デジタル大辞泉だいじせん 「古河ふるかわ」の意味いみ・読よみ・例文れいぶん・類語るいご こが【古河ふるかわ】 茨城いばらき県けん西端せいたんの市し。室町むろまち時代ときよ、古河ふるかわ公方くぼうくぼうが根拠こんきょとした地ち。江戸えど時代じだいは小笠原おがさわら・土井どい氏しらの城下町じょうかまち、日光にっこう街道かいどうの宿場しゅくば町まち。現在げんざいは電気でんき機器きき・機械きかいなどの工業こうぎょうが発達はったつ。平成へいせい17年ねん(2005)9月がつに総和そうわ町まち・三和さんわ町まちと合併がっぺい。人口じんこう14.3万まん(2010)。 ふるかわ【古河ふるかわ】[姓氏せいし] 姓氏せいしの一いち。[補ほ説せつ]「古河ふるかわ」姓せいの人物じんぶつ古河ふるかわ市兵衛いちべえふるかわいちべえ古河ふるかわ黙阿弥もくあみふるかわもくあみ 出典しゅってん 小学館しょうがくかんデジタル大辞泉だいじせんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい
精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてん 「古河ふるかわ」の意味いみ・読よみ・例文れいぶん・類語るいご こが【古河ふるかわ】 茨城いばらき県けん南西なんせい端はしの地名ちめい。渡良わたら瀬せ(わたらせ)川かわに臨のぞむ。室町むろまち時代じだいは鎌倉かまくら公方くぼう足利あしかが成氏しげうじ(しげうじ)の根拠地こんきょち。江戸えど時代じだいは土井どい氏し一いち六ろく万まん石せきの城下町じょうかまちで、奥州おうしゅう(日光にっこう)街道かいどうの中田なかた・野木のぎの間あいだの宿場しゅくば町まち、渡良瀬川わたらせがわの河港かこうとして栄さかえた。明治めいじ以後いごは製糸せいし業ぎょうが発達はったつし、現在げんざいは機械きかい工業こうぎょうがさかん。JR東北とうほく本線ほんせんが通つうじる。昭和しょうわ二に五ご年ねん(一いち九きゅう五ご〇)市制しせい。 出典しゅってん 精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてん精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい
改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん 「古河ふるかわ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 古河ふるかわ[市し] (こが) 目次 古河 古河城下 三和 総和茨城いばらき県けん最さい西端せいたんの市し。2005年ねん9月がつ旧きゅう古河ふるかわ市しと三和さんわ(さんわ)町まち,総和そうわ(そうわ)町まちが合体がったいして成立せいりつした。人口じんこう14万まん2995(2010)。古河ふるかわ古河ふるかわ市し西部せいぶの旧きゅう市し。1950年ねん市制しせい。人口じんこう5万まん8727(2000)。利根川とねがわ,渡良瀬川わたらせがわ,思おもえ(おもい)川かわの合流ごうりゅう点てん付近ふきんに位置いちし,北きたは栃木とちぎ県けん,西にしは埼玉さいたま県けんに接せっする。市域しいきの大半たいはんは猿島さしま(さしま)台地だいちに開あけ,中心ちゅうしん市街しがいは市域しいき北西ほくせい部ぶを占しめる。1455年ねん(康正こうせい1)足利あしかが成しげる氏しが古河ふるかわ公方くぼう(くぼう)としてこの地ちを拠点きょてんとした。江戸えど時代じだいには譜代ふだい大名だいみょうが配置はいちされた古河ふるかわ藩はんの城下町じょうかまち,また日光にっこう道どう中ちゅうの宿場しゅくば町まちとして栄さかえ,利根川とねがわ水系すいけい航路こうろの要地ようちとして重視じゅうしされた。明治維新めいじいしん後ご士族しぞく授産じゅさんのために始はじめられた製糸せいし業ぎょうは大正たいしょう~昭和しょうわ初期しょきに最盛さいせい期きを迎むかえ,1885年ねんの日本にっぽん鉄道てつどう(現げん,JR東北とうほく本線ほんせん)の開業かいぎょうとあいまって,関東かんとう地方ちほうでも有数ゆうすうの生糸きいと産地さんちに変貌へんぼうした。第だい2次じ大戦たいせん後ご合成ごうせい繊維せんいに押おされて製糸せいし業ぎょうは衰退すいたいしたが,戦時せんじ中ちゅうに工場こうじょう疎開そかいに伴ともなう大だい工場こうじょうの立地りっちがあり,その後ごの工場こうじょう誘致ゆうちもあって輸送ゆそう用よう機器きき,機械きかい,洋傘ようがさ製造せいぞうなどの工業こうぎょうも活発かっぱつである。商業しょうぎょうも盛さかんで商圏しょうけんは栃木とちぎ・埼玉さいたま両りょう県けんに及およぶ。東京とうきょう50km圏けんに位置いちするため東京とうきょうへの通勤つうきん・通学つうがく者しゃが多おおく,住宅じゅうたく地ち化かも進すすんでいる。執筆しっぴつ者しゃ:中川なかがわ 浩一こういち古河ふるかわ城下じょうか《万葉集まんようしゅう》に載のる〈許もと我がの渡わたり〉が地名ちめいの初出しょしゅつとされる。鎌倉かまくら時代じだいには下河辺しもこうべ荘そうに属ぞくした。渡良瀬川わたらせがわの渡津わたづ,奥州おうしゅうに通つうじる要衝ようしょうとして発展はってんし,古河ふるかわ公方くぼうが拠よってからは関東かんとうの一いち中心ちゅうしんとなった。江戸えど時代じだいは古河ふるかわ藩はんの城下町じょうかまちとして7万まん1228坪つぼの地子じしが免許めんきょされていた。日光にっこう道どう中ちゅう第だい9次じの宿場しゅくばとして,交通こうつう上じょうは道中どうちゅう奉行ぶぎょうの支配しはいに置おかれ,古河ふるかわ城じょうは将軍しょうぐんの日光にっこう参拝さんぱい時じ往返の泊とまり城じょうともなった。また毎月まいつき2・7・4・9の十じゅう二に斎とき市しが開ひらかれる近郷きんごう商圏しょうけんの中心ちゅうしんであった。町まちは古河ふるかわ城じょうの東ひがしを通とおる日光にっこう道中どうちゅう沿ぞいに南みなみから原町はらまち,台うてな町まち,一いち丁目ちょうめ,二に丁目ちょうめ,横町よこちょうと続つづき,その東側ひがしがわに八幡やはた町まち,七軒しちけん町まち,青物あおもの町まち,南新みなみしん町まち,北新ほくしん町まち,鍛冶かじ町まち,西側にしがわには石いし(こく)町まち,江戸えど町まちをはじめ,大工だいく町まち,肴さかな町まち,元もと肴さかな町まち,紺屋こんや町まち,田町たまちなどがあり,片町かたまち,白壁しらかべ町まちなどの武家ぶけ地ちをはさんで北西ほくせい端はしの河岸かわぎしに船渡ふなと(ふなと)町まちがあった。これら町まちの役人やくにんとして大だい年寄としより3人にん,問屋とんや4人にん,そのほか各かく町まちに1人ひとりあての年寄としよりが置おかれていた。武家ぶけ地ちは城しろの北きたのほか,城しろの東ひがし,町人ちょうにん地ちの南みなみにも置おかれた。町家まちやは役やくの軽重けいちょうによって屋敷やしき,畑屋敷はたやしき,歩ふ役やく屋敷やしきに分わけられ,1763年ねん(宝たから暦れき13)の戸口とぐちは953軒けん,5121人にん。旅籠はたご屋やは本陣ほんじん・脇本わきもと陣じんを含ふくめ33軒けん(《宿やど村むら大概たいがい帳ちょう》)を数かぞえた。なお町内ちょうないの御用達ごようたし商人しょうにんは酒さけ,肴さかな,糀こうじ(こうじ),豆腐とうふ,金具かなぐ,八百屋やおやなど21名めい,ほかに大工だいく,木挽こびき,畳じょう差さ,屋根やね葺,桶屋おけやなどの棟梁とうりょうが御用達ごようたしに指定していされていた。また渡良瀬川わたらせがわ通どおり古河ふるかわ河岸かわぎしは高瀬たかせ船せん8,茶ちゃ船せん5,伝馬船てんません3,伝馬てんま茶ちゃ船せん6をそなえ,中田なかた~栗橋くりはし間あいだの利根川とねがわ渡わたるにも使用しようされていた。明治維新めいじいしんで古河ふるかわ城じょうは廃はい城じょうとなり,1873年ねん(明治めいじ6)にはことごとく破やぶ却された。さらに城跡じょうせきの大半たいはんは渡良瀬川わたらせがわの改修かいしゅうで河川敷かせんしきになった。→古河ふるかわ藩はん執筆しっぴつ者しゃ:本間ほんま 清利きよとし三和さんわ古河ふるかわ市し東部とうぶの旧きゅう町まち。旧きゅう猿島さしま郡ぐん所属しょぞく。人口じんこう3万まん9718(2000)。結城ゆうき市しの南西なんせいに接せっし,町まち域いきの大半たいはんは台地だいちである。中心ちゅうしん集落しゅうらくの諸川もろかわは近世きんせいには日光にっこう東ひがし街道かいどうの宿駅しゅくえきで,日光にっこう社しゃ参さんの諸しょ大名だいみょうの往来おうらいでにぎわった。東部とうぶを南みなみ流りゅうする飯沼いいぬま川がわ沿岸えんがんの水田すいでんは江戸えど時代じだいに開ひらかれた新田しんでんで,明治めいじ以降いこうも改良かいりょう事業じぎょうが行おこなわれ,穀倉こくそう地帯ちたいとなった。ハクサイなどの野菜やさいやヒノキなどの苗木なえぎも産さんする。歴史れきし的てきには南みなみ接せっする境さかい町まちとのつながりが強つよく,南部なんぶは境さかい町まちの商圏しょうけんに属ぞくするが,近年きんねんは旧きゅう古河ふるかわ市しや旧きゅう総和そうわ町まちとのつながりが強つよくなっている。執筆しっぴつ者しゃ:千葉ちば 立りつ也総和そうわ猿島さしま郡ぐん所属しょぞく。1968年ねん町制ちょうせい。人口じんこう4万まん8007(2000)。利根川とねがわ北岸ほくがんに位置いちし,町まち域いきの大半たいはんは台地だいち上じょうにある。国道こくどう4号線ごうせんバイパスが通つうじ,早はやくから東京とうきょう向むけの野菜やさい生産せいさんが盛さかんであったが,1963年ねんに西にし隣となりの旧きゅう古河ふるかわ市しとともに首都しゅと圏けん都市とし開発かいはつ区域くいきに指定していされ,二ふたつの工業こうぎょう団地だんちがつくられ,県下けんかでも有数ゆうすうの内陸ないりく工業こうぎょう地域ちいきとなった。東京とうきょうから集団しゅうだん移転いてんした配電はいでん盤ばん関係かんけいの工場こうじょうをはじめ,電機でんき,機械きかい,金属きんぞく,化学かがくなどの工場こうじょうがあり,周辺しゅうへん町村ちょうそんからの通勤つうきん者しゃも多おおい。住宅じゅうたく団地だんちもつくられ,人口じんこう増加ぞうかが続つづいている。農業のうぎょうも盛さかんで,ハクサイ,キュウリなどの野菜やさい生産せいさんが多おおい。鮭さけ延のべ(けいえん)寺てらには江戸前えどまえ期きの儒者じゅしゃ熊沢くまさわ蕃山ばんざんの墓はかがある。執筆しっぴつ者しゃ:千葉ちば 立りつ也 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ「改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん」改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてんについて 情報じょうほう
日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) 「古河ふるかわ」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 古河ふるかわ(市し)こが 茨城いばらき県けん南西なんせい端はしにある市し。栃木とちぎ、埼玉さいたま両りょう県けんに接せっする。1950年ねん(昭和しょうわ25)市制しせい施行しこう。1955年ねん新郷しんごう(しんごう)村むらを編入へんにゅう。2005年ねん(平成へいせい17)猿島さるしま(さしま)郡ぐん総和そうわ町まち(そうわまち)、三和さんわ町まち(さんわまち)を合併がっぺい。関東平野かんとうへいやの中心ちゅうしんを占しめ、猿島さしま台地だいちの西端せいたん部ぶと渡良わたら瀬せ(わたらせ)川かわ、利根とね(とね)川かわの低てい湿地しっちをもつ。JR東北とうほく本線ほんせん、国道こくどう4号ごうと125号ごう、354号ごうが通つうじる。中心ちゅうしん地ちの古河ふるかわは古ふるくは許もと我わが(こが)、古ふる我われと記しるされた渡わたし場ばで、中世ちゅうせいには古河ふるかわとなった。豪族ごうぞく下河辺しもこうべ(しもこうべ)氏しの支配しはい地ちのあとに古河ふるかわ公方くぼう(こがくぼう)と称しょうされた足利あしかが成しげる氏し(あしかがしげうじ)が古河ふるかわを居城きょじょうとして5代だい130年間ねんかん、関東かんとうの政治せいじ、文化ぶんかの一いち中心ちゅうしんとなった。日光にっこう街道かいどうの要地ようちでもあり、近世きんせいは徳川とくがわ譜代ふだい(ふだい)大名だいみょうが古河ふるかわ藩主はんしゅとなり、土井どい(どい)氏しのとき廃はい藩はん。学問がくもんが盛さかんで藩校はんこう盈みつる科か堂どう(えいかどう)があり、『雪ゆき華はな図説ずせつ(せっかずせつ)』を著あらわした藩主はんしゅ土井どい利とし位い(としつら)、家老がろうで蘭学らんがく者しゃ(らんがくしゃ)の鷹見たかみ泉石せんせき(たかみせんせき)、河口かこう信任しんにん(しんにん)(医学いがく)ら科学かがく上じょうの業績ぎょうせきをあげた出身しゅっしん者しゃが多おおい。 明治めいじ、大正たいしょうにかけて渡良瀬川わたらせがわの河かわ道どう拡幅かくふく工事こうじのため、旧きゅう市街地しがいちの一部いちぶや古河ふるかわ城跡じょうせきは河川敷かせんしきとなって消滅しょうめつした。旧きゅう士族しぞくのおこした製糸せいし業ぎょうは発展はってんして古河ふるかわの代表だいひょう的てき工業こうぎょうとなったが、第だい二に次じ世界せかい大戦たいせん後ご衰退すいたいした。既製きせい服ふくなどの縫製ほうせい業ぎょうや電子でんし機械きかい、自動車部品工業じどうしゃぶひんこうぎょうが発達はったつし、坂間さかま企業きぎょう団地だんちなどに企業きぎょうが進出しんしゅつしている。洋傘ようがさ、マネキン人形にんぎょう、渡良瀬川わたらせがわのヨシが原料げんりょうの「よしず」などの特産とくさんもある。フナの甘露煮かんろには名物めいぶつである。東京とうきょうの通勤つうきん圏けんに入はいり、住宅じゅうたく団地だんちも多おおく、通勤つうきん者しゃが増加ぞうかしている。古河ふるかわ公方くぼう足利あしかが成しげる氏し館かん(やかた)跡あとは県けん指定してい史跡しせきで、周辺しゅうへんは古河ふるかわ総合そうごう公園こうえんとして整備せいびされ、1998年ねん(平成へいせい10)ほぼ完成かんせいした。旧きゅう飛田ひだ(とびた)家か住宅じゅうたくは国くに指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい。また、1991年ねんに開館かいかんした篆刻てんこく美術館びじゅつかん(てんこくびじゅつかん)(篆刻てんこくは石いしに刻きざんだ文字もじを鑑賞かんしょうする書道しょどう芸術げいじゅつの一種いっしゅ)は1920年ねん(大正たいしょう9)に建設けんせつされた三さん階かい建だての石倉いしくらを改修かいしゅうしたもので、国くにの登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざいとなっている。そのほかにも、鷹見たかみ泉石せんせきの晩年ばんねんの住すまいを改修かいしゅうした鷹見たかみ泉石せんせき記念きねん館かん、豊富ほうふな文化財ぶんかざいの収蔵しゅうぞう、展示てんじを目的もくてきにした古河ふるかわ歴史れきし博物館はくぶつかん(1990年ねん開館かいかん)、古河ふるかわ文学ぶんがく館かん(1998年ねん開館かいかん)などがある。奇き祭さい「古河ふるかわ提灯ぢょうちん竿ざおもみまつり(こがちょうちんさおもみまつり)」(元来がんらいは古河ふるかわ藩はん領りょうの栃木とちぎ県けん野木のぎ町まち野木のぎ神社じんじゃの祭礼さいれい)は有名ゆうめいである。面積めんせき123.58平方へいほうキロメートル、人口じんこう13万まん9344(2020)。[櫻井さくらい明あきら俊しゅん]『『古河ふるかわ市しのあゆみ』(1970・古河ふるかわ市し)』▽『『古河ふるかわ市し史し』3冊さつ(1973~1981・古河ふるかわ市し)』▽『山口やまぐち忠ただし著ちょ『古河ふるかわ新しん誌し』(1958・古河ふるかわ市し郷土きょうど史し研究けんきゅう会かい)』[参照さんしょう項目こうもく] | 河口かこう信任しんにん | 古河ふるかわ藩はん | 三和さんわ | 雪ゆき華はな図説ずせつ | 総和そうわ | 鷹見たかみ泉石せんせき | 土井どい利とし位い[補完ほかん資料しりょう] | 古河ふるかわ市しの要覧ようらん 茨城いばらき県けん古河ふるかわ市し位置いち図ず 旧きゅう飛田ひだ家か住宅じゅうたく 出典しゅってん 小学館しょうがくかん 日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)について 情報じょうほう | 凡例はんれい
日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 「古河ふるかわ」の解説かいせつ 古河ふるかわふるかわ 兵庫ひょうご県けん:小野おの市し古川ふるかわ村むら古河ふるかわ室町むろまち時代ときよ、奈良なら東大とうだい寺領じりょう大部おおぶ(おおべ)庄しょうの内うちに含ふくまれた。東条とうじょう(とうじよう)川かわが加古川かこがわに流ながれ込こむ辺あたり一帯いったいで、現げん古川ふるかわ(ふるかわ)町まちは東条川とうじょうがわをまたいで立地りっちする。北きたは現げん社しゃ(やしろ)町まちの西古瀬にしこせ(にしこせ)・中古瀬なかごせ・東古瀬ひがしごせ地区ちくに接せっし、南みなみは現げん喜多きた(きた)町まちなどと接せっする。現げん古川ふるかわ町まち域いきには二に〇の小字こあざがあり、右岸うがんには垣かき(かい)ノ本ほん(もと)・野田のだ(のだ)・中田なかた(なかた)ノ上うえ(うえ)・北沢きたざわ(きたさわ)・西にし深田ふかた(にしふかだ)以下いか一いち五ごが、左岸さがんには大年おおとし(おおとし)ノ前まえ(まえ)以下いか五ごの小字こあざが属ぞくする。現在げんざいの耕地こうちはおもに右岸うがんにあり、集落しゅうらくも垣かきノ本ほんを中心ちゅうしんに立地りっちする。 出典しゅってん 平凡社へいぼんしゃ「日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい」日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけいについて 情報じょうほう