根関のように前者の検閲が若干緩和される例もみられた。関所通過の際,一般に通行者は笠・頭巾をとり,乗物の大名は引戸を開くことが必要であり,鉄砲には老中発行の鉄砲手形,出女には留守居(るすい)発行の女手形の携帯が義務づけられていた。箱根関の場合,関門内には高札場,面番所,足軽番所,獄屋,遠見(とおみ)番所以下の施設があり,ここには小田原藩派遣の番頭,横目,番士,足軽,中間のほか,箱根定住の定番人,人見女などが詰め,それぞれの役務を分掌した。この施設・関所番人の規模や構成などは,各関所により異なる。これら幕府の全関所は1869年(明治2)1月22日,明治新政府の行政官の布達によって廃止されたが,新居関のように往時の建造物を現存する例もみられる。
執筆者:丸山 雍成