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織豊政権(しょくほうせいけん)とは? 意味や使い方 - コトバンク

ゆたか政権せいけんみ)しょくほうせいけん

日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)ゆたか政権せいけん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

ゆたか政権せいけん
しょくほうせいけん

16世紀せいき後半こうはんやく1世紀せいきにわたった戦国せんごく動乱どうらん終息しゅうそくさせた織田おだ信長のぶなが、そのいで天下てんか統一とういつげた豊臣とよとみ(とよとみ)秀吉ひでよしによってつくられた近世きんせい統一とういつ権力けんりょく。わずかに30ねんあまりのみじか期間きかんであるが、日本にっぽん歴史れきしのうえではきわめて重要じゅうよう画期的かっきてき時代じだいにあたり、ためにこの時期じきひとつの時代じだい区分くぶんとし、安土あづち(あづち)桃山ももやま時代じだい、あるいはゆたか時代じだいという。

 近世きんせい封建ほうけんせい社会しゃかいまくはんせい社会しゃかい)の骨格こっかく形成けいせいされていく劇的げきてき起伏きふくんだ時期じきで、中世ちゅうせいから近世きんせいへとおおきくした転換期てんかんきとして位置いちづけられるが、この政権せいけん歴史れきしてき意義いぎたいする理解りかい評価ひょうかはかならずしも一様いちようではない。世界せかい時代じだい区分くぶんでは、中世ちゅうせい封建ほうけん社会しゃかい近世きんせい(あるいは近代きんだい)が資本しほん主義しゅぎ社会しゃかい、その移行いこう過程かていでは貨幣かへい経済けいざい浸透しんとうして地方ちほう市場いちば自由じゆう都市とし発達はったつし、封建ほうけん地代じだい貨幣かへい地代じだい形態けいたいをとるようになっていくのが一般いっぱんてきである。16世紀せいき日本にっぽんでもたしかにその現象げんしょうあらわれてくるとはいえ、ゆたか政権せいけん成立せいりつ江戸えど幕府ばくふ開始かいしという過程かているなかで、たとえばさかい(さかい)をはじめとする自由じゆう都市とし近似きんじした都市とし弾圧だんあつさい編成へんせいされ、地代じだい形態けいたいつらぬけだか(かんだか)せいから石高いしたか(こくだか)せい規準きじゅんえられ、貨幣かへい地代じだいから生産せいさんぶつ地代じだい原則げんそく逆転ぎゃくてんしてしまうという、この現象げんしょうをどう理解りかいするかが、この政権せいけん評価ひょうかにかかわってくる。

 諸説しょせつがあるが、まず先行せんこうする中世ちゅうせい鎌倉かまくら室町むろまち時代じだい)を封建ほうけん社会しゃかいとみなすかかによって見解けんかいかれる。中世ちゅうせい近世きんせいおな封建ほうけん社会しゃかいかんがえる立場たちばからは、(1)中村なかむら吉治よしはる(きちじ)に代表だいひょうされる「封建ほうけんせいさい編成へんせいせつ」、(2)藤田ふじた五郎ごろう代表だいひょうされる「純粋じゅんすい封建ほうけんせいせつ」、(3)服部はっとり之総しそう(はっとりしそう)に代表だいひょうされる「初期しょき絶対ぜったい主義しゅぎせつ」があり、これにたいして中世ちゅうせい奴隷どれいせい社会しゃかいとみなす見解けんかいに、(4)あんりょうじょう盛昭もりあき(あらきもりあき)に代表だいひょうされる「封建ほうけんせい成立せいりつせつ」がある。(1)は、中世ちゅうせい封建ほうけん社会しゃかい発展はってん解体かいたいするのを阻止そしし、これをまくはんせいてき近世きんせい封建ほうけんせいさい編成へんせいしたというもの。(2)は、中世ちゅうせい社会しゃかい農奴のうどからの労働ろうどう地代じだい搾取さくしゅ原則げんそくとする古典こてんてき荘園しょうえん(しょうえん)せい時代じだいとし、それが近世きんせい社会しゃかいになりしょう農民のうみん経営けいえいから生産せいさんぶつ地代じだい搾取さくしゅする純粋じゅんすいした封建ほうけんせい隷農れいのうせい)が成立せいりつしたというもの。(3)は、一揆いっき(つちいっき)・一向いっこう(いっこう)一揆いっき代表だいひょうされる民衆みんしゅうたたかいと、やまと寇(わこう)から朱印船しゅいんせん貿易ぼうえきにみられる海外かいがい発展はってんは、西欧せいおう農民のうみん戦争せんそうだい航海こうかい時代じだい匹敵ひってきし、初期しょき絶対ぜったい主義しゅぎてき性格せいかくをもっているというもの。そして(4)は、中世ちゅうせい社会しゃかい家父かふちょうてき奴隷どれいせい経営けいえいもとづく奴隷どれいせい社会しゃかいとし、近世きんせい社会しゃかい小規模しょうきぼ農民のうみん経営けいえい成立せいりつもとづく農奴のうどせい社会しゃかい一般いっぱんてき成立せいりつであるとするもので、この前進ぜんしん過程かてい構造こうぞうてき定着ていちゃくさせたのが、秀吉ひでよし太閤たいこう(たいこう)検地けんちといううえからの政策せいさくであり、封建ほうけん革命かくめいであったというものである。また、織田おだ政権せいけん豊臣とよとみ政権せいけん一貫いっかんした発展はってんとしてとらえ、ゆたか政権せいけん安土あづち桃山ももやま時代じだいなどとよんで一括いっかつすることは妥当だとうではないという見解けんかいもあり、いわゆる連続れんぞく連続れんぞく問題もんだいにされている。連続れんぞくせつとは、秀吉ひでよし段階だんかい近世きんせいてきであるが信長のぶなが段階だんかい中世ちゅうせいてきであるとし、織田おだ政権せいけん豊臣とよとみ政権せいけんあいだにはおおきな段階だんかいがあり、前者ぜんしゃ基本きほんてきには戦国せんごく時代じだいとみるべきであるとする。

 時期じき区分くぶんとしては、いちおう安土あづち桃山ももやま時代じだい時代じだい区分くぶんを、信長のぶなが足利あしかが義昭よしあき(あしかがよしあき)をようして岐阜ぎふから上洛じょうらく(じょうらく)した1568ねんえいろく11)より江戸えど幕府ばくふ開設かいせつ名実めいじつともに徳川とくがわ覇権はけん確立かくりつした1603ねん慶長けいちょう8)とし、つぎの4けるのが適当てきとうであろう。

橋本はしもとまさしせん

織田おだ政権せいけん前期ぜんき

1568ねんえいろく11)の信長のぶなが入京にゅうきょうより、73ねん天正てんしょう1)将軍しょうぐん足利あしかが義昭よしあき京都きょうと追放ついほう室町むろまち幕府ばくふ滅亡めつぼうまで。この時期じき幕府ばくふ織田おだ政権せいけんじゅう権力けんりょく時期じきといえる。義昭よしあき将軍しょうぐん宣下せんげにより室町むろまち幕府ばくふ機能きのう正式せいしき再興さいこうされたが、信長のぶなが意図いと義昭よしあき利用りようして独自どくじ支配しはい体制たいせい構築こうちくすることにあった。信長のぶなが義昭よしあきからふく将軍しょうぐん管領かんりょう(かんれい)かに就(つ)くようすすめられたが辞退じたいしたということや、朝廷ちょうていからの官位かんい辞退じたいのこと、あるいは義昭よしあきから畿内きない(きない)においてのぞみしだいに知行ちぎょう(ちぎょう)をあたえようとのもうことわり、かわりに和泉いずみ(いずみ)のさかい近江おうみ(おうみ)の大津おおつ草津くさつ代官だいかんいたということなどは、信長のぶなが義昭よしあきとの主従しゅうじゅう関係かんけいはいることや、官位かんい体系たいけいにおいて下位かいにたつことをけようとしたことを物語ものがたるものであり、信長のぶなが畿内きない先進せんしん地域ちいき掌握しょうあくつと独自どくじ権力けんりょく基盤きばんかためようとしていたことをしめしていよう。

 上洛じょうらくした翌年よくねん1569ねん正月しょうがつには「殿中でんちゅうおきて(でんちゅうおきて)」をさだめ、信長のぶなが将軍しょうぐん義昭よしあき行動こうどう制約せいやくくわえ、70ねん正月しょうがつには義昭よしあきたいしては3かじょうからなる「じょうしょ(じょうしょ)」をしめして、将軍しょうぐん権力けんりょく信長のぶながへの委任いにん強要きょうようし、しょ大名だいみょうたいしては、禁中きんちゅう修理しゅうり武家ぶけ御用ごようのため、天下てんか静謐せいひつ(せいひつ)のため、上洛じょうらくして朝廷ちょうてい幕府ばくふまいりれいすべきむねの「触書ふれがき(ふれがき)」をはっして、信長のぶなが権力けんりょく位置いち威勢いせいしめした。そして上洛じょうらく命令めいれいしたがわなければ公武こうぶいのちそむくという名目めいもくのもとに、越前えちぜん(えちぜん)朝倉あさくら討伐とうばつなどをおこない、これに味方みかたした近江おうみ浅井あさいめ、一向いっこう一揆いっき攻撃こうげきし、比叡山ひえいざん(ひえいざん)延暦寺えんりゃくじ焼打やきうちにした。72ねんもとかめ3)9がつにははん信長のぶなが勢力せいりょくかげいと将軍しょうぐん義昭よしあきたいし、「異見いけん」17かじょうしめして徹底的てっていてき批判ひはんし、両者りょうしゃ関係かんけい悪化あっか一途いっとをたどる。やがて義昭よしあき公然こうぜん信長のぶなが敵対てきたい行動こうどうたため、信長のぶながは73ねん宇治うじ(うじ)の槇島まきしま(まきしま)しろ義昭よしあきめ、河内かわうち(かわち)若江わかえ追放ついほうして室町むろまち幕府ばくふ最後さいごのとどめをした。

橋本はしもとまさしせん

織田おだ政権せいけん後期こうき

1573ねん天正てんしょう1)より、本能寺ほんのうじへん信長のぶなが横死おうしする82ねんまで。名実めいじつともに統一とういつ権力けんりょくとなった時期じきである。全国ぜんこく制覇せいはざし、越前えちぜん朝倉あさくら近江おうみ浅井あさいほろぼし、松永まつなが久秀ひさひで(ひさひで)などをつと同時どうじに、一向いっこう一揆いっきとの全面ぜんめん対決たいけつつうじて信長のぶなが権力けんりょく深化しんかはかった。74ねん伊勢いせ(いせ)長島ながしま一揆いっき攻略こうりゃくでは2まんにんやきころし、よく75ねんには越前えちぜん一向いっこう一揆いっき壊滅かいめつし、府中ふちゅうまち死体したいで「いちえんあきしょなくこう」という皆殺みなごろしをおこなった。さらに一揆いっき勢力せいりょく本拠ほんきょである石山いしやま本願寺ほんがんじ攻撃こうげきし、これにつうじる毛利もうり(もうり)などに対戦たいせんし、各個かっこ撃破げきはおこない、80ねんには正親町おおぎまち(おおぎまち)天皇てんのう勅命ちょくめいによる和平わへい工作こうさくによって本願寺ほんがんじ信長のぶなが軍門ぐんもんくだらせ、ここに畿内きない完全かんぜん掌握しょうあくする。さらに全国ぜんこく統一とういつざして東西とうざい転戦てんせんするかまえをみせ、82ねんには甲斐かい(かい)の武田たけだほろぼし、ついで西国さいこくゆう毛利もうりぜいとの対戦たいせんにあたるべく西下さいか途上とじょう本能寺ほんのうじ家臣かしん明智あけち光秀みつひで(あけちみつひで)のためにころされ、政権せいけん完成かんせいのまま瓦解がかい(がかい)した。

 このあいだ信長のぶながは1575ねんこれまで辞退じたいつづけてきた官職かんしょくけ、けん大納言だいなごん(ごんだいなごん)・みぎ近衛このえ(うこのえ)大将たいしょうとなり、また家督かとく長子ちょうし信忠のぶただ(のぶただ)にゆずって尾張おわり(おわり)・美濃みの(みの)の両国りょうこくあたえ、翌年よくねんには安土あづち築城ちくじょう着手ちゃくしゅして本拠ほんきょ岐阜ぎふより安土あづちうつし、統一とういつ権力けんりょくとしての仕事しごと専念せんねんする体制たいせいをとる。したがってこの時期じきにおいては75ねんと80ねんが、さらにひとつのくぎりになろう。

橋本はしもとまさしせん

豊臣とよとみ政権せいけん前期ぜんき

本能寺ほんのうじへん直後ちょくご山崎やまざきたたかいで主君しゅくんかたき(あだ)明智あけち光秀みつひでち、信長のぶなが後継こうけいしゃとしての地歩ちほかためた1582ねん天正てんしょう10)から、小田原おだわら征伐せいばつ、ついで奥州おうしゅう鎮定ちんていにより全国ぜんこく制覇せいはたした91ねんまで。このうち85ねん秀吉ひでよし関白かんぱく就任しゅうにんし、また豊臣とよとみせい勅許ちょっきょ身分みぶんせい社会しゃかい頂点ちょうてんにたち、古代こだいてき権威けんいりて統一とういつ政権せいけん推進すいしんしていこうとしたことが、さらにひとつのくぎりになる。83ねん秀吉ひでよし織田おだ宿老しゅくろう柴田しばた勝家かついえ(しばたかついえ)を賤ヶだけ(しずがたけ)のたたかいでほろぼして織田おだ政権せいけん後継こうけいしゃとしての地位ちい内外ないがいしめすとともに、大坂おおさかしろきずいてここを本拠ほんきょとして各地かくち進出しんしゅつする体制たいせいかため、さらに小牧こまき(こまき)・長久手ながくて(ながくて)のたたかいを東海とうかいゆう徳川とくがわ家康いえやす臣従しんじゅうさせ、四国しこく征伐せいばつ九州きゅうしゅう征伐せいばつ小田原おだわら征伐せいばつおこなって全国ぜんこく統一とういつ達成たっせいした。そして征服せいふく拡大かくだいするごとに、奉行ぶぎょうじん(ぶぎょうにん)を派遣はけんして検地けんち実施じっしした。はじめのころは織田おだ政権せいけん段階だんかいのように指出さしで(さしだし)検地けんちであったが、領地りょうち拡大かくだいにつれ検地けんち規準きじゅん整備せいびされて検地けんちおこなわれ、90、91ねんには関東かんとう東北とうほくみなみ九州きゅうしゅうへと全国ぜんこくてきになり、とくに東北とうほく検地けんちでは厳罰げんばつ主義しゅぎをもってのぞんでいる。この太閤たいこう検地けんち全国ぜんこくてき施行しこうにより石高こくだかせい原則げんそく確立かくりつし、88ねんにはかたなかりれい、91ねんには身分みぶん統制とうせいれいしてへいのう分離ぶんり推進すいしんした。またこの時期じきには、87ねんキリシタン禁令きんれい、88ねん海賊かいぞく取締とりしまりれいなど、江戸えど幕府ばくふ鎖国さこく政策せいさくにつながる重要じゅうよう政策せいさくされている。

橋本はしもとまさしせん

豊臣とよとみ政権せいけん後期こうき

秀吉ひでよし全国ぜんこく統一とういつ達成たっせいして関白かんぱく地位ちいおい(おい)の豊臣とよとみ秀次しゅうじ(ひでつぐ)にゆずり、みずからは太閤たいこうとなった1591ねん天正てんしょう19)から、秀吉ひでよし死去しきょ関ヶ原せきがはらたたかいをて、徳川とくがわ家康いえやす将軍しょうぐん宣下せんげけて名実めいじつともに徳川とくがわ覇権はけん確立かくりつした1603ねん慶長けいちょう8)まで。このうち、関白かんぱく秀次しゅうじ高野たかのさん(こうやさん)に追放ついほう自殺じさつさせた95ねんぶんろく4)、政権せいけん主宰しゅさいしゃ秀吉ひでよし死去しきょした98ねん慶長けいちょう3)が、さらにひとつのくぎりになる。なお、秀吉ひでよし豊臣とよとみ政権せいけんは、1600ねん関ヶ原せきがはらたたかいまでは、秀吉ひでよし死去しきょ直前ちょくぜんの98ねん7がつごろ嗣子しし(しし)秀頼ひでより(ひでより)を推戴すいたい(すいたい)する政治せいじてき機構きこうとして制度せいどてき成立せいりつした、大老たいろう奉行ぶぎょう合議ごうぎ体制たいせいによって継承けいしょうされた。また、関ヶ原せきがはらたたかいでの勝利しょうりにより、家康いえやす事実じじつじょう覇権はけん確立かくりつしたが、その権限けんげん依然いぜん豊臣とよとみ大老たいろうとしての権限けんげん延長線えんちょうせんじょうにあったのである。

 この時期じき政権せいけん矛盾むじゅん顕在けんざいした時期じきで、全国ぜんこく統一とういつ過程かていあらたに大名だいみょうあいだ対立たいりつしょうじ、太閤たいこう秀吉ひでよし関白かんぱく秀次しゅうじ機能きのう分化ぶんか不首尾ふしゅび政権せいけん根底こんていからるがせ、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいぶんろく(ぶんろく)・慶長けいちょう(けいちょう)のやく)の実施じっし挫折ざせつ(ざせつ)がこれに拍車はくしゃをかけた。朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい原因げんいん諸説しょせつあるが、このような対外たいがい侵略しんりゃくかたちでしか政権せいけん内部ないぶ矛盾むじゅん処理しょりする方法ほうほうがなかったところに、豊臣とよとみ政権せいけん特質とくしつがあったともいわれている。

橋本はしもとまさしせん

北島きたじまただしもとへん体系たいけい日本にっぽん叢書そうしょ2 政治せいじⅡ』(1965・山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ)』脇田わきたおさむほかへん『シンポジウム日本にっぽん歴史れきし10 ゆたか政権せいけんろん』(1972・学生がくせいしゃ)』藤木ふじき久志ひさしほかへん論集ろんしゅう日本にっぽん歴史れきし6 ゆたか政権せいけん』(1974・有精ゆうせいどう出版しゅっぱん)』

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百科ひゃっか事典じてんマイペディアゆたか政権せいけん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

ゆたか政権せいけん【しょくほうせいけん】

織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし政権せいけん時代じだいてきには1568ねん信長のぶなが入京にゅうきょうから1600ねん関ヶ原せきがはらせんまでの安土あづち桃山ももやま時代じだいをいう。この政権せいけん戦国せんごく争乱そうらん終止符しゅうしふち,全国ぜんこく統一とういつ完成かんせいするとともに画期的かっきてき政策せいさく次々つぎつぎ遂行すいこうし,近世きんせい封建ほうけん社会しゃかい基礎きそ確立かくりつした。荘園しょうえんせい最終さいしゅうてき破壊はかい太閤たいこう検地けんちかたなかりなどによるへいのう分離ぶんりおこない,楽市らくいち(らくいち),楽座らくざ政策せいさく徹底てっていさせ,関所せきしょ撤廃てっぱいし,貨幣かへい制度せいど樹立じゅりつ度量衡どりょうこう(どりょうこう)の統一とういつ鉱山こうざん開発かいはつなど国内こくない商品しょうひん経済けいざい発展はってん促進そくしんし,また朱印船しゅいんせん貿易ぼうえきなどの海外かいがい貿易ぼうえき積極せっきょくてきおこない,国力こくりょく飛躍ひやくてき上昇じょうしょうした。
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改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんゆたか政権せいけん」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

ゆたか政権せいけん (しょくほうせいけん)

1568ねんえいろく11)織田おだ信長のぶなが入京にゅうきょうはじまり1603ねん慶長けいちょう8)江戸えど幕府ばくふ成立せいりついた安土あづち桃山ももやま時代じだい戦国せんごく争乱そうらん統一とういつ近世きんせい社会しゃかい基礎きそきずいた織田おだ豊臣とよとみ両氏りょうし安土あづち大坂おおさか拠点きょてんとする武家ぶけ政権せいけん信長のぶなが室町むろまち幕府ばくふほろぼすとともに,畿内きないとその周辺しゅうへんそう結合けつごうもとづく一揆いっき勢力せいりょく,とくに石山いしやま本願寺ほんがんじ中心ちゅうしんとする一向いっこう一揆いっき徹底的てっていてき弾圧だんあつすることにより,集権しゅうけんてき権力けんりょく確立かくりつした。また家臣かしん城下じょうかしゅうじゅう楽市らくいち楽座らくざせい関所せきしょ撤廃てっぱいなどの政策せいさくにより広域こういきてき流通りゅうつう支配しはいをめざした。本能寺ほんのうじへん信長のぶながいだ豊臣とよとみ秀吉ひでよし全国ぜんこく統一とういつげ,さらに朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい断行だんこうした。このあいだかたなかりれい身分みぶん法令ほうれいしてへいのう分離ぶんり推進すいしんするとともに,統一とういつてき太閤たいこう検地けんち全国ぜんこくてき実施じっしして,荘園しょうえんせい終止符しゅうしふち,石高こくだかせいもとづく土地とち制度せいど確立かくりつした。その結果けっか農民のうみんむら単位たんい土地とち固定こていされ,統一とういつてき年貢ねんぐおさむ体制たいせいととの一方いっぽう武士ぶし石高いしたか知行ともゆきせいにより軍役ぐんえき統一とういつされ,うたてふうにより在地ざいちせいうしなうなど,近世きんせいまくはん体制たいせい骨組ほねぐみがうちたてられた。
安土あづち桃山ももやま時代じだい
執筆しっぴつしゃ

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ゆたか政権せいけん
しょくほうせいけん

織田おだ信長のぶなが,ついで豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる全国ぜんこくてき武家ぶけ政権せいけん。1573ねん(天正てんしょうもと)の室町むろまち幕府ばくふ滅亡めつぼうから1603ねん(慶長けいちょう8)の江戸えど開府かいふまでのやく30年間ねんかん中世ちゅうせいから近世きんせいへのおおきな社会しゃかい変革へんかく推進すいしんした。信長のぶなが統治とうちけん北陸ほくりく東海とうかいから東中ひがしなかこくにとどまったが,秀吉ひでよし四国しこく九州きゅうしゅう関東かんとう奥羽おうう平定へいていして全国ぜんこく統一とういつ完成かんせいした。りょう政権せいけん一括いっかつしてとらえうるかかは議論ぎろんがわかれる。織田おだ政権せいけんは,一向いっこう一揆いっき徹底的てっていてき弾圧だんあつして集権しゅうけんてき権力けんりょく確立かくりつし,楽市らくいち楽座らくざせい関所せきしょ撤廃てっぱいなどにより,広域こういきてき流通りゅうつう支配しはいをめざしたが,その本質ほんしつについては,結局けっきょく戦国せんごく大名だいみょうてきなものから脱却だっきゃくできなかったとみる見解けんかいと,近世きんせいてき統一とういつ政権せいけん脱却だっきゃくしたとみる見解けんかいがある。豊臣とよとみ政権せいけんは,天下てんか統一とういつ完成かんせいし,さらにその武力ぶりょくへの自負じふからあかり征服せいふくくわだてて,朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいおこなった。秀吉ひでよし全国ぜんこくてきった太閤たいこう検地けんちかたなかりによって,耕作こうさくする農民のうみん土地とちへの権利けんりつよめるとともにその緊縛きんばくされ,武士ぶし石高いしたか知行ともゆきせいにより統一とういつてき軍役ぐんえき賦課ふかされるとともにてんふうによって在地ざいちからはなされた。これらの政策せいさくにより,荘園しょうえんせい最終さいしゅうてき解体かいたいし,へいのう分離ぶんり確立かくりつされて,近世きんせいまくはん体制たいせい社会しゃかい基礎きそがつくられた。

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ゆたか政権せいけん
しょくほうせいけん

近世きんせい初頭しょとう織田おだ信長のぶなが豊臣とよとみ秀吉ひでよし政権せいけんをいう
信長のぶなが足利あしかが義昭よしあき (よしあき) をほうじて上京じょうきょうした1568ねんもしくは'73ねん室町むろまち幕府ばくふ滅亡めつぼうから'98ねん秀吉ひでよし,1600ねん関ケ原せきがはらたたかい,ないしは'03ねん江戸えど幕府ばくふ成立せいりつまでをいう。信長のぶなが秀吉ひでよし天皇てんのう将軍しょうぐん伝統でんとうてき権威けんい利用りようして専制せんせいてき武家ぶけ政治せいじおこなった。とく秀吉ひでよし政権せいけんは,土地とち人民じんみん直接ちょくせつ支配しはい基礎きそかため,荘園しょうえんせい解消かいしょうして大名だいみょう知行ちぎょうせいおこない,近世きんせい集権しゅうけんてき封建ほうけんせいへの過渡かと形成けいせいした。

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