日本にっぽんの城しろがわかる事典じてん 「長谷堂はせどう城じょう」の解説かいせつ はせどうじょう【長谷堂はせどう城じょう】 山形やまがた県けん山形やまがた市し長谷堂はせどうにあった戦国せんごく時代じだいの連れん郭くるわ式しきの山城やましろ(やまじろ)。現在げんざい、水田すいでんの中なかにある標高ひょうこう227mの独立どくりつ峰ほうの城山しろやま(館山たてやま)を城しろ域いきとしていた。最上もがみ氏しが本拠ほんきょとした山形やまがた城じょうの重要じゅうような支ささえ城じょうの一ひとつである。長井ながい氏しを滅ほろぼして置賜おきたま(おきたま)地方ちほうに進出しんしゅつした伊達だて氏しに対たいする防衛ぼうえい拠点きょてんだった。築城ちくじょう者しゃ、築城ちくじょう年代ねんだいは不明ふめい。1514年ねん(永えい正ただし11)、長谷堂はせどう城じょうは伊達だて稙宗(たねむね)により落城らくじょうした。この結果けっか、最上もがみ氏しの不利ふりは確定かくてい的てきになり、伊達だて氏しの下風かふうに立たつことを余儀よぎなくされた。この城しろが再ふたたび歴史れきしに登場とうじょうするのは1600年ねん(慶長けいちょう5)、関ヶ原せきがはらの戦たたかいと連動れんどうした奥州おうしゅう出羽いずは合戦かっせんで、長谷堂はせどう城じょうの戦たたかいの舞台ぶたいとなった。福島ふくしま県けんの会津あいづ、山形やまがた県けんの庄内しょうない・置賜おきたま地方ちほうを支配しはいした西にし軍ぐんの上杉うえすぎ景勝かげかつは、直江なおえ兼けん続つづけ(かねつぐ)を大将たいしょうとして2万まんの大軍たいぐんを擁ようして最上さいじょう攻ぜめを行おこない、この城しろに襲おそいかかった。最さい上方かみがたは志村しむら伊豆いず守まもる光安みつやすを城じょう将すすむとして約やく1000人にんの兵へいが籠城ろうじょうし防戦ぼうせんした。この城しろ攻ぜめの最中さいちゅう、関ヶ原せきがはらで西にし軍ぐんが敗北はいぼくしたことで上杉うえすぎ勢ぜいは撤退てったいを余儀よぎなくされ、最さい上方かみがたは同どう城しろを守まもりきった。この戦たたかいの後のち、坂さか光秀みつひでが3万まん石せきで入城にゅうじょうし城郭じょうかくの改築かいちくと城下町じょうかまちの建設けんせつを行おこなったが、1622年ねん(元和がんわ8)の御家おいえ騒動そうどうによる最上もがみ氏しの改易かいえきにより廃はい城じょう・棄却ききゃくとなった。現在げんざい、城山しろやま全体ぜんたいが城址じょうし公園こうえん(長谷堂はせどう城跡じょうせき公園こうえん)になっており、園内えんないには郭かく跡あとなどが残のこっている。山頂さんちょうからは、山形盆地やまがたぼんちを一望いちぼうでき、長谷堂はせどう城じょうの戦たたかいで直江なおえ兼けん続つづけが本陣ほんじんを置おいた菅かん沢山だくさんを間近まぢかに眺ながめることができる。JR山形やまがた駅えきから車くるまで約やく20分ふん。城山しろやまには5ヵ所かしょの登山とざん口こうがあり、山頂さんちょうまでは徒歩とほ約やく20分ふん。 出典しゅってん 講談社こうだんしゃ日本にっぽんの城しろがわかる事典じてんについて 情報じょうほう