油井から生産されたままの,液状炭化水素を主成分とし,微量の硫黄,窒素,酸素,金属などを含む天然化合物を原油といい,炭化水素系天然ガスとともに石油と総称される。各種燃料油,潤滑油,アスファルトなどの石油製品も広義には石油のなかに含まれる。
成因
石油の成因については19世紀初頭以来,有機(生物)起源説と無機(無生物)起源説とが対立してきた。当初有力だったのは無機説であって,このなかには火山起源説,炭酸ガスとアルカリ金属との接触によるとの説,カーバイドと水との反応によるとの説があり,化学者によって提案されたものが多い。現在でもロシアでは無機説と有機説との激しい論争が続いているが,世界的傾向としては,第2次大戦後はほぼ有機説で統一されている。この決め手の一つは,石油のなかにポルフィリンが含まれていることで,この物質は生物のヘモグロビンやクロロフィルから変化したものである。有機成因説のなかでも石炭起源説,陸成植物説,水成植物説などのような提案が行われたが,石油は海成層に分布する場合が多いので,現在は海成の生物に由来するという考え方が有力である。しかし,陸成層のなかに分布する石油も,アラスカ,中国,リビアなどでしだいに広く発見されるようになり,世界全体の石油の1/3近くは陸成のものという推定もある。とくに研究が進んでいるのはケロジェン起源説である。ケロジェンkerogenは地球上に最も多量に存在する有機物で,熱作用によってケロジェンから石油系炭化水素が生成されることは実験的にも証明された(〈石油根源岩〉の項を参照)。
産状と成分
これまでの石油の産状に関する資料から,世界の油田の多くは地温こう配が大きい所では比較的浅い地層に,地温こう配が小さい所では比較的深い地層に石油が存在する傾向がある。
世界の多くの原油の分析結果によると,元素組成はだいたい次の範囲にある。炭素83~87%,水素11~14%,硫黄0.05~2%,窒素0.1~2%,酸素0~2%。石油の炭化水素成分は化合物の分子構造のタイプによって一般に,パラフィン系,オレフィン系,ナフテン系および芳香族系に区分される。パラフィン系炭化水素はCnH2n+2の分子式の飽和鎖式化合物,オレフィン系炭化水素は二重結合をもち,二重結合1個の場合はCnH2nの一般式で示される鎖式化合物,ナフテン系炭化水素は少なくとも1個の飽和環(ナフテン環)を含み一般式はCnH2nの環式化合物,芳香族炭化水素は少なくとも1個の芳香族環を含む環式化合物で,その原型はベンゼンである。一方,天然ガスに含まれるおもな炭化水素はメタン,エタン,プロパン,イソブタン,ノルマルブタン,ペンタンである。
非在来型石油・ガス
通常の油田から採収される原油のほかに,採収技術も未熟であり,現在の油価では商業化が困難であるがゆえに非在来型原油と呼ばれる石油系炭化水素資源があり,オイルサンド(タールサンド)鉱床とオイルシェール鉱床が含まれる。前者は普通の原油が地下浅所,または地表に露出して,揮発分が気化したり,天水,空気との接触により分解が行われて重質化したものである。カナダのアルバータ州のアサバスカ鉱床,ベネズエラのオリノコ鉱床が巨大鉱床として知られている。オイルシェールはケロジェンを大量に含んだ特殊な有機質岩石で,成因的には石油と石炭との中間に位し,生成環境は湖またはきわめて浅い海と推定される。アメリカのコロラド州,オーストラリアなどに大鉱床が分布する。
天然ガスについても非在来型ガスと総称されるものがあり,このなかにはバイオマス,廃棄物などより生成されるガス,石炭の地下ガス化,ガス水和物(メタンハイドレート)などのガスも含まれるが,現在アメリカで最も有望と考えられているのはタイトフォーメーション・ガス,コールベットメタンとデボニアンシェール・ガスである。タイトフォーメーション・ガスはロッキー山脈地域に大量に分布するタイト(硬質)砂岩の中のガスをフラクチャリング(破砕)法によって採収する。デボニアンシェール・ガスはアパラチア地域のデボン紀シェール(ケツ岩)の中のガスをやはりフラクチャリングによって回収する。
探鉱開発
石油,天然ガスの探鉱開発は,他の地下資源と同様に,特定の地域について鉱業権が設定される。この石油利権が,産油国の民族意識の高揚とともに,鉱業権の国有化あるいは政府の経営参加という形で圧迫を受けている。しかし,産油国の国営石油会社は,自力で石油の探鉱開発を行う能力が十分でなく,先進国の石油会社と請負または生産分与契約を結んでいる。
石油・天然ガスの開発事業は,まず地下に潜在する油ガス層を探す探鉱から着手する。石油の探鉱手段は近年飛躍的に向上してはいるが,商業的に採算がとれる油田の発見率は平均して試掘井100坑当り数油田である。幸いに油ガス層が発見されたら,その埋蔵量を計算し,開発の採算性を調査する油層評価を行い,開発移行が決定されたら詳細な開発計画と生産計画とを策定する。
石油の開発,生産は油層内の流体がもっている天然の自噴エネルギーを利用して,石油を地表まで採揚することに始まる。エネルギーが枯渇してくるとポンプでくみ揚げる。しかし,天然のエネルギーだけに頼って採油を行うと,平均的には地下に賦存する油量の5~30%程度しか回収できない。油層へ水またはガスを圧入したり,油層を直接加熱したり,界面活性剤,ポリマーまたは炭酸ガスなどを注入して油の採収率(回収率)を高めるためのさまざまな方法が研究されている。これらの方法を改良型採収法(IOR)あるいは増進回収法(EOR)と総称する。近年における遺伝子組換え,細胞融合などのバイオテクノロジーの急速な進歩を基礎として,バクテリアを利用して油の回収率を向上させる方法も有望視されている。
原油および天然ガスの埋蔵量の計算法は,JISで容積法,物質収支法および減退曲線法の3種類が定められている。埋蔵量は原始埋蔵量と可採埋蔵量とに分けられ,またそれぞれは油ガス層賦存の確実度に応じて確認,推定および予想の三つのカテゴリーに区分される(〈埋蔵量〉の項を参照)。
石油開発・利用の歴史
石油が人類に利用されるようになったのは紀元前3000年ころからで,アスファルトの利用から始まったといわれる。以後18世紀末までは,地表にしみ出している石油を防腐剤,薬剤,灯火,炊事などに利用したにとどまった。
19世紀の中ごろにアメリカで石油から良質のランプ油が製造されるようになり,石油の需要は急速に伸びて,地表にしみ出している石油を採収しているだけでは不十分となり,井戸を掘って石油を採取するようになった。1855年にビスルG.H.Bissellはペンシルベニア州のタイタスビルに世界で最初の石油会社を設立した。この会社に工事主任として迎えられたE.L.ドレークは,塩水井を掘る技術を用いて,59年に世界最初の油を目的とした坑井による石油の発見に成功した。今から百数十年前にすぎない。ドレーク井は油徴地の真ん中の,地形的にはクリーク状の低地に掘削された。当時は石油は低地にたまるものと信じられていた。しかし,その後まもなく,カナダ地質調査所のハントT.S.Huntが石油鉱床と背斜構造の関係について注目し,次いで85年にペンシルベニア州地質調査所のホワイトI.C.Whiteが背斜説を確立した。背斜構造は現在でも最も有力なトラップ型式である。
19世紀中ごろまでは,照明用燃料として鯨油や樹脂からろうそくが作られていた。しかし,このころから炭鉱のなかの浸出油,油分を多量に含む石炭の一種,天然アスファルトを原料とする〈石炭油〉の製造が企業化されるようになった。これに呼応して,ドレーク井の成功を契機として石油産業は急速に発展した。この時代の石油の利用は灯油留分だけに限定されていたが,19世紀末に至って重油の大規模利用の道が開かれるようになった。20世紀に入ると,ガス灯,電灯が普及して灯火用としての石油の需要が減少した代りに,重油や内燃機関用の灯油の需要が増加した。1908年フォード社が低価格乗用車(T型フォード)を発表し,量産が始まったので,その後数年間でガソリンは最も重要な石油製品となった。
第2次大戦は第1次大戦にも増して,石油の重要性を認識させたことはいうまでもないが,この時期に前後して中東地域で膨大な石油資源が発見され,大量かつ安価な石油の供給が可能になった。30年代以降,エネルギーは石炭から石油への〈流体革命〉が急速に進行した。石油は交通機関の動力源,産業や家庭の熱源,電力の発生源としての主力を占めているほか,石油化学製品として日常生活のすべての面に浸透している。
しかし陸上の石油開発の余地がしだいに狭められるに伴って,海洋の石油資源が注目されるようになった。とくに水深約200mまでの大陸棚は,地質学的には陸地とまったく変りがなく,海洋の石油資源の90%近くが大陸棚に分布するものと期待されている。本格的な海洋の石油掘削は,47年にメキシコ湾の浅海部で開始され,しだいに深海部へ向かった。83年には掘削船によってアメリカ東海岸沖の水深2300mにおいて掘削が行われた。しかし,実際に石油を採収している最深水深は,97年にブラジル沖のカンポス堆積盆でペトロブラス国営石油会社が記録した1710mである。現在海洋油田からの生産量は,世界の石油の総生産量の約30%を占めているが,将来はそのシェアが増える傾向にある。
産油国は1960年の世界全体の原油生産量が約2100万バレル/日であったころにOPEC(オペツク)(石油輸出国機構)を結成し,原油価格の上昇に積極的な攻勢をかけた。とくに73年の第4次中東戦争をきっかけとして,油価は一挙に数倍に高騰した(第1次石油危機)。次いで77年の秋ごろから不穏な政治情勢に陥っていたイランにおいて,78年2月にイスラム革命政権が成立した。79年の史上最高の原油生産量(約6240万バレル/日)であったころ,イランの石油生産はほとんど停止して,石油の需給は再び逼迫(ひつぱく)し,第2次石油危機を迎えた。その結果,1年余で石油は再び2倍以上に高騰した。石油の資源量はかなり膨大であるとしても,有限な化石燃料資源であることは事実であり,石油が“低廉かつ豊富”なエネルギー源であった時代は過ぎ去ったのである。
しかしその後は,先進国を中心に省エネルギー,脱石油および石油代替エネルギーへの移行が進んで石油需要は下降し,83年には約5300万バレル/日まで落ち込んだ。さらに世界的に景気が低迷していること,イラン・イラク戦争の勃発後,消費国が通常水準よりもかなり多くなった石油備蓄を取り崩していることなども需要減少の原因である。石油の供給面では,非OPEC自由諸国の石油生産が増加し,その分OPECの生産が減少している。イギリスは81年に初めて純石油輸出国となった。西欧諸国では,距離的に近くかつ割安な北海原油に対する需要が増加している。また先進各国とも安定的供給確保の見地から,原油購入先の分散をはかっている。
90年8月,イラクのクウェート侵攻により湾岸危機が勃発したが,91年2月の停戦後,クウェートの油田炎上とイラク原油の輸出禁止による供給量の落ち込みを,サウジ,アブ・ダビー,イラン,ベネズエラの増産で埋め合わせたため,第3次石油危機は回避された。
日本における石油の歴史
一方,日本でも石油に関する記録は古く,天智天皇のころ(668)越後の国より〈燃える水〉〈燃える土〉が献上されたのをはじめとして,数々の伝承がある。江戸時代には灯油や薬用として一部で使用されてきたが,石油が商品として広く取り扱われるようになったのは,明治になって灯油が輸入されるようになってからである。明治初年には,新潟県を中心とする日本海側で石油の採掘ブームが起こったが,当時は零細業者ばかりであった。近代石油産業としての第一歩は1888年の日本石油,92年の宝田石油の設立に始まる。日本石油は新潟県尼瀬海岸において海中に桟橋を構築し,機械掘りに成功した(1891)が,これは世界最初の海洋掘削であった。
1890年代の後半からは,外国石油会社も日本へ進出し,日宝両社と激しい販売競争が続いたが,両社は1921年に合併して新しい日本石油が発足した。同社は24年ころから国産原油の採掘,精製よりも,輸入原油の精製・販売部門へ重点を転換していった。31年の満州事変を契機として,それ以降は日中戦争,太平洋戦争へと長い戦時統制時代が続いた。41年には特殊法人として帝国石油が設立され,各社の採掘部門が統合された。
第2次世界大戦による石油精製業の被害は甚大であった。当初アメリカの占領政策は,石油産業に対しても厳しく,太平洋側の精油所の復旧は認められなかった。しかし,49年にはアメリカの政策は180度転換し,既存の精油所の再開による輸入原油の精製が開始された。日本の精製業は,原油の安定輸入を確保するために次々と外資導入を行った。62年に公布された石油業法によって,日本の石油精製業はさまざまな規制の下で事業を行っていくことになり,現在に至っている。
73年の第4次中東戦争に端を発した石油危機に対して,日本政府は〈石油緊急対策要綱〉をベースとする石油の消費抑制を指導し,次いで〈石油需給適正化法〉および〈国民生活安定緊急措置法〉を公布施行した。石油危機に伴って油価は4倍に高騰し,これが石炭,天然ガス,LNG,ウランなどのその他のエネルギー価格にも波及し,全世界的なエネルギー高価格時代を迎えた。
78年のイランの政変に伴う第2次石油危機および80年のイラン・イラク戦争勃発後は,消費節減,景気下降などによって,日本の石油需要は大幅に減少した。このため石油需給の混乱は軽微ですんだが,石油精製業にとっては設備の遊休化という深刻な事態に至った。石油企業の収益は圧迫され,過当競争が激化するという状況の下で,現在業界の統合,再編成が進められている。
戦後の日本企業による海外石油資源開発は,1958年に設立されたアラビア石油がサウジアラビアとクウェートの間にある中立地帯において,カフジ油田を発見した(1960)ことに始まる。海外事業は日本としては基盤が浅く,また多大なリスク資金を要するので,自主開発原油の増産を促進するために,67年に石油開発公団(のち石油公団。現,独立行政法人の石油天然ガス・金属鉱物資源機構)が設立された。これ以降,日本企業による国の内外におけるプロジェクトは急速に増加した。
→石油産業 →油田
執筆者:加藤 正和
石油の流出と海洋の汚染
世界の石油総生産量は,1981年で約29億t,そのうちの約10億tという膨大な量が海上輸送されている。このうちの約0.1%以上がなんらかの形で海に流出しているといわれている。1971年の新潟港沖ジュリアナ号原油流出事故,74年の水島重油流出事故,79年のメキシコ湾イクソトク油井爆噴,83年のイラク機の攻撃によるペルシア湾海底油田の損傷など,大量な油の流出事故は周辺海域の水産生物資源に多大な被害を与えてきたが,この傾向は近年の海底油田の開発の増加と,タンカーの大型化に伴って増加の様相を示している。ここで油とは,原油,重油,潤滑油,軽油,灯油,揮発油,アスファルト,その他原油,および原油から抽出される炭化水素油をいう。
油汚染は,水生生物に対して物理的,化学的作用を直接及ぼし,成育や繁殖などの機能を阻害したり,死滅させたりするだけでなく,間接的には,大気と水中との酸素の交換や光の透過を妨げたり,水温の変化をもたらすことで,生物の生息条件に悪影響を与える。干潮時に露出する海藻などは,油に汚染されたまま日照にさらされると枯死することがあり,また,光合成作用が阻害されたり,色素が退色することが知られている。貝類は油の成分を体内にとり込むことによって摂餌機能が麻痺し,ついには斃死(へいし)する。表層魚では,えらに油が付着すると細胞が破壊されて死亡する。ケロシンなど軽質油では,水中濃度0.01ppmで着臭が認められる。魚介類の餌料となる浮遊生物は,石油による汚染海域では成長阻害や死滅が起こる。油汚染による水産業の被害は,流出油量,拡散範囲,気象,海況をはじめ,その海域の漁業状況によって,その程度や内容が異なってくる。被害内容としては,漁獲物の汚染,死亡および成育異常,漁船,漁具,養殖施設などの汚損,休業ないし漁獲減少,漁場または漁法の転換,漁獲物の販売不能,返品,価格低落などがある。さらに,油の除去,漁場清掃などにあたる漁業者の負担は大きい。
油汚染による被害は,流出事故のような突発的なものばかりでなく,タンカーなどから排出されるタンク洗浄水,バラスト水やビルジなど廃油が,風波によっていわゆる廃油ボールとなり,沿岸に漂着して沿岸漁業に悪影響を与え,さらに海浜のアメニティを害する。このような油による海の汚染を国際的に防止する目的で,1978年〈1973年船舶による汚染の防止のための国際条約に関する1978年議定書(MARPOL73/78条約)〉がロンドンにおいて採択された。この議定書は82年10月1日,付属書Ⅰ(油類)について発効要件が充足されたことにより,83年10月2日に効力を生じ,日本においても〈海洋汚染及び海上災害の防止に関する法律〉の一部改正を行っている。
油が海上に流出したり,漁場に流入した場合,水産被害を最小限にくいとめるために,一刻も早く効果的な対策をたて処理することがたいせつである。そのために一連の通報体制が,海上保安庁,地方自治体,漁業協同組合を中心として構成されている。油による汚染の防除処理には,まずオイルフェンスで囲んで拡散を防ぐ。ついで,油回収船,油吸引装置,油水分離装置,油吸収材などで回収する。水深が深く,しかも海水の交流の大きいところでは油の物理的な回収に加えて,油処理剤で流出油を乳化分散させる方法も考えられている。水深の浅いところ,磯などでは,油処理剤の使用は,海産生物への影響が考えられるので望ましくない。生物影響のより少ない油ゲル化剤による処理回収も有効な手段である。
→海洋汚染
執筆者:吉田 多摩夫