馬や牛を放し飼うために区画された地域。《和名抄》に〈むまき〉とみえ,この訓は〈馬城〉あるいは〈馬置〉の意といい,馬飼の音のつまったものともいう。《日本書紀》天智7年(668)7月の〈多(さわ)に牧(むまき)を置きて馬を放つ〉の記事を初見とするが,以前から各地に牧が置かれていたことは確かである。
古代の公牧
牧には公牧と私牧とがあるが,律令制の整備につれて公牧の制度は急速に整い,《続日本紀》慶雲4年(707)3月条に〈(てつ)の印を摂津,伊勢等23国に給いて牧の駒,犢(こうし)に印せしむ〉とみえる。令制の牧は〈厩牧令〉によると,牧ごとに長1人,帳1人をおき,馬,牛それぞれ100頭の〈群〉について各2人の牧士を配した。牧長,帳は春秋に禄を与えられ考課をうける官人であるが,実例では郡司級の地方豪族が用いられており,任期も定められていない。牧長は国司の指揮下にあって,牧士を率いて馬牛の増殖に当たり,隍,柵などの施設の修造,春の野焼き,秋の校印,馬牛帳の作成などの責任をもっており,生産された馬は軍団の乗馬にあて,一部は駅馬,伝馬とし,民間に売却されることもあるが,その処分は国司の権限に属する。令制の牧設置の目的は馬牛の生産にあり,増殖の定数は5歳以上の雌馬,4歳以上の雌牛の6割,これを超えると賞与の稲を与えられる規定で,全数の1割の損耗が認められていた。牧に必須の諸施設の修造には近隣の公民が動員されたものと推察されるが,一牧数百~1000頭にも及ぶ馬牛の管理と増殖は粗放な自然状態にあり,生産された半ば野生の馬牛を馴致し採乳するため,牧には厩舎や馬場が付属しており,厩には飼養のための多くの丁が配置されていた。なお〈厩牧令〉の厩条は中央馬寮(めりよう)の厩の規定とみる説が有力であるが,地方の牧にも厩は付属しており,これが準用されていたと考えられる。
牧はその管理の必要上,耕地や民家と隔離しやすい島や中州,半島状の地形が多く占定されたが,広大な面積を占めていたために墾開の対象となり,8世紀半ば以降,畿内,近国には廃止,移転されたものも多く,軍団制とともに令制の牧は衰退する。《延喜式》にみられる公牧はこうした状況に対応して編成替えされたもので,表のように未墾地の多い辺境地方に集中している。《延喜式》には(1)兵部省管下の〈官牧〉39牧(馬27,牛15),(2)左右馬寮管下の〈勅旨牧〉32牧,(3)同じく〈近都牧〉,家嶋とも7牧,(4)薬園の耕作と牛乳の採取を目的とした典薬寮の味原牧,の4種がみられる。このうち官牧は令の牧制を継承したものとみられるが,ここでは勅旨牧とともに生産した馬牛を中央に貢上するように変わっており,また近都牧は貢上された馬牛を飼養するところに特色がある。すなわち9世紀には,官牧および勅旨牧から年貢として納められた馬牛は,別に東国など特定の13ヵ国から貢上される〈諸国繫飼馬牛〉(毎年馬105,牛22)とともに,駒牽(こまひき)などによって皇族,貴族,官人に分与され,一部は馬寮の厩で櫪飼(たてがい)されるが,他は近都牧で放飼し,または〈国飼〉として畿内近国に管理を委託した。令制と比較すると,この時期の公牧の制度は,中央政府の需要を中心に編成されていたことになる。しかし白羽馬牧や占市牛牧にみられるように,公牧の一部は9世紀中にすでに牛馬を売り払い,正税に混入してその利を貢納にあてる有名無実の存在となっており,残ったものも10世紀半ばには,《朝野群載》所収〈牧馬生益勘文書様〉で知られるように,牧司の請負事業となって事実上地方豪族の私牧化し,中央への貢上は諸国繫飼馬牛と一体化されてしまう(《西宮記》)。一方,勅旨田と同様に初めから半ば私的・荘園的性格をそなえていた勅旨牧は,10世紀に最盛期を迎え,しだいに馬寮官人の荘園と化しながらもその数を増し,新たに展開される〈奥州交易馬〉とともに,まがりなりにも宮廷年中行事としての駒牽を支えたのであり,馬寮領として中世まで存続したものも少なくなかった。
私牧と中世の牧
私牧は早くから史料にみえ,藤原南家黒麻呂の上総国藻原牧のように8世紀には地方にも普及していた。11世紀になると,殿下渡領河内国楠葉牧をはじめ,摂関家,院などの私牧が畿内近国を中心に数多く設定され,しばしば近隣荘園と紛争を起こしており,そうした情勢の中で近都牧なども権門の私牧に転化していく。また牧は広大な面積を占め,牧厩には田畠が付属しているのが普通であったため,しだいに墾開されて牧の実質を失い,荘園に転生したものも少なくなかった。辺境といわれる東国などでもその事情は変わらず,藻原牧は9世紀には荘となるが(藻原荘),11世紀以後急速にその傾向を強める。
こうした情勢の中で牧と中世武士との関係が注目される。古く10世紀の平将門は官牧長洲,大結両牧を基盤としていたが,武蔵国小野牧を地盤として発展した小野横山党,秩父牧の秩父,甲斐国柏前,穂坂牧の逸見,小笠原をはじめ,官牧や勅旨牧も私領化されながら多くの武士団を生み出した。騎馬を主とした中世武士と牧の関係は密接であり,武士の棟梁源氏の発展も摂関家の諸牧と深い関係にあったものと推察されている。鎌倉・室町両幕府は,御厩別当に三浦義村や伊勢氏のような重要人物を配置し,源頼朝以来しばしば朝廷に貢馬を献じているが,独自の牧制が行われたか否かは明らかでない。しかし1210年(承元4)10月に諸国の御牧興行のことを守護・地頭に命じ,翌年5月に小笠原御牧の牧士と奉行人三浦義村の代官との喧嘩のことが《吾妻鏡》にみえるので,幕府直轄の牧が設定されていた可能性も考えられる。少なくとも鎌倉時代に,幕府の支配が強く及んだ東北地方で牧が発達し,戦国以降の馬牧の一大中心地となる陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡の諸牧の基礎が作られたことは疑いない。糠部郡の七戸御牧の初見は1334年(建武1)であるが,この郡が幕府滅亡とともに北条家領から足利氏に移っていることも重要である。また当時の武家社会では良馬が盛んに贈答されており,その中には牧に放たれて馬質の改良に貢献したものも少なくなかったと推察されるが,その意味では15世紀以降の海外貿易の中で中国から麗馬がもたらされ,東北地方に多くの韃靼(だつたん)馬を移入したと伝えられることは興味深い。戦国期の九州薩摩には西洋馬を輸入して牧に放したという唐牧伝承が残されている。
執筆者:福田 豊彦
近世の牧
中世以降,牧はその分布地域を縮減し,東北,九州などの未開発地に圧縮されていく。近世に存在した隠岐の牧畑などは,このような過程で生まれた耕牧輪転の特殊な牧であるが,一般には村および民衆の利用する規模のより小さい牧が多くなる。そして民衆が共同で牛を放牧する大牧場(おおまきば)のほかに,より小規模の個人牧場としての小牧場(こまきば)も出現してくる。
これに対し幕府諸藩もそれぞれ公の牧を設け,牛馬の飼育に努めた。幕府は,直轄の牧として下総に牧を設け,小金牧には5牧,佐倉牧には7牧あって小金五牧,佐倉七牧といわれていた。のち房州峰岡牧が整備され,野馬奉行などの職もできて,年々名馬を産した。そして放牧地の樹木が繁茂しすぎて馬の運動にさしつかえるときは間引きを行わしめ,境界の土手普請などに関しても指令を与え,地を画して牧区を分け,種馬を仙台,南部,三春,秋田などから取り寄せて収容したこともあり,また牧場の払下げ,烙印の判定なども行われて,幕府の牧制も整ってきた。
諸藩でも戦備の重要な用具として馬の繁殖育成に力を尽くした。例えば東北の盛岡藩は昔から名馬の産地であったから,当時すでに藩有の9牧場が開かれていたが,いわゆる御野となったのは慶長・元和(1596-1624)のころである。のち三保野,四鎖野,広野,立崎野を併せて盛岡藩の13牧と称していた。弘前藩も昔から牧畜の盛んな土地で,枯木平牧など藩営の馬牧が5ヵ所あった。水戸藩では徳川光圀が1678年(延宝6),常陸国多賀郡大能村(現,高萩市)に牧を置き,牛馬を放牧して〈大能牧〉と名づけ,初めてオランダの馬12頭を入れて繁殖を図り,牧馬は400頭にもなり,牧の地域も多くの村にまたがって広い範囲に及んでいた。西国の薩摩では天文年間(1532-55)に吉野牧にアラビア馬を輸入して放飼し,唐牧と称していたという。1580年(天正8)には福山牧を,1666年(寛文6)には大嶽野牧を開設し,当時,薩摩藩内に20余牧が存在した。
幕府諸藩ではこのように牧畜に力を尽くし,江戸中期以降になると幕府の直轄牧場である房州峰岡牧をはじめ駿州の尾上牧,天野牧,霞之牧など,牧場の開始されるものが,ますます多くなる。そして盛岡藩,薩摩藩などの雄藩ではますます牧制を整えて,その経営法は集約的となる。水戸藩では桜野牧(1835)が,高鍋藩では官牧民牧あわせて48牧が置かれ,肥後では阿蘇の広漠たる原野をはじめとして数多くの牧場が開かれた。
このような幕府諸藩の官設牧場に対し,他方,民間には里牧,百姓牧などがあり,おおむね村の山林原野に共同で放牧採草したが,特に一定の地を画して〈牧〉を設けることはまれであった。村の共同利用地である山林原野への共同入会放牧で,この場合はその入会放牧地が牧となる。近世に盛んに行われていた上記の諸牧も明治維新後はほとんど廃牧となったが,のち民間の事業として経営される牧場となっているものもある。
執筆者:三橋 時雄