現在日本の漁業は世界一の地位を占めているが,本項ではこうした日本漁業の発達を歴史的に概説し,それとの関連で外国の漁業についても若干触れることにしよう。なお第2次大戦後については〈水産業〉の項目を参照されたい。
原始・古代から中世の漁業
採取産業である漁業は原始時代から行われたが,その発達は内陸の河川湖沼や海面沿岸水域のうちで漁業が行われやすい条件をもったところで始められたと思われる。そして奈良時代以前から,突具,釣具,網のほかに魞(えり),簗(やな),筌(うけ),それに鵜飼いなどの漁具漁法が用いられていたという。その具体的内容がどの程度のものであったか明らかでないが,それらが奈良・平安時代にさらに発達し,その使用区域も広くなり,漁獲物の種類や量もかなり多くなったとみられる。
平安から鎌倉初期にかけて皇室,貴族,神社,寺院の諸権門が,それぞれの経済体制を確立していく過程で,漁業もその体制内に一定の位置を与えられていった。その位置付けは,あるいは水産物を貢進する供御人(くごにん),供祭人(ぐさいにん)等を寄人(よりうど)として組織し,御厨(みくりや)を設定することによって,あるいはその所有する荘園・公領内に浦,浜,津等の地域を定め,そこに生産者を招き寄せ開発させることによって行われた。そこから貢進された水産物は主として食膳に供せられるためのものであり,このほかに部分的には市売や振売を通じて,商品として流通する水産物もあった。
鎌倉・室町時代には,そのような関係がしだいに逆転して,水産物も商品流通の部分の比重が増大していき,やがてそれが主流を占めるようになった。それは漁業年貢の金納化などから推測される。またこの中世期に漁業生産の発展は,地域的拡大と漁業技術の発達という両面でさらに進められた。すなわち,はじめ畿内やその周辺が主であった漁業生産はかなり地域的に広がったし,中世末期には江戸時代に開花する大型網漁業が,伊豆,陸前,越中,九州など各地に姿を現しはじめたことが知られている。
近世における漁業の発展
漁業が名実ともに一つの産業といえるまでに発達したのは,江戸時代に入ってからである。江戸幕府が成立してから関東各地の漁業は関西についで急速に発達し(関東漁業開発),中期以降は東北と北海道の漁業も勃興した。このような発達は,江戸時代における商品経済の発達が,食料・肥料としての水産物の需要を増加させたためであり,またそれに対応して漁業技術が発達したためである。漁業技術の中では釣りはえなわなど各分野で進歩がみられたが,最も注目すべきは網漁業の技術である。そして江戸時代を通じて,日本の沿岸漁業におけるほとんどすべての代表的な漁業がいちおう出そろったのである。これら漁業の中には家族労働力だけで操業できるものも多かったが,10人以上数十人の労働力を必要とする大規模なものも少なくない。例えば上総九十九里浜の大地引網には,漁夫100人以上を必要とするものもあった。また建網(定置網類)は水中に垣網をたてて回遊魚群をふくろ網に誘導,捕獲する漁網であり,江戸時代に著しく発達したが,これにも漁夫数十人を要する大型漁網が少なくなかった。
これらの漁業の経営を述べるには,まず漁場制度に触れなければならない。漁業は天然に生息する魚介藻類を採取する産業であるから,そのための場である漁場がひじょうに重要である。概括的にいえば経済的価値が高く,位置固定・排他独占的利用の必要性が高い主要漁場の占有利用権は,総百姓共有,村中入会であった。なお総百姓といい村中といっても,その構成員は本百姓層のみで,水飲層は無権利状態であったとみられる。ただ水飲層も経済的価値が低く,位置固定・排他独占的占有利用の必要性も低い漁場で雑漁を営むことは許されていた。また経済的価値が高く,位置固定・排他独占的占有利用の必要性が低い漁場と,経済的価値が低く,位置固定・排他独占的占有利用の必要性が高い漁場との場合には,総百姓共有と個人有と二つの形態がみられえたであろう。総百姓共有漁場には大別して三つの形態がみられた。第1は,その漁場占有利用権が〈百姓株〉と結合し,一人前の百姓はすべて平等の占有利用権を分有する形態である。階層分化が進み,これらの百姓株に半人前,四分の一人前といった分化が行われた場合には,漁場占有利用権にもそれに応じた分化がみられた。第2は,漁場占有利用権がそれぞれの百姓の持高と結合し,それぞれの持高に比例して分有された形態である。耕地所有における総百姓の階層分化は,そのまま漁場占有利用権の持分の分化でもあった。第3は,以上のように漁場占有利用権を個々の百姓が分有することなく,それを村自体でもっている形態であった。なお総百姓の構成する近世的な〈村〉の形成が未成熟であった辺境地域では,漁場占有利用権の総百姓共有形態も未発達で,個々の上層百姓,名子主,商人などに,それが領主から与えられている形態が多かった。漁場占有利用権が近江商人に与えられたケースの多かった北海道の場所請負制度の場合は,その最も極端な事例である。
江戸時代の漁業経営は,家族労働力による小漁民経営が数の上では圧倒的であったが,家族労働力では営みえない大・中規模漁網経営やカツオ,マグロ等の釣りはえなわ経営も少なくなかった。そのような経営は漁民の共同経営か,網元の個人経営かいずれかであった。漁民の共同経営の場合でも,総百姓の共同経営と任意の漁民の共同経営と2通りであった。個人経営の労働力は小百姓や水飲百姓が多かったであろうし,共同経営の中でもそれは考えられる。江戸時代の漁業生産は,初めからほとんどすべてが商品生産として発達した。水産物市場は初期の城下町中心からしだいに在郷町や農村に拡大していった。その水産物流通の担当者は魚問屋であるが,その過程で漁業生産は魚問屋仕込制度などを通して,魚問屋の強い支配を受けるようになった。それに漁民の生活は農民の生活よりもずっと商品経済への依存度が高かった。
近代における発展
江戸時代末期までに一応出そろった日本の沿岸漁業は,そのまま明治初期にもちこされたが,当時の低い技術水準の制約下で,漁業生産は全体として横ばい,伸び悩み状態に入った。そして沿岸漁場の狭隘化問題がかなり深刻になってきていた。したがって明治期漁業の最重要課題は,政府にとっても漁業者にとっても漁業生産を発展させるための技術革新であり,明治期の大半はその模索であったとみられる。江戸時代で述べたように,漁業生産は早くから商品生産として発達し,家族労働力では経営できない大規模漁業が発達したために,漁業では早くから資本制生産の萌芽的形態がみられた。水産事項特別調査によると,1891年における全国の漁業者戸数は44万5000戸,その44.3%が漁夫戸数で残り55.7%が漁船漁具主戸数である。このように明治初年の漁業生産は,日本の産業の中でも最も資本制生産の萌芽的形態が目につく分野であった。しかしそのことは漁業生産のその後の順調な発達を意味するものではない。農林統計で漁獲高が記載されるのは1894年の162万t以降であるが,明治末期まで日本の漁獲高は横ばいを続けた。このような漁業生産の伸び悩み状態が全国的にみていつから始まるか確定はできないが,94年からはかなりさかのぼると思われる。この総生産量の伸び悩みは漁業生産の全領域における停滞を意味したのではなく,衰退していく古い漁業技術と開発されてくる新しい漁業技術との交錯の結果が生み出した現象であった。
古い漁業技術を概括的にとらえれば,第1にあまりにも沿岸的でごく狭い漁場範囲でしか有効でない技術であったことと,漁獲能率自体が低い技術であったということである。明治10年代から衰退傾向が顕著になる九十九里浜の大地引網漁業などは,その典型とみられる。
新しい漁業技術はその逆で,次の二つの方向をとった。第1は沖合遠洋への進出である。それは無動力漁船の時代からカツオ釣漁船やマグロはえなわ漁船の大型化,改良揚繰(あぐり)網,巾着網,打瀬(うたせ)網,流(ながし)網などの開発改良など漁業の沖合化,沖合操業化の方向として進められ,汽船漁業の導入や石油発動機による漁船の動力化などを通じて,大正期以降の沖合遠洋漁業のめざましい発達に連なった。第2は沿岸漁業の中での技術改良によって生産力を高めていく努力である。沿岸漁業の中でも漁業の沖合化,沖合操業化の方向が進み,事実上の漁場拡大が行われたし,もう一つ大型定置網の発明改良など漁獲能率を高める技術開発が進められた。それには綿網の開発普及など網材料の改良が大きかったが,これは第1の沖合遠洋漁業の場合にもいえることである。沿岸漁業の中でのもう一つの方向は,ノリ,カキ,真珠養殖とサケ・マスの孵化(ふか)放流など,養殖業への努力の展開が本格化されたことである。このようにして明治期は大正期以降の日本の本格的近代漁業を模索し,探り当てたのである。また以上の過程において,1899年にノルウェー式捕鯨の導入が成功し,1906年には石油発動機による漁船動力化の成功,08年には汽船トロール漁業の導入がみられた。これらはいずれも先進地のヨーロッパ諸国から輸入したり,学んだりしたものであった。
大正期以降戦前の漁業生産の発展はかなり順調であり,1912年の185万8000tから第2次大戦前最高に達した36年の432万8000tまで24年間に2.3倍の増加であった。海面漁業生産量の伸び率はもちろん沖合遠洋漁業のほうがはるかに高かったが,沿岸漁業生産量も1912年の172万tから36年の294万2000tと1.7倍になっている。ただ戦前には沿岸漁業生産量の比重が大きく,36年においても海面漁業生産量の68%を占めていた。以上の発展の過程は沖合遠洋漁業を先頭として,漁業における資本制生産発展の過程でもあった。多くの中小資本経営と日水,日魯,林兼など大資本経営も形成され,大経営を中心にカニ,サケ・マス,捕鯨など母船式漁業も発達した。ところで第1次世界大戦後,大正10年代の不況局面に入ってから漁獲量は伸びるが漁獲金額は横ばいの状態になった。昭和初期の恐慌期には最悪の状態になり,大漁貧乏が深刻化した。第2次大戦後まで続いたいわゆる〈沿岸漁業問題〉の発生である。漁業部門の内外における資本制生産の発達結果が,過剰人口をかかえ沿岸漁民の上に加えるようになった構造的重圧の深刻化であり,戦後まで引き継がれたのである。
江戸時代に村=総百姓を主体として形成された漁場制度は明治期に引き継がれ,新しい法治国家のもとでの漁場制度に再編された。1901年に旧漁業法が公布され,専用,定置,特別に整理された漁業権は物権とみなされ,その所有主体は明治の町村合併以前の〈村〉から同地区の〈漁業組合〉になった。この制度は旧慣尊重を原則とし,江戸時代の権利関係を打破するものではなかったが,条件によってその後民主化も進めうるものであった。しかし本格的な民主化政策としての漁業制度改革の実施は,第2次大戦後占領軍の軍政下においてであった。新漁業法は農地改革よりもおくれて難航の末に49年12月に成立し,50年3月以降に施行された。
第2次大戦後の発展
戦後漁業生産の発展は戦前よりもさらに急速であった。戦争による荒廃から生産量がほぼ戦前水準に復したのは51年(戦前を上回ったのは1952)であるが,同年の462万7000tから75年の1054万5000tまで,前述の戦前の例と同じ24年間に2.3倍に急増した。沖合遠洋漁業,特に沖合漁業の比重がぐっと高まり,沿岸漁業の比重が大きく低下した。また経済の高度成長に支えられて水産物需要が拡大し,国内生産の増加にもかかわらず,かつての水産物輸出国から71年には輸入国に転落,いまでは世界一の輸入国である。戦後における漁業生産の急速な発展を支えたのは,水産物需要の増加のほか,合成繊維の開発導入による漁網綱類の改良と漁船ならびに関連機器の発達,それに養殖技術の進歩である。またこのような漁業生産の発展は,高度成長に支えられたものであったが,一方で高度成長は漁村の若年労働力を他産業,あるいは都市に流出させていわゆる過疎問題を引き起こしたり,石油や工場・都市排水などによる漁場汚染問題を深刻化させるなど,さまざまな社会的ゆがみを生み出しもした。
執筆者:二野瓶 徳夫
漁業信仰
漁民の生業は厳しい自然環境のなかで営まれるため,生命の安全,豊漁祈願に関し,種々の信仰がある。船の守護神としての船霊(ふなだま)信仰は古くから知られ,船霊の名は《続日本紀》や《延喜式》神名帳に見える。この特徴として,その発現する機会は,(1)特定の場-海路難所,岬などの聖地,(2)特定の時-天候の急変や神に対し粗相をした場合,(3)特定の人だけに予兆が感知される,などである。また,オーダマサマをまつるところが瀬戸内海海域に広くみられる。オーダマは網霊の意味で,網のアバ(網の上縁部につける浮子)に取り付けたものを神体とし,これを失うと漁がないという。いうまでもなく,えびすは漁民信仰の基底をなす。一方,農業神としての稲荷信仰が漁民の間にも,青森県方面をはじめかなり広く流布している。狐の鳴き方や供物の食べぐあいで豊凶を占うという。さらに竜宮信仰は水神信仰を基盤とし,漁民に深く根ざした信仰でリューゴンさん,竜宮などと呼び,多くの港々の玄関口に当たる波止にまつられ,初漁の魚をささげ豊漁を祈願する。蛇も竜といつしか混交して〈長もの〉と表現され,海の神の表象となっている。海上生活で使うことを忌み嫌うことばは〈沖言葉〉といい,蛇や猿などの語は口にしない。また金物を海中に落とした場合,リューゴンさんにお詫びとして洗米や神酒を捧げる習俗がみられる。大漁祝(たいりよういわい)をマンイワイというが,マンは幸せとか運という意味で,不漁時にはまんなおしの儀礼を営む。死や葬儀関係のことを穢れとして黒不浄といって一般に嫌うが,一方では海上で海難者を見つけると必ず拾い上げて丁重に葬り,葬式に用いたものを豊漁の縁起物として歓迎する心意がみられる。出産や月経は赤不浄として徹底的に忌む。漁民の山アテ(沖で漁場を確定するため山を見て位置を知る)の対象になる山に寄せる信仰は強く,山形県善宝寺,宮城県金華山,志摩半島の青峰山などはその代表的な対象となっている。
→漁労文化
執筆者:北見 俊夫