精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてん 「板鼻いたはな」の意味いみ・読よみ・例文れいぶん・類語るいご いたはな【板鼻いたはな】 群馬ぐんま県けん安中あんなか市しの地名ちめい。中山道なかせんどうの旧きゅう宿場しゅくば町まち。碓氷うすい(うすい)川かわの舟運しゅううんの港みなとでもあった。 出典しゅってん 精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてん精選せいせん版ばん 日本にっぽん国語こくご大だい辞典じてんについて 情報じょうほう | 凡例はんれい
百科ひゃっか事典じてんマイペディア 「板鼻いたはな」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 板鼻いたはな【いたはな】 群馬ぐんま県けん安中あんなか市しの東部とうぶ,碓氷うすい(うすい)川かわの北岸ほくがんを占しめる。かつては上野うえの国こく碓氷うすい郡ぐんのうち。中世ちゅうせいには現げん安中あんなか市し東部とうぶから高崎たかさき市し北西ほくせい部ぶにかけての一帯いったいを板鼻いたはなと称しょうし,現げん板鼻いたはなの東方とうほう,高崎たかさき市し八幡やはた(やわた)町まちの八幡やはた八幡やはた(やわたはちまん)宮みやや大聖たいせい護国ごこく(だいしょうごこく)寺てらの所在地しょざいちあたりが中心ちゅうしんであったという。八幡やはた八幡宮はちまんぐうは古ふるくは板鼻いたはな八幡宮はちまんぐう・板鼻いたはな別宮べつくともいい,大聖たいせい護国ごこくは別当寺べつとうじ。中世ちゅうせいの板鼻いたはなは東山ひがしやま道みち・鎌倉かまくら街道かいどうが通とおり,碓氷川うすいがわ・烏川からすかわから利根川とねがわに通つうじる水陸すいりく交通こうつうの要地ようちで,交通こうつう集落しゅうらく・宿やど町まちとして発展はってん。《義経よしつね記き》によると奥州おうしゅうに向むかう源義経みなもとのよしつね一いち行ぎょうは,のち家臣かしんとなる山賊さんぞく伊勢いせ三郎さぶろう義盛よしもりと板鼻いたはなで出会であい,《曾我そが物語ものがたり》によると源みなもと頼朝よりともは信濃しなの国三くにぞう原ばらから〈板鼻いたはなの宿やど〉経由けいゆで下野げや国こく那須なすに狩場かりばを移動いどう。また上うえ信しん国境こっきょうの要衝ようしょうとしてしばしば軍勢ぐんぜいが駐屯ちゅうとんした。近世きんせいには現在げんざいの板鼻いたはなに中山道なかせんどうの板鼻いたはな宿やどが置おかれた。西にしに接せっして碓氷川うすいがわの鷹巣たかのす(たかす)渡わたりがあり,1791年ねんには本陣ほんじん・脇わき本陣ほんじん各かく1,旅籠はたご屋や43,茶屋ちゃや15。旅籠はたご屋やはほとんどが飯盛めしもり女おんなを置おき,中山なかやま道上どうじょう州しゅう7宿しゅくでは一番いちばんの賑にぎわいといわれた。1852年ねんには家数やかず347・人数にんずう1549。1889年ねんに板鼻いたはな町まちとなり,1955年ねん安中あんなか町まちに併合へいごう。 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ百科ひゃっか事典じてんマイペディアについて 情報じょうほう
改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん 「板鼻いたはな」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 板鼻いたはな (いたはな) 上野うえの国こく(群馬ぐんま県けん)碓氷うすい郡ぐん,中山道なかせんどうの宿場しゅくば町まち。徳川とくがわ家康いえやすの関東かんとう入部にゅうぶ以後いご,里見さとみ義成よしなりの陣屋じんやが置おかれ,1591年ねん(天正てんしょう19)から1613年ねん(慶長けいちょう18)まで同氏どうしの支配しはいを受うけた。25年ねん(寛永かんえい2)から前橋まえばし藩主はんしゅ酒井さかい忠世ただよの子こ忠行ただゆきの部屋住へやずみ料りょうとなり,宿やど内ないに本陣ほんじんが置おかれたという。忠行ただゆきの本ほん藩はん就封後ごも板鼻いたはな付近ふきんは前橋まえばし領りょうとして残のこされたが,1749年ねん(寛延かんえい2)酒井さかい氏しの姫路ひめじ転てん封ふう後ごは幕府ばくふ領りょうに組くみ込こまれた。1852年ねん(嘉よしみ永なが5)の宿やど高だか1298石せき余あまり,宿やど並なみ東西とうざい10町まち30間あいだ(1140m),家数やかず347,人数にんずう1549,伝馬てんま役やく家か183軒けん半はん,本陣ほんじん1,脇わき本陣ほんじん1,問屋とんや2,助じょ郷さと28ヵ村かそん。58年ねん(安政あんせい5)の人馬じんば遣や高こう2万まん3823人にん,1万まん4415疋。宿やどの西端せいたんに接せっして碓氷川うすいがわ鷹巣たかのす(たかのす)の渡わたし場ばがあったこともあって,一般いっぱん旅人たびびとを対象たいしょうとする大小だいしょう54軒けんの旅籠はたご屋やが立たちならび,多おおくの飯盛めしもり下女げじょを抱かかえ,宿場しゅくば町まちとしては中山なかやま道上どうじょう州しゅう七なな宿しゅくのうち第だい一いちのにぎわいをみせたという。1955年ねん安中あんなか町まち(1958市制しせい)に合併がっぺい。執筆しっぴつ者しゃ:井上いのうえ 定幸さだゆき 出典しゅってん 株式会社かぶしきがいしゃ平凡社へいぼんしゃ「改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてん」改訂かいてい新版しんぱん 世界せかい大だい百科ひゃっか事典じてんについて 情報じょうほう
日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) 「板鼻いたはな」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 板鼻いたはないたはな 群馬ぐんま県けん安中あんなか市し(あんなかし)東部とうぶの一いち地区ちく。旧きゅう板鼻いたはな町まち。碓氷うすい(うすい)川かわ左岸さがんの段丘だんきゅう上じょうにあり、中山道なかせんどう(なかせんどう)の宿場しゅくば町まちとして発達はったつした。付近ふきんで一いち時じ養やしなえ鯉こい(ようり)業ぎょうが行おこなわれたことがある。国道こくどう18号ごうが通つうじ戦国せんごく時代じだいの鷹巣たかのす(たかのす)城跡じょうせきがある。[村木むらき定雄さだお][参照さんしょう項目こうもく] | 安中あんなか(市し) 出典しゅってん 小学館しょうがくかん 日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)日本にっぽん大だい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)について 情報じょうほう | 凡例はんれい
ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてん 「板鼻いたはな」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ 板鼻いたはないたはな 群馬ぐんま県けん西部せいぶ,安中あんなか市しの東ひがし端はしにある旧きゅう町まち域いき。 1889年ねん町制ちょうせい施行しこう。 1955年ねん近隣きんりん3町まち4村むらと合体がったいして安中あんなか町まちとなり,1958年ねん安中あんなか市しとなった。かつて中山道なかせんどうの宿場しゅくば町まちとして栄さかえた。明治めいじ時代じだいには養蚕ようさん地帯ちたいとなり,さなぎを餌えさに利用りようする養よう鯉こい業ぎょうが農家のうかの副業ふくぎょうとして行おこなわれ,専業せんぎょう化かした。中世ちゅうせいの山城やましろ鷹たかの巣す城跡じょうせきがある。 出典しゅってん ブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんブリタニカ国際こくさい大だい百科ひゃっか事典じてん 小しょう項目こうもく事典じてんについて 情報じょうほう
事典じてん・日本にっぽんの観光かんこう資源しげん 「板鼻いたはな」の解説かいせつ 板鼻いたはな (群馬ぐんま県けん安中あんなか市し)「中山道なかせんどう六ろく十じゅう九きゅう次じ」指定していの観光かんこう名所めいしょ。 出典しゅってん 日外にちがいアソシエーツ「事典じてん・日本にっぽんの観光かんこう資源しげん」事典じてん・日本にっぽんの観光かんこう資源しげんについて 情報じょうほう