50年にわたる南北朝動乱の歴史を描いた軍記物語。40巻。
成立と作者
南北朝動乱期の不安な世情をよく写している《洞院公定(とういんきんさだ)日記》の応安7年(1374)5月3日条に,(1)〈小島法師〉が4月28日か29日に死んだこと,(2)彼は最近広く世間で愛好されている《太平記》の作者であり,(3)〈卑賤の器〉ではあるが〈名匠の聞(きこえ)〉を得ていること,の3点が記されている。この記事は《太平記》成立当時における,作者に関しての唯一の確実な資料である。つぎに,江戸時代編纂の《興福寺年代記》に,〈太平記ハ鹿薗院殿(足利義満)ノ御代小島ト申シシ人コレヲ書ク。近江ノ国ノ住人〉とある。さらに,歌人,武人として高名であった今川了俊(貞世)が1402年(応永9)に著した《難太平記》には《太平記》の成立に関し注目すべき記述がある。法勝寺の恵鎮上人が《太平記》を30余巻持参して等持寺で足利直義に見せたところ,直義はそれを《建武式目》制定に参画した当時の碩学玄恵(げんえ)法印(玄慧)に読ませた。その結果,直義は〈これは且つ見及ぶ中にも以ての外ちがひめおほし。追て書入れ切出すべき事等あり。その程外聞あるべからず〉といい,〈書入れ切出し〉の改訂作業が行われたが,のち中絶し,また最近書きつがれている,と了俊は記している。
《太平記》の編纂事業は,恵鎮上人の手を離れたのち,足利幕府の監督のもとで玄恵法印が主宰して継続され,小島法師は1350年(正平5・観応1)の玄恵没後もこの事業の中心にいた人物と推定される。また,改訂作業が主として有力守護大名の功名書きに関するものであったことは,《難太平記》の記事からも,また《太平記》諸本の本文の異同からも証明される。記事中の最終年代は光厳法皇の第七回忌が行われた70年(建徳1・応安3)で,《太平記》がほぼ現在の形をなしたのは,現存する最古の写本である永和本(巻三十二に相当する本文を永和ころに書写した零本)が書写された永和1,2年(1375,76)を下限とする1370年代である。
内容と評価
鎌倉末期から室町初期にかけての50年にわたる歴史の動きにあわせて,《太平記》を3部に分けてとらえる考え方が一般的である。第1部は巻一から巻十一まで,すなわち,後醍醐天皇を中心とする人々の北条政権打倒計画に始まり,元弘の乱を中心として楠木正成らの挙兵,足利高氏(尊氏)の寝返りによる六波羅陥落,新田義貞の鎌倉攻撃による倒幕までが記されている。この第1部が作品としては最もまとまっており,巧みな戦術を駆使して幕府正規軍と戦う正成と,畿内の〈悪党〉的武士のゲリラ戦が共感を伴って描かれている。正成の合戦譚が類型化されていることは,それが口承文芸的な要素を持っていることを物語っている。第2部は巻十二から巻二十一までで,建武の中興と呼ばれる公家政権の成立から後醍醐天皇の吉野での死去までを扱っているが,そこでは足利と新田の武士の棟梁権をめぐる争いが中心になっている。作者の新政権への批判は,後醍醐天皇の寵臣万里小路(までのこうじ)藤房の諫言,遁世という形で描かれている。第2部の終りの巻二十一では,守護大名佐々木道誉の〈ばさら〉ぶりや尊氏の執事高師直の乱暴な行為が語られ,この巻が第3部に接続するものであることを示している。第3部は,観応の擾乱(かんのうのじようらん)と呼ばれる,幕府の中枢部に起こった分裂と抗争,その中での尊氏の死を語る前半(巻三十四まで)と,守護大名たちの果てしない権力闘争の中で将軍義詮が死に,幼い義満を補佐して細川頼之が登場し,平和が訪れたとして擱筆される後半とに分けることができる。第3部の特色は,巻三十以後急激に社会・政治批判が強まっていることにある。構想上は数巻を1ブロックとした構成が意図され,そのブロックの中心に宮方の怨霊が登場する章段があり,それを政道批判の視点から発展させた物語がそれぞれ配置されている。具体的にいうと,巻二十七の〈雲景未来記事〉は,巻二十五の〈宮方怨霊会六本杉事,付医師評定事〉の章段を社会・政治批判という角度から新たに語り直したものである。巻三十四の〈吉野御廟神霊事〉と巻三十五〈北野通夜物語〉との関係も同様である。
《平家物語》と《太平記》
《太平記》は《平家物語》に多くを負っているが,それらは主として挿話作成上の影響であって,無常観と呼ばれるような《平家》の思想を《太平記》が継承しているわけではない。《平家》の影響については後藤丹治の研究に詳しいが,そのいくつかを示しておこう。《太平記》巻十八の〈一宮御息所事〉は幸若舞《新曲》にそのままとられている有名な話であるが,これは《平家》巻六〈葵前〉を原拠としている。また,巻二〈長崎新左衛門尉意見事,付阿新殿事〉にあらわれている長崎高資と二階堂道薀の論争,特に道薀の描き方は,《平家》巻二〈教訓状〉の重盛像の影響を受け,巻六〈赤坂合戦事,付人見本間抜懸事〉は《平家》巻九〈一二之懸〉による。また,《太平記》巻十六〈本間孫四郎遠矢事〉は《平家》の巻十一にある那須与一が扇の的を射た有名な一段を模倣して語ったものであるが,与一が神々に祈念して決死の覚悟で弓を射たのに対して,本間の弓射は大向うの喝采を意識した派手なものになっている。
《平家物語》は平家の滅亡という完結した世界を語っており,《太平記》も,第1部では幕府の滅亡までの歴史を完結的に描いているけれども,第3部では未完結の,現実に進行している混沌とした社会を,同時代に生きる者の眼で語っている。たとえば〈北野通夜物語〉では遁世者,雲客,法師の鼎談による社会・政治批評が試みられる。第3部にみられるこうした批評性については,従来論ぜられることが少なかったが,現在の《太平記》研究はこの点を高く評価し,ここに《平家》とは違った《太平記》の独自性を認めている。
《太平記》の流布,享受,影響
《太平記》は15世紀末までは宮廷を中心にした狭い範囲でしか流布せず,現存する主要な伝本のうち16世紀初頭までに書写されたものとしては,さきにあげた零本の永和本のほか,豊臣秀吉が所持したと伝えられる神田本,北条早雲所持本の写本である今川家本,竜安寺の塔頭(たつちゆう)で書写され伝えられた西源院本など数本を数えるにとどまり,多くの伝本は室町時代末の16世紀後半に書写されている。戦国武将吉川元春が1563年(永禄6)閏12月から65年8月にかけて陣中で《太平記》を書写したことは有名であるが,大名家,堂上家,大寺院に所蔵されるようになり,古態本からやがて流布本が作られ,つぎの古活字版の時代を迎え,さらに大量印刷の整版へと移るのである。
《太平記》は後崇光院の《看聞日記》永享8年(1436)5月6日条や《親長卿記》などにみられるように,宮廷とその周辺では早くから音読,朗読される一方,《蔭涼軒(いんりようけん)日録》文正元年(1466)閏2月6,7,8日条や《蔗軒(しやけん)日録》文明18年(1486)3月12日条などにみられるように,暗誦され,そうした享受方法が元禄(1688-1704)ころから大坂や江戸で職業としての〈太平記読み〉を生むことになり,これが講釈,講談につながってゆくのである。
現在詞章が知られている謡曲で,《太平記》の人物を直接活躍させる作品は《鱗形(うろこがた)》《壇風(だんぷう)》《鉢木》《藤栄》の4曲,および明治になってからの新作2曲にすぎないが,《太平記》の記述を本説とした曲は非常に多い。また人形浄瑠璃と歌舞伎には《大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)》を代表とする数多くの太平記物がある。滝沢馬琴への影響は広く知られるところである。
執筆者:長谷川 端