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牧(ボク)とは? 意味や使い方 - コトバンク

まきみ)ボク

デジタル大辞泉だいじせんまき」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

ぼく【まき】[漢字かんじ項目こうもく

おとボクかん) [くんまき
学習がくしゅう漢字かんじ]4ねん
〈ボク〉
家畜かちくはなにする。「牧歌ぼっか牧場ぼくじょう牧草ぼくそう牧畜ぼくちく牧童ぼくどう牧羊ぼくようこうまき放牧ほうぼく遊牧ゆうぼく
人々ひとびとおさみちびく。「牧師ぼくし牧民ぼくみん
役人やくにん地方ちほう長官ちょうかん。「しゅうまき
〈まき〉「牧場ぼくじょう

うま‐き【まきうましろ

まき(まき」におなじ。むまき。
おおさはに―をきてうまはなつ」〈天智てんじおさむ

まき【まき

《「馬城ばじょうまき」の。「しろ」はものおさめておくところうしうまなどをはないにする場所ばしょ牧場ぼくじょう。まきば。

むま‐き【まきうましろ

うまき

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精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてんまき」の意味いみみ・例文れいぶん類語るいご

ぼく【まき

  1. 名詞めいし
  2. うしうまなどをはないにする場所ばしょ。まき。まきば。牧場ぼくじょう。〔孟子もうし公孫こうそんうしした
  3. うしうまなどをひと。うしかい。うまかい。〔春秋しゅんじゅうひだりでんあきらおおやけななねん
  4. うしうまなどをうこと。また、そのうしうま牧畜ぼくちく
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「むくげちょう穹廬にしてとりのごとくにまき(ホク)を逐ふ」(出典しゅってんだいから西域せいいきちょうひろし元年がんねんてん(1163)いち)
    2. [その文献ぶんけん]〔しょけい‐禹貢〕
  5. やしなうこと。やしなみちびくこと。〔こうみやびしゃく詁一〕
  6. 古代こだい中国ちゅうごく九州きゅうしゅう長官ちょうかんてんじて、地方ちほう長官ちょうかん。また、地方ちほうかん役人やくにん。〔しょけいたてせい

ま‐き【まき

  1. 名詞めいし ( 馬城ばじょう(まき) ) うしうまなどをはないにする場所ばしょ。まきば。ぼくじょう。ぼく。
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「人人ひとびと、あまたありけるかぎかさなりて、ころもすそをおのおのふまへつつ、すきすきにたおふくしたるは、まきのうま心地ここちぞしたりける」(出典しゅってんせまころも物語ものがたり(1069‐77ころか)さん)

うま‐き【まき馬城ばじょう

  1. 名詞めいし うまはないにする場所ばしょ。まきば。まき。
    1. [初出しょしゅつ実例じつれい]「またおお(さは)まき(ムマキ)きて、うまはなつ」(出典しゅってん日本書紀にほんしょき(720)天智てんじななねんなながつ寛文ひろふみばんくん))

むま‐き【まき馬城ばじょう

  1. 名詞めいしうまき(まき

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改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんまき」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

まき (まき)

うまうしはなうために区画くかくされた地域ちいき。《和名わみょうしょう》に〈むまき〉とみえ,このくんは〈馬城ばじょう〉あるいは〈うまおけ〉のといい,馬飼まかいおとのつまったものともいう。《日本書紀にほんしょき天智てんじ7ねん(668)7がつの〈(さわ)にまき(むまき)をきてうまはなつ〉の記事きじはつとするが,以前いぜんから各地かくちまきかれていたことはたしかである。

まきにはおおやけまきわたしまきとがあるが,律令制りつりょうせい整備せいびにつれておおやけまき制度せいど急速きゅうそくととのい,《ぞく日本にっぽんけいくも4ねん(707)3がつじょうに〈(てつ)のしるし摂津せっつ伊勢いせとう23こくたまいてまきこま,犢(こうし)にしるせしむ〉とみえる。れいせいまきは〈うまやまきれい〉によると,まきごとにちょう1人ひとりとばり1にんをおき,うまうしそれぞれ100とうの〈ぐん〉についてかく2人ふたりまきはいした。まきちょうとばり春秋しゅんじゅうろくあたえられ考課こうかをうけるかんじんであるが,実例じつれいでは郡司ぐんじきゅう地方ちほう豪族ごうぞくもちいられており,任期にんきさだめられていない。まきちょう国司こくし指揮しきにあって,まきひきいてうまうし増殖ぞうしょくたり,隍,しがらみなどの施設しせつ修造しゅうぞうはる野焼のやあきこうしるしうまうしちょう作成さくせいなどの責任せきにんをもっており,生産せいさんされたうま軍団ぐんだん乗馬じょうばにあて,一部いちぶえき伝馬てんまとし,民間みんかん売却ばいきゃくされることもあるが,その処分しょぶん国司こくし権限けんげんぞくする。れいせいまき設置せっち目的もくてきうまうし生産せいさんにあり,増殖ぞうしょく定数ていすうは5さい以上いじょうめす,4さい以上いじょう雌牛めうしの6わり,これをえると賞与しょうよいねあたえられる規定きていで,全数ぜんすうの1わり損耗そんこうみとめられていた。まき必須ひっすしょ施設しせつ修造しゅうぞうには近隣きんりん公民こうみん動員どういんされたものと推察すいさつされるが,いちまきすうひゃく~1000とうにもおようまうし管理かんり増殖ぞうしょく粗放そほう自然しぜん状態じょうたいにあり,生産せいさんされたなか野生やせいうまうし馴致じゅんちちちするため,まきには厩舎きゅうしゃ馬場ばば付属ふぞくしており,うまやには飼養しようのためのおおくのひのと配置はいちされていた。なお〈うまやまきれい〉のうまやじょう中央ちゅうおうりょう(めりよう)のうまや規定きていとみるせつ有力ゆうりょくであるが,地方ちほうまきにもうまや付属ふぞくしており,これが準用じゅんようされていたとかんがえられる。

 まきはその管理かんり必要ひつようじょう耕地こうち民家みんか隔離かくりしやすいしま中州なかす半島はんとうじょう地形ちけいおおうらないじょうされたが,広大こうだい面積めんせきめていたために墾開の対象たいしょうとなり,8世紀せいきなか以降いこう畿内きない近国きんごくには廃止はいし移転いてんされたものもおおく,軍団ぐんだんせいとともにれいせいまき衰退すいたいする。《延喜えんぎしき》にみられるおおやけまきはこうした状況じょうきょう対応たいおうして編成へんせいえされたもので,ひょうのように未墾みこんおお辺境へんきょう地方ちほう集中しゅうちゅうしている。《延喜えんぎしき》には(1)兵部ひょうぶしょう管下かんかの〈かんまき〉39まきうま27,うし15),(2)左右さゆうりょう管下かんかの〈勅旨ちょくしまき〉32まき,(3)おなじく〈きんみやこまき〉,いえしまとも7まき,(4)薬園やくえん耕作こうさく牛乳ぎゅうにゅう採取さいしゅ目的もくてきとした典薬てんやくりょう味原あじはらまき,の4しゅがみられる。このうちかんまきれいまきせい継承けいしょうしたものとみられるが,ここでは勅旨ちょくしまきとともに生産せいさんしたうまうし中央ちゅうおうみつげじょうするようにわっており,またきんまきみつぎじょうされたうまうし飼養しようするところに特色とくしょくがある。すなわち9世紀せいきには,かんまきおよび勅旨ちょくしまきから年貢ねんぐとしておさめられたうまうしは,べつ東国とうごくなど特定とくていの13ヵ国かこくからみつぎじょうされる〈諸国しょこく繫飼うし〉(毎年まいとしうま105,うし22)とともに,こま(こまひき)などによって皇族こうぞく貴族きぞくかんじん分与ぶんよされ,一部いちぶうまりょううまやくぬぎ飼(たてがい)されるが,きんまき飼し,または〈くに飼〉として畿内きない近国きんごく管理かんり委託いたくした。れいせい比較ひかくすると,この時期じきおおやけまき制度せいどは,中央ちゅうおう政府せいふ需要じゅよう中心ちゅうしん編成へんせいされていたことになる。しかし白羽しらはまきうらない牛牧うしきにみられるように,おおやけまき一部いちぶは9世紀せいきちゅうにすでに牛馬ぎゅうばはらい,せいぜい混入こんにゅうしてそのみつげおさめにあてる有名ゆうめい無実むじつ存在そんざいとなっており,のこったものも10世紀せいきなかばには,《朝野ちょうやぐん所収しょしゅうまきうませいえきかん文書ぶんしょさま〉でられるように,まきつかさ請負うけおい事業じぎょうとなって事実じじつじょう地方ちほう豪族ごうぞくわたしまきし,中央ちゅうおうへのみつぎじょう諸国しょこく繫飼うし一体化いったいかされてしまう(《西宮にしのみや》)。一方いっぽう勅旨ちょくし同様どうようはじめからなか私的してき荘園しょうえんてき性格せいかくをそなえていた勅旨ちょくしまきは,10世紀せいき最盛さいせいむかえ,しだいにうまりょうかんじん荘園しょうえんしながらもそのかずし,あらたに展開てんかいされる〈奥州おうしゅう交易こうえき〉とともに,まがりなりにも宮廷きゅうてい年中ねんじゅう行事ぎょうじとしてのこま牽をささえたのであり,うまりょうりょうとして中世ちゅうせいまで存続そんぞくしたものもすくなくなかった。

わたしまきはやくから史料しりょうにみえ,藤原ふじわらみなみくろ麻呂まろ上総かずさこく原牧はらまきのように8世紀せいきには地方ちほうにも普及ふきゅうしていた。11世紀せいきになると,殿下でんかわたりりょう河内かわちこく楠葉くずはまきをはじめ,摂関せっかんいんなどのわたしまき畿内きない近国きんごく中心ちゅうしん数多かずおお設定せっていされ,しばしば近隣きんりん荘園しょうえん紛争ふんそうこしており,そうした情勢じょうせいなかきんまきなども権門けんもんわたしまき転化てんかしていく。またまき広大こうだい面積めんせきめ,まきうまやには田畠たばた付属ふぞくしているのが普通ふつうであったため,しだいに墾開されてまき実質じっしつうしない,荘園しょうえん転生てんせいしたものもすくなくなかった。辺境へんきょうといわれる東国とうごくなどでもその事情じじょうわらず,原牧はらまきは9世紀せいきにはそうとなるが(げんそう),11世紀せいき以後いご急速きゅうそくにその傾向けいこうつよめる。

 こうした情勢じょうせいなかまき中世ちゅうせい武士ぶしとの関係かんけい注目ちゅうもくされる。ふるく10世紀せいき平将門たいらのまさかどかんまき長洲ながすだいゆいりょうまき基盤きばんとしていたが,武蔵むさしこく小野おのまき地盤じばんとして発展はってんした小野おの横山よこやまとう秩父ちちぶまき秩父ちちぶ甲斐かいこくかしわまえ穂坂ほさかまき逸見いつみ小笠原おがさわらをはじめ,かんまき勅旨ちょくしまきわたしりょうされながらおおくの武士ぶしだんした。騎馬きばおもとした中世ちゅうせい武士ぶしまき関係かんけい密接みっせつであり,武士ぶし棟梁とうりょう源氏げんじ発展はってん摂関せっかんしょまきふか関係かんけいにあったものと推察すいさつされている。鎌倉かまくら室町むろまちりょう幕府ばくふは,御厩みまや別当べっとう三浦みうらよしむら伊勢いせのような重要じゅうよう人物じんぶつ配置はいちし,みなもと頼朝よりとも以来いらいしばしば朝廷ちょうていみつげけんじているが,独自どくじまきせいおこなわれたかかはあきらかでない。しかし1210ねんうけたまわもと4)10がつ諸国しょこく御牧みまき興行こうぎょうのことを守護しゅご地頭じとうめいじ,翌年よくねん5がつ小笠原おがさわら御牧みまきまき奉行ぶぎょうじん三浦みうらよしむら代官だいかんとの喧嘩けんかのことが《吾妻あづまきょう》にみえるので,幕府ばくふ直轄ちょっかつまき設定せっていされていた可能かのうせいかんがえられる。すくなくとも鎌倉かまくら時代じだいに,幕府ばくふ支配しはいつよおよんだ東北とうほく地方ちほうまき発達はったつし,戦国せんごく以降いこううままき一大いちだい中心ちゅうしんとなる陸奥みちのくこくぬか(ぬかのぶ)ぐんしょまき基礎きそつくられたことはうたがいない。ぬかぐんなな御牧みまきはつは1334ねんたてたけし1)であるが,このぐん幕府ばくふ滅亡めつぼうとともに北条ほうじょうりょうから足利あしかがうつっていることも重要じゅうようである。また当時とうじ武家ぶけ社会しゃかいではりょうさかんに贈答ぞうとうされており,そのなかにはまきはなたれてうましつ改良かいりょう貢献こうけんしたものもすくなくなかったと推察すいさつされるが,その意味いみでは15世紀せいき以降いこう海外かいがい貿易ぼうえきなか中国ちゅうごくからうららがもたらされ,東北とうほく地方ちほうおおくの韃靼だったん(だつたん)うま移入いにゅうしたとつたえられることは興味深きょうみぶかい。戦国せんごく九州きゅうしゅう薩摩さつまには西洋せいよう輸入ゆにゅうしてまきはなしたというからまき伝承でんしょうのこされている。
執筆しっぴつしゃ

中世ちゅうせい以降いこうまきはその分布ぶんぷ地域ちいき縮減しゅくげんし,東北とうほく九州きゅうしゅうなどの開発かいはつ圧縮あっしゅくされていく。近世きんせい存在そんざいした隠岐おきまきはたけなどは,このような過程かていまれたこうまき輪転りんてん特殊とくしゅまきであるが,一般いっぱんにはむらおよび民衆みんしゅう利用りようする規模きぼのよりちいさいまきおおくなる。そして民衆みんしゅう共同きょうどううし放牧ほうぼくするだい牧場ぼくじょう(おおまきば)のほかに,より小規模しょうきぼ個人こじん牧場ぼくじょうとしてのしょう牧場ぼくじょう(こまきば)も出現しゅつげんしてくる。

 これにたい幕府ばくふしょはんもそれぞれおおやけまきもうけ,牛馬ぎゅうば飼育しいくつとめた。幕府ばくふは,直轄ちょっかつまきとして下総しもうさまきもうけ,小金こがねまきには5まき佐倉さくらまきには7まきあって小金こがねまき佐倉さくらななまきといわれていた。のち房州ぼうしゅう峰岡みねおかまき整備せいびされ,奉行ぶぎょうなどのしょくもできて,年々ねんねん名馬めいばした。そして放牧ほうぼく樹木じゅもく繁茂はんもしすぎてうま運動うんどうにさしつかえるときはあいだきをおこなわしめ,境界きょうかい土手どて普請ふしんなどにかんしても指令しれいあたえ,かくしてまぎけ,種馬たねうま仙台せんだい南部なんぶ三春みはる秋田あきたなどからせて収容しゅうようしたこともあり,また牧場ぼくじょう払下はらいさげ,烙印らくいん判定はんていなどもおこなわれて,幕府ばくふまきせいととのってきた。

 しょはんでも戦備せんび重要じゅうよう用具ようぐとしてうま繁殖はんしょく育成いくせいちからくした。たとえば東北とうほく盛岡もりおかはんむかしから名馬めいば産地さんちであったから,当時とうじすでにはんゆうの9牧場ぼくじょうひらかれていたが,いわゆるとなったのは慶長けいちょう元和がんわ(1596-1624)のころである。のち三保野みほのよんくさり広野ひろの立崎たちざきあわせて盛岡もりおかはんの13まきしょうしていた。弘前ひろさきはんむかしから牧畜ぼくちくさかんな土地とちで,枯木かれきひらまきなどはん営のうままきが5ヵ所かしょあった。水戸みとはんでは徳川とくがわ光圀みつくにが1678ねんのべたから6),常陸ひたちこく多賀たがぐん大能おおのむらげん高萩たかはぎ)にまきき,牛馬ぎゅうば放牧ほうぼくして〈大能おおのまき〉とづけ,はじめてオランダのうま12とうれて繁殖はんしょくはかり,まきは400とうにもなり,まき地域ちいきおおくのむらにまたがってひろ範囲はんいおよんでいた。西国さいこく薩摩さつまでは天文てんもん年間ねんかん(1532-55)に吉野よしのまきにアラビア輸入ゆにゅうして飼し,からまきしょうしていたという。1580ねん天正てんしょう8)には福山ふくやままきを,1666ねん寛文ひろふみ6)にはだい嶽野たけのまき開設かいせつし,当時とうじ薩摩さつまはんうちに20あまりまき存在そんざいした。

 幕府ばくふしょはんではこのように牧畜ぼくちくちからくし,江戸えど中期ちゅうき以降いこうになると幕府ばくふ直轄ちょっかつ牧場ぼくじょうである房州ぼうしゅう峰岡みねおかまきをはじめ駿しゅんしゅう尾上おがみまき天野あまのまきかすみまきなど,牧場ぼくじょう開始かいしされるものが,ますますおおくなる。そして盛岡もりおかはん薩摩さつまはんなどの雄藩ゆうはんではますますまきせいととのえて,その経営けいえいほう集約しゅうやくてきとなる。水戸みとはんでは桜野さくらのまき(1835)が,高鍋たかなべはんではかん牧民ぼくみんまきあわせて48まきかれ,肥後ひごでは阿蘇あそ広漠こうばくたる原野げんやをはじめとしてすうおおくの牧場ぼくじょうひらかれた。

 このような幕府ばくふしょはん官設かんせつ牧場ぼくじょうたいし,他方たほう民間みんかんにはさとまき百姓ひゃくしょうまきなどがあり,おおむねむら山林さんりん原野げんや共同きょうどう放牧ほうぼく採草さいそうしたが,とく一定いっていかくして〈まき〉をもうけることはまれであった。むら共同きょうどう利用りようである山林さんりん原野げんやへの共同きょうどう入会にゅうかい放牧ほうぼくで,この場合ばあいはその入会にゅうかい放牧ほうぼくまきとなる。近世きんせいさかんにおこなわれていた上記じょうきしょまき明治維新めいじいしんはほとんどはいまきとなったが,のち民間みんかん事業じぎょうとして経営けいえいされる牧場ぼくじょうとなっているものもある。
執筆しっぴつしゃ



まききゅうむら) (まき)

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百科ひゃっか事典じてんマイペディアまき」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

まき【まき】

牛馬ぎゅうば放牧ほうぼくし,その飼育しいく増殖ぞうしょく目的もくてき設定せっていされた区域くいき古代こだいれいせいかんまきは,しゅとして諸国しょこく軍団ぐんだん支給しきゅうするうま飼育しいくしたが,軍団ぐんだんせい崩壊ほうかいで9世紀せいきはじめにさい編成へんせいされ,《延喜えんぎしき》の規定きていでは兵部ひょうぶしょう(ひょうぶしょう)所管しょかんれいせいかんまき由来ゆらいする諸国しょこくまきかんまき)と,左右さゆうりょう(そうめりょう)所管しょかん皇室こうしつ牛馬ぎゅうば供給きょうきゅうのための御牧みまき(みまき)(勅旨ちょくしまき),みつぎじょう牛馬ぎゅうば飼養しようのためのきんまき(きんとのまき)の3しゅとなる。牛馬ぎゅうば年貢ねんぐとしてみつぎしんし,皇族こうぞくかんじん支給しきゅうされた。9―10世紀せいきころから権門けんもん地方ちほう豪族ごうぞくわたしまき増加ぞうかし,おおやけまきわたしまきこれらはのちに開発かいはつにより荘園しょうえんしていく。兵馬へいば重要じゅうようされた中世ちゅうせいには,まき武士ぶしだん発生はっせい基盤きばんとなることがおおく,江戸えど時代じだいにも幕府ばくふしょはんおおやけまきもうけて軍備ぐんびのためのりょう育成いくせいつとめた。→秩父ちちぶまき望月もちづきまき垂水たるみそう
関連かんれん項目こうもく岡屋おかやまき楠葉くずはまき皇室こうしつりょうしつ侶牧種子島たねがしま垂水たるみ東牧とうぼく垂水たるみ西牧にしまきとりやしなえまき放牧ほうぼく

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日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)まき」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

まきまき
まき

牛馬ぎゅうばなどの家畜かちくはないするところ大化たいか改新かいしん(645)以前いぜん文献ぶんけんあらわれてくるが、その詳細しょうさいあきらかでない。改新かいしんまき律令りつりょう(りつりょう)国家こっか一翼いちよくとして制度せいどされ、漸次ぜんじ整備せいびされていった。668ねん天智天皇てんぢてんのう7)7がつまきおおいてうまはなたせたとあり、700ねん文武ぶんぶ天皇てんのう4)3がつ諸国しょこくをしてまきさだ牛馬ぎゅうばはなたしめたことがみえる。れいせいまきは、その編纂へんさん(へんさん)されたうまやまきれい(くもくりょう)、うまやりつ(くこりつ)に規定きていされている。それによると、全国ぜんこくまきはすべて兵部ひょうぶ(ひょうぶ)しょう兵馬へいばがつかさどり、国司こくしのもとでまきちょう以下いかまきかんがその経営けいえいにあたり、こくごとに設置せっちされた軍団ぐんだん供給きょうきゅうする馬匹ばひつのほか、えき伝馬てんま農耕のうこううし増殖ぞうしょくはかった。しかし平安へいあん初期しょきには軍団ぐんだんせい崩壊ほうかいとともに、まき諸国しょこく牛馬ぎゅうばまきかんまき)、勅旨ちょくしまき御牧みまき)、きんまきりょうまき)のみっつにかれた。諸国しょこく牛馬ぎゅうばまきれいせいまきのうちまきてきしてのこった東西とうざいの18かこく39まきかぞえ、勅旨ちょくしまき左右さゆうりょう(めりょう)所管しょかん東国とうごくよんこく32まき皇室こうしつ御料ごりょう供給きょうきゅうをもっぱらにない、きんまき左右さゆうりょう所属しょぞく諸国しょこくからみつぎしんつなぎ飼(けいし)牛馬ぎゅうば京都きょうとちかよんこくろくまき放牧ほうぼくしたところである。これらの官営かんえいまきのほか、摂関せっかんをはじめ貴族きぞく寺社じしゃ経営けいえい領有りょうゆうしたすうおおくのわたしまきがしばしば史料しりょう登場とうじょうする。

 やがて公私こうしまき武士ぶし階級かいきゅう台頭たいとうする起因きいんともなる一方いっぽうまき耕地こうち荘園しょうえん(しょうえん)すすみ、牛馬ぎゅうば小作こさくうまや飼(きゅうし))が普及ふきゅう衰退すいたいしていったものとおもわれる。鎌倉かまくら時代じだいになると、軍事ぐんじおよび運輸うんゆ目的もくてきから、東北とうほく中部ちゅうぶ中国ちゅうごく九州きゅうしゅう牧畜ぼくちくてきした地方ちほうまき隆盛りゅうせいつづけて、近世きんせい牛馬ぎゅうば産地さんち基礎きそきずいた。くだって江戸えど時代じだいには、幕府ばくふ下総しもうさ(しもうさ)(千葉ちばけん)の小金こがね(こがね)まき佐倉さくら(さくら)ななまきなどおおくの直轄ちょっかつ牧場ぼくじょう整備せいびし、またしょはんのなかでも東北とうほく地方ちほうしょはん中国ちゅうごく地方ちほう松江まつえはんのようにはんまきとして再興さいこう奨励しょうれいして牛馬ぎゅうば生産せいさんそそいだところがおおくあった。

 明治めいじはいると、殖産しょくさん興業こうぎょうざして官営かんえいおよび民営みんえい牧場ぼくじょうは、外国がいこく種畜しゅちく輸入ゆにゅう洋式ようしき農機具のうきぐ導入どうにゅうすすめた。一方いっぽう軍事ぐんじよう馬匹ばひつ改良かいりょうのため、1896ねん明治めいじ29)4がつには種馬たねうま(しゅば)牧場ぼくじょうおよび種馬たねうましょ官制かんせい公布こうふし、全国ぜんこく種馬たねうま牧場ぼくじょうしょ種馬たねうましょきゅうしょ(のちに15かしょ増設ぞうせつ)がもうけられた。現在げんざいもこれらの施設しせつおおくは、畜産ちくさん多様たようにあわせて技術ぎじゅつ振興しんこうのために転換てんかんして使つかわれている。現在げんざいでは、まき山林さんりん原野げんや共同きょうどう放牧ほうぼくによる集約しゅうやくてき形態けいたいおおいとなまれている。

鈴木すずき健夫たけお


まき新潟にいがたけん
まき

新潟にいがたけん南西なんせいひがし頸城ぐん(ひがしくびきぐん)にあったきゅうむらめい牧村まきむら(むら))。現在げんざい上越じょうえつ(じょうえつ)南部なんぶめるいち地区ちく。2005ねん平成へいせい17)、安塚やすづか(やすづか)まち柿崎かきざき(かきざき)まち大潟おおがた(おおがた)まち吉川よしかわ(よしかわ)まち板倉いたくら(いたくら)まち名立なだち(なだち)まち浦川原うらがわら(うらがわら)むら大島おおしま(おおしま)むら、頸城(くびき)むら中郷なかごう(なかごう)むら清里きよさと(きよさと)むら三和さんわ(さんわ)むらとともに上越じょうえつ編入へんにゅうきゅうむらいきは、高田平野たかだへいや飯田いいだ(いいだ)川上かわかみりゅう位置いちする。信越しんえつ県境けんきょう豪雪ごうせつ山村さんそんで、明治めいじ末期まっきまではまき油田ゆでんられたが、現在げんざい廃鉱はいこうになっている。すべりのつねかさね地帯ちたい過疎かそなやまされている。高田たかだからバスの便びんがあり、国道こくどう405号線ごうせんつうじる。国史こくしあと宮口みやぐち古墳こふんぐんからアスファルトぬりだまなどが出土しゅつどしている。鷹羽たかはね(たかば)温泉おんせんいこい(いこ)いのもり中心ちゅうしんとするまきふるさとむら名所めいしょになっている。

山崎やまざき久雄ひさお

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山川やまかわ 日本にっぽんしょう辞典じてん 改訂かいてい新版しんぱんまき」の解説かいせつ

まき
まき

うまうしなどを放牧ほうぼくして飼育しいくするための土地とち施設しせつ日本にっぽんには古墳こふん中期ちゅうき以降いこうまきによるうま生産せいさん導入どうにゅうされた。律令制りつりょうせいのもとではしゅとして軍事ぐんじてき目的もくてきからまき制度せいど国家こっかてき整備せいびされ,700ねん(文武ぶんぶ4)全国ぜんこく牛馬ぎゅうばまき設定せっていめいじられた。うまやまきれい(くもくりょう)などの規定きていでは,兵馬へいば全国ぜんこくまき中央ちゅうおう管轄かんかつし,各国かっこくまき経営けいえい管理かんり国司こくし職掌しょくしょうとされた。まきごとにまきちょう(ぼくちょう)・牧子まきこ(ぼくし)がおかれ,経営けいえい実務じつむ従事じゅうじした。れいせいまきは8世紀せいき後期こうき~9世紀せいき役割やくわりおうじて諸国しょこくまき(かんまき)・御牧みまき(みまき)(勅旨ちょくしまき)・きんまき(きんとのまき)の3形態けいたい分化ぶんかした。「延喜えんぎしき」にはこれら3しゅまき規定きていされた。政府せいふによるまき経営けいえい平安へいあん中期ちゅうきには形骸けいがいし,そのわたしまき(しのまき)が隆盛りゅうせいした。これらのまき武士ぶし発生はっせい重要じゅうよう舞台ぶたいになったとみられる。

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ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてんまき」の意味いみ・わかりやすい解説かいせつ

まき
まき

牛馬ぎゅうばなどをはないにする土地とちをいう。牧場ぼくじょう古名こみょう日本にっぽん牧畜ぼくちく上古じょうこにさかのぼるが,大化たいか改新かいしん (645) 以降いこう軍馬ぐんばえき農耕のうこうよう牛馬ぎゅうば管理かんり厳密げんみつ規定きていされるようになり,その飼育しいくである牧場ぼくじょう国家こっかによる制度せいどおこなわれた。醍醐天皇だいごてんのうは『延喜えんぎしき』によって,皇室こうしつりょう供給きょうきゅうさせるための御牧みまき兵部ひょうぶしょう管轄かんかつさせる諸国しょこくまき左右さゆうりょう所管しょかんきんまき指定していさせ,御牧みまき年貢ねんぐ信濃しなの 80,甲斐かい 60,武蔵むさし上野うえのかく 50とさだめた。その律令りつりょう国家こっか解体かいたいとともにかんまき衰退すいたいしたが,それにかわ各地かくちわたしまき設置せっちされていった。江戸えど時代じだいはいると8だい将軍しょうぐん徳川とくがわ吉宗よしむね下総しもうさ小金こがね佐倉さくらおおやけまきひらき,しょはんのなかでも南部なんぶはんまき松江まつえはん牧牛ぼくぎゅうなどがおこなわれた。

まき
まき

新潟にいがたけん南西なんせい上越じょうえつ南東なんとうきゅうむらいきひがし頸城丘陵きゅうりょう西側にしがわ位置いちし,みなみ長野ながのけんせっする。 1954ねん沖見おきみむら合体がったい。 2005ねん上越じょうえつ編入へんにゅう明治めいじ中期ちゅうき最盛さいせいであった越後えちご油田ゆでんひとつがある。しゅ産業さんぎょう農業のうぎょうで,棚田たなだでの米作べいさく野菜やさい栽培さいばい,および畜産ちくさんおこなわれる。ほそなわ特産とくさんすべりでもられる。宮口みやぐち古墳こふんぐん水科みずしな古墳こふんぐん (ともにくに指定してい史跡しせき) ,鷹羽たかはね温泉おんせんがある。

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旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばんまき」の解説かいせつ

まき
まき

牛馬ぎゅうば飼育しいく
大宝たいほうれいうまやまきれい規定きていされ,延喜えんぎしきには御牧みまき勅旨ちょくしまき)・諸国しょこくまききんまきの3しゅがあり,牛馬ぎゅうば飼育しいくし,皇室こうしつ政府せいふ軍団ぐんだんえき伝馬てんま供給きょうきゅうげんとなった。平安へいあん時代じだいには貴族きぞくわたしまきが,鎌倉かまくら時代じだい以降いこう軍馬ぐんば運輸うんゆ必要ひつようから各地かくちまきができた。江戸えど時代じだいさかんにおこなわれ,幕府ばくふおおやけまき佐倉さくらなど),南部なんぶはんまき松江まつえはん牧牛ぼくぎゅうなどが有名ゆうめい

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世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん旧版きゅうばんうちまき言及げんきゅう

【ウマ(うま)】より

…それらのうち,アンキテリウムはアジアへ移住いじゅうし,ユーラシアの森林地帯しんりんちたいつぎの鮮新まで繁栄はんえいした。日本にっぽんでもその化石かせきられ,岐阜ぎふけん可児かに(かに)まち発見はっけんされたヒラマキウマ(たいらまき)がそれにあたる。中新ちゅうしん後期こうきは,ぜん世界せかいてき乾燥かんそうがあり草原そうげんせい環境かんきょう拡大かくだいしたが,それにともなってウマだい2かいだい放散ほうさんられた。…

こま牽】より

平安へいあん時代じだい諸国しょこくまき(まき)からみつぎしんするうま天皇てんのう儀式ぎしき。8月15にちにおこなわれたが,のち朱雀すざく天皇てんのうくにのため,16にち変更へんこうとなった。…

※「まき」について言及げんきゅうしている用語ようご解説かいせつ一部いちぶ掲載けいさいしています。

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